第7回 アレクサンドロス大王の大遠征

○マケドニアの興隆

 前359年、ギリシア北部のマケドニア王国フィリッポス2世が即位。これが混乱続くギリシャ世界に大きな変革の波をもたらすことになります。
 マケドニア王国は、アテネなどから見るとあくまでも辺境の地。同じギリシャ人ながら、粗野で文化が遅れていると馬鹿にされていました。しかしフィリッポス2世が23歳で即位すると、財政の整備、軍政改革を行い瞬く間に国力をつけます。そして、前357年よりギリシャの各ポリスに侵攻を開始。その勢いはとどまるところを知らず、前338年、カイロネイアの戦いでギリシャ連合軍と戦いこれに圧倒的な勝利を収めます。

 そして各ポリスとコリントス同盟を結び、ギリシャをマケドニア下に統一するのでした(スパルタは参加せず。また、テーベは徹底的に破壊される)。ところが、理由は不明ですがフィリッポス2世は前336年に暗殺されてしまいます。そこで即位したのは20歳のアレクサンドロス3世、通称アレクサンダー大王(前356〜前323年、位前336〜前323年)です。

 アレクサンドロスはフリッポス2世の次男。兄が一人いましたが、知的障害を持っていたためフィリッポスはアレクサンドロスに対して徹底的に良い教育を受けさせます。その中の一環として有名なあの、アリストテレスを先生に、プトレマイオスなど同年代の貴族の若者と一緒に勉強させます。アレクサンドロスは軍人的なイメージが強いですが、その後死ぬまで学問好きであり続けました。

 また、フィリッポス2世が遠征で不在の場合はアレクサンドロスが国を守っていました(また、カイロネイアの戦いにはアレクサンドロスも参加)。ゆえに、国事についての経験は若いながらも豊富。そして何より親父が国の組織の大半を作ったものですがら、アレクサンドロスは恵まれた環境にありました。

○アレクサンドロス帝国


 前334年、アレクサンドロスはアケメネス朝ペルシアに対して遠征を開始します。付き従うのはマケドニア兵の他、諸ポリスから集められた軍隊です。また、軍の編成は重騎兵、軽騎兵、長い槍を持つ歩兵と、3つの機動力を使い分ける形にしました。
 そして破竹の勢いで進撃したアレクサンドロスは、前333年、イッソスに於いてダレイオス3世(前389頃〜前330 位336〜330年)率いるペルシア軍に快勝します(イッソスの戦い)。

 アレクサンドロスは降伏したペルシア貴族の地位を安堵し、また行政組織を変更しないことで地元の混乱を押さえることに成功します。さらに前332年には、エジプトにも遠征。ペルシアに抑圧されていたエジプト人達は、これを大いに歓迎し、アレクサンドロスはエジプトをあっという間に占領します。そして、ナイル川の河口ににアレクサンドリアという大都市を建設します(アレクサンダーの名にちなむ。なお、同種の街は各地に作られたが、その中でもエジプトのアレクサンドリアが発展した)。

 また、この時アレクサンドロスはエジプトで信仰されていた太陽神アメンの神殿にも参拝し(エジプトの支配者ファラオはアメンの子孫と信じられていたため)、自分がエジプトの支配者であることを示しました、と同時にエジプトに配慮をしたのでしょう。

 その後アレクサンドロスは北上し、バビロンスサとペルシアの重要な都市を陥落させてゆきます。そして前330年、ダレイオス3世は部下によって殺され、事実上、アケメネス朝ペルシアは滅びました。。こうして、アレクサンドロスはギリシャ、エジプト、小アジアの広範囲をその支配地域に治めます。しかし、アレクサンドロスの遠征はそれだけでは終わりません。中央アジアのバクトリアソグディアナ(現トルクメニスタン)にまで侵攻し占領。

 さらに前326年、アレクサンドロスはインダス川をわたり、パンジャーブ地方に侵入し、ヒダスペス(ジェルム)河畔からヒュファシス(ベアス)河畔まで進みます。しかし、いくらなんでも疲れた兵隊が「これ以上は無理です」と不満を述べ、さすがのアレクサンドロスもあきらめました。もちろん、この時までには最初からついてきた兵隊達の大半は戦死していたり、途中ではぐれたりしていたのは言うまでもありません。おそらく、アレクサンドロスの周りにはペルシアの人達やエジプトの人達が大勢いたことしょう。

 さてさて、アレクサンドロスはまた人種融合を目指します。そのためにはまず反乱を起こさせてはいけません。アレクサンドロスは、自らペルシアの習慣に従い、部下達にもそれを強制しました。このような姿勢は支配者には珍しいことです。ですが、それはアレクサンドロスの理想。ギリシャの人達にとってそれは苦痛でしかありません。

 また、アレクサンドロスはさすがにペルシアに染まりすぎました。ペルシアの衣装を身につけ、またかの地の習慣である平伏の礼をギリシャの人にも強制します。当然反対する人物もますが、処刑されます。

 さらに仕上げとばかりに前324年、ペルシア人の貴婦人とマケドニアの貴族との集団結婚、および自らダレイオス3世の娘スタティラと結婚を行います。ですが長年にわたる遠征は無理がたたったようで、前333年にアレクサンドロスは若くして病死。そして、彼が死ぬと結婚したものの多くは離婚し、人種融合の夢は消えてしまいました。

○後継者の抗争

 さて、アレクサンドロスは遺言で「強い者が我が帝国を支配せよ」と、後継者を決めませんでした。

 アレクサンドロスの死から間もなく、子供を身籠もっていた妻ロクサネアレクサンドロス4世を出産します。しかし、新生児では話にならず、しかも、アレクサンドロス3世の母オリュンピアスは政治的な野心があって王家を断絶させたといわれています(中央公論新社 世界の歴史第5巻によると。曖昧な表現のため、筆者にはよく解らない)
 そうなると当然、有力者達によるアレクサンドロス帝国の後継者争いが起きます。当初は、なるべく帝国を分割しない方向で争いが進みましたが、みな有力だったためどうしても分割ということになってしまいました。こうして、
1.マケドニア
 アンティゴノス1世(位 前306〜301年)による、アンティゴノス朝マケドニア(前306〜前168年) 
  *ただし、実際には混乱が続き、孫の時代にようやく安定した
2.エジプト
 プトレマイオスによるプトレマイオス朝エジプト(前305〜前30年)
3.シリア
 セレウコス(位前312〜前280)によるセレウコス朝シリア(前312〜前64年)
 
が成立しました。これを、ヘレニズム三王国と総称します。

 一方、ギリシャの諸ポリスはこの混乱の中で独立を果たそうと反乱を起こします。しかし、マケドニアのアンティパトロス(後継者争い初期の一人)に敗北し、特にアテネは民主政を終了させられ、一部の人間による合議制(寡頭政)に移行させられました。こうして民主政治は完全に幕を下ろし、アテネは、学問の街として存続します。

 スパルタもスパルタで、土地がなんと100人ほどの人間によって独占されるという状況に陥り、さらにこれを分配しようと改革を始めた国王アギスは反対派に殺され、あとは衰退への道を進むだけとなりました。

 また、セレウコス朝シリア。東から順に、前255年頃にはバクトリア王国(太守<サトラップ>ディオドトスによるギリシア人国家)が、前248年にはパルティア王国が独立し、衰退の道をたどることになります。

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