第20回 ブルガリア帝国とビザンツ帝国

○今回の年表

681年 ブルガール人がトラキア(ブルガリア)地方に侵入し、第1次ブルガリア帝国を建国。
794年 (日本) 桓武天皇、平安京へ遷都。
811年 ビザンツ(東ローマ)帝国皇帝、ニケフォロス1世がブルガリアに侵攻し、戦死。
584年 (中国) 分裂状態から、隋が統一を果たす。
860年頃 ブルガリアのポリス1世、ギリシャ正教を受容。
960年 (中国) 趙匡胤が、「宋」を建国。
962年 (インド) ガズナ朝が建国される。
962年 (ドイツ) 東フランク王国でオットー1世が即位。俗に言う神聖ローマ帝国が誕生。
1014年 ビザンツ帝国のパシレイオス2世、ブルガリア帝国を併合。
1054年 ギリシャ正教会、ローマ教会と断交。
1055年 (イラク) セルジューク朝がバクダードに侵攻、スルタンを称す。

○ブルガリア帝国


 スラブ人やマジャール人といった民族が東ローマ(ビザンツ)帝国を圧迫していたことは前述しましたが、ここにもう一つ、ブルガール(ブルガリア)いう民族も歴史の表舞台に登場します。ブルガリアヨーグルトで有名なように、乳製品を中心とする生活をおくる遊牧民です。

 681年、トルコ系のブルガール人は、ビザンツ帝国が支配していた現在のブルガリア(ローマ帝国時代は、トラキア等と呼ばれた地域)に侵入し、第1次ブルガリア帝国を建国します。

 そして彼らは、スラブ人と同化していきます。これがブルガリア人です。彼らは領土を拡大すると、ビザンツ帝国と争い始めます。その勢いは、なんと811年に自らブルガリアに攻め込んできたビザンツ皇帝ニケフォロス1世位802〜811年)を敗死させると、コンスタンティノープルにまで侵攻します。が、これはやはり城壁に阻まれ失敗します。

 その後、ビザンツ帝国はイスラム勢力の衰退と共に再復興を果たし、ブルガリア帝国はビザンツ帝国と和議を結びます。864年のブルガリアのポリス1世位852〜889年)はビザンツのキリスト教である、東方正教会(ギリシア正教)を受容します。

 ところがその第3子シメオン1世位893〜927年)はビザンツと断交。外征の連続で国土をエーゲ海、アドリア海にまで広げ大帝国を作ります。そのため、コンスタンティノープル宗主教から「皇帝」の冠をもらいます。彼は、さらに「ブルガリア人とローマ人の皇帝」と名乗り、ブルガリア教会を東方正教会から独立させます。

 しかし、華々しい戦果の裏で、国力が疲弊していたのでしょう。彼の死後は内紛と経済の破綻で衰退し、ビザンツに従属します。そして巻き返しを図ろうとしたところ、1014年にビザンツ皇帝バシレイオス2世位976〜1025年)により併合されてしまい、滅亡しました。

 さらに12世紀には独立を果たしますが(第2次ブルガリア帝国)、東から侵攻してきたモンゴル軍や近くにいたセルビアといった国に圧迫され、さらに1393年にオスマン朝によって征服されてしまいました。

○ビザンツ帝国復権!と思ったら・・

 ビザンツ帝国は、前述のバシレイオス2世の辺りで、再び繁栄を享受します。理由はビザンツ軍の戦術がうまくいったことと、イスラム教の中での内紛があります。そして、一時はイスラム勢力に奪われてしまった小アジア地域も奪い返し、ユスティニアヌス2世以来最大の領土となります。

 この時期に古典の研究や百科事典の編纂など、学術・芸術は大いに発展。数学・天文学にも研究の手をつけます。ところが、イスラム世界の技術・文化には目を向けず、さらにまたまた暗愚な皇帝が登場し、軍隊も役に立たなくなります。

 さらに1054年、ついにローマ教会と決裂し、別々の道を歩み交渉を絶ってしまいます。

 その上、セルジューク朝トルコ1038〜1194年)がビザンツの小アジア領土を奪ってしまい、領土は大きく減少します。そのため、アレクシオス1世位1081〜1118年)は、分裂したとはいえ同じキリスト教であるローマ教皇に対し援軍を要請することにします。それが、十字軍です。この話については、また今度。

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