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○高度な土木技術 |
ローマのすごいところは、征服地にも道路・神殿、それからそれを応用した上水道である水道橋、フォロ(広場)、パシリカ(集会所)、円形闘技場、凱旋門といった建造物を次々建設していったことです。これにより、「すごいなあ」と被征服民に思わせ、尊敬させることに成功しました。それだけでなく例えば水道橋は安定した水の供給に寄与します。ローマは、征服地のインフラ整備をしっかり行ったのです。そうでなければ、あれだけの領土を維持することは出来ません。なお、スペインでは現在も使用されている地域があります。それほど、しっかりとした作りなのです。|
○文学 |
歴史の分野では、リヴィウス(前59〜前17年)がローマ史を、タキトゥスがゲルマン民族について「ゲルマニア」を、カエサルがガリア遠征について「ガリア戦記」を書いています。
| ○衣食住、奴隷の話 |
但しこの奴隷。主人によって解放されることもしばしばありました。戦争で奴隷になった人達が多く、主人の中にはそれを哀れんで、自分が死ぬ時に「我が家に尽くしてくれた***を自由にする」と遺言することがしばしばだったのです。
もう一つ、ローマで忘れてはいけないのが服装。あのローマ人達の白い絹の服装は、あまりに有名ですがローマの絹ではありません。なんと、遠く中国の漢から中央アジアを通り、輸入されたものです。そのため、中央アジアの大陸横断道路はシルク=ロード(絹の道)と呼ばれます。しかし、ローマの人達が漢の国の存在を知ることはありませんでした。逆に漢では西にある国の存在に興味を持ち、使者を派遣します(甘英という人物)。しかし、シリアにおいて「この後まだ数十年かかるよ」と脅され、引き返してしまいました。シリアの商人達が、ローマと漢が直接交易を始め、中間マージンが消えるのを恐れたからです。
その後、2世紀にはヴェトナムまでマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の使いが派遣され、「大蓁国王安敦」と歴史書に記されたとされますが、はたしてアントニヌス帝の使者なのかは不明です。
このように、交易は盛んでありローマの金貨は中東、さらには東南アジアでも発見されます。国際通貨として使用されたのです。実際、小麦粉、香辛料などローマで使われた食材はエジプトを始め、遠くは東南アジアから輸入されたものが多く見られます。
それから、忘れてはいけないのがポンペイ。ナポリ近郊にある古代都市で、79年にヴェスピオ火山の噴火で、住民達と共に火山灰の下に埋まってしまいました。幸か不幸か、このために、発掘された後、現在の私たちにローマ人達の街や、暮らしぶりを見せてくれます。