第11回 グラックス兄弟の改革と第1回三頭政治

○第1回三頭政治とカエサル

 スッラ死後に頭角を現したのが、ポンペイウス(前106頃〜前48年)です。ポンペイウスは閥族派で、スッラ麾下で戦功をあげて出世しました。

 そして、前述したスパルタクスの反乱は、まず大富豪クラッスス(前114頃〜前53年)によってスパルタクスが戦死。そして、北に逃れたその残党をポンペイウスが全滅させます。

 このため2人は、国民的英雄となり前70年に、執政官に就任。ポンペイウスはローマの東への拡張を図り、アルメニア王国を保護国化。さらに、セレコウス朝シリアを属州にします。なお、セレコウス朝最後の王はアンティオコス13世です。

 ポンペイウスの権勢は飛ぶ鳥を落とす勢い。東では皇帝のように崇められます。しかし、元老院が黙っておらず軍事権を取り上げます。さあ、困ったポンペイウス。そこに手をさしのべたのが、41歳の若きユリウス・カエサル(前100〜前44年)。彼の支援の下、クラッススと共に実力で元老院を押さえつけ、3人で権力を分立しました。これが、第1回三頭政治です。

 この三頭政治に真っ向から対立した人がいます。当代きっての雄弁家にして政治家のキケロ。執政官時代に反乱未遂の首謀者を裁くのですが、裁判の手続きを踏んでなかったためカエサルに追求され、これを恨みに思っていました。後世に、その弁論術が残るキケロですが、政治センスはどうだったのでしょうか?

 わざわざカエサルから、一緒に政治に参加しようと言われ、さらにポンペイウスから和解を斡旋されたのにもかかわらず拒絶。逆に三頭政治を壊す事を模索します。ですが、結束力は意外に堅く失敗。不遇をかこつ事になります。

 その後カエサルは、ガリア地方(今のフランス・ベルギー)に侵攻。ここのケルト民族を平定し、ローマ領にします。この時彼が書いた、ガリア戦記は名文として名高く、キケロですら賛辞しています。今でも売っているので読んでみてはいかがでしょうか。ちなみに、ガリア戦記に名文たる所以は、それまで歴史書、戦記書は、面白可笑しく読んでもらうために、誇張して書かれたものが多かったのに対し、これは事実を淡々と述べた点にあります。ただし、あくまで「それまでの」と比較してですが。



カエサルのフォロ(フォロ・ジュリアーノ)
紀元前1世紀、カエサルが、フォロ・ロマーノの北西部再建計画の一環で造営したエリアです。

○第1回三頭政治の崩壊とカエサルの最期

 さて、このまま続くと思われた三頭政治、思わぬところで崩壊します。それは、前53年、クラッススが功を焦り、中央アジアのパルティア王国と戦って戦死したのです。元老院は挽回のチャンス到来。ポンペイウスとカエサルを天秤にかけ、なんとポンペイウスを元老院側に引き込みます。そして、カエサルの属州総督任期切れと共に、彼の軍隊を解散するように要求します。カエサル、これはピンチです。
 これに対し、カエサルの取った行動はローマに進撃することでした。その中でルビコン川を渡る時における彼の言葉「賽(さい)は投げられた!」はあまりに有名です。そして、ローマ市民はカエサルに味方し、ポンペイウスを追い出し、そして追います。そのためポンペイウスは、目をかけていたプトレマイオス朝エジプトに援軍を要請します。

 そのエジプト王国は、男女二人の王が共同統治する事になっており、この時クレオパトラ7世(位 前51〜前30年)と、その弟プトレマイオス13世が在位していました。ところが、2人は仲が悪い。

 そんな中の援軍要請。プトレマイオス13世は独断で、頼ってきたポンペイウスを殺し、遺骸をカエサルの下に届けました。この時のプトレマイオス13世の部下の進言が「死人に口なし」(これが語源なのです)。ところが遺骸を見たカエサルは号泣し、丁重に葬ったといわれています。

 そこにお忍びでやってきたのがクレオパトラ(以後、7世は省略します)。
 カエサルはその美貌にうっとり・・・・と、これは下世話な話で、実際にはクレオパトラの雄弁に聞き惚れたというのが真相らしいです。なんと言っても、クレオパトラは数カ国語を自由に操る女性ですから。また、クレオパトラと手を組むことでの、政治的なメリットも考えたでしょう。

 そして、クレオパトラはカエサルの支援の下、プトレマイオス13世を倒す事に成功。そして、カエサルとの間に息子も生まれます。カエサリオンと名付けられ、彼はカエサルにとって唯一の息子でした。そしてカエサルは、おそらくクレオパトラとの長い政治的な会談の後、ローマに帰国します。そして、クレオパトラを連れてローマで凱旋式を行いました。その後、カエサルは、貧民の救済、属州政治を改革と頑張ります。

 ところが、カエサルは終身独裁官兼最高司令官インペラトール 皇帝の語源)なる長たらしい役職を創設し、就任し、元老院を無視して政治を行います。こうなると共和主義者らは「カエサルが王位を狙っているのでは?」と警戒。元老院の後押しもあったのでしょう。カエサルの養子ブルートゥス(前85〜前42年)、カッシウスを中心とするグループは、カエサルを刺殺しました。
「ブルートゥス、お前もか・・・」
は、余りにも有名な言葉。信頼した養子に裏切られたカエサルの最後でした。



元老院議事堂(クリア・ユリア)(フォロ・ロマーノにて)
 カエサルが起工し、アウグストゥス帝が紀元前29年に完成。さらに、ディオクレティアヌス帝が再建。規模は300人〜500人を収容可能で、現在の建物は、20世紀に復元されたもの。

トッレ・アルジェンティーナ広場(アレア・サクラ)
紀元前44年3月15日、この場所でユリウス・カエサルが暗殺されました。
具体的な場所は、写真の右奥のようです。

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