○カール五世の登場

 さて、またまた政略結婚。スペイン王フェルナンド・女王イザベル夫妻を覚えていますでしょうか。彼らは、イタリアにも権益を持っていて(ナポリ・サルディーニャ)、ここを誰かに守ってもらおうと考えます。そこで、目をつけたのがマクシミリアン1世。彼の嫡子フィリップに、うちの娘フアナをどうだ、さらに我が息子ファンに、お宅の娘マルガレーテをどうだ、と二重結婚を申し込みます。

 マクシミリアン1世には、この二人の子供しかいなく「う〜ん」と悩みますが、結局受諾。1469年に二組のカップルが誕生します。ところが、ファン王子は体が弱かったため死去。マルガレーテは失意のうちに親元に帰ります。困ったのはイザベル女王。ここも残るは他に娘キャサリンがイングランド王ヘンリー8世に嫁いでいましたが、子供を産んでいませんし、後述しますが、ヘンリ8世に離婚されます。

 と、なると娘フアナだけです。このフアナ、長女エレオーレ、長男カール(曾祖父シャルル突進公にちなむ)、次男フェルナンドなど二男四女を生みますが、発狂してしまいました。

 一人娘フアナは発狂、その夫フィリップは事故で死亡、と悲しみに包まれる中、イザベル女王も死去しました。
 ここで困ったのが実は夫フェルディナント2世。実は、カスティリャ王としての地位は奥さんあってのもので、彼女が死去すると追い出され、なんとか摂政の地位を得たものの、事実上のご隠居さんになります。

 そして1516年、王位は長男カールに行きます。これが、スペイン王カルロス1世。もう登場しましたね。スペイン・ハプスブルク王国の登場です。カスティリャ・アラゴン双方の位を継いだため、事実上のスペイン王国はここからがスタートです。

 マクシミリアン1世は孫達、つまりカールの弟フェルナンドと、その妹マリアを使い、ハンガリー王国とも二重結婚。ここも、マリアの夫・ラヨショ1世が、オスマン・トルコ帝国と戦って戦死。男系後継者無く、フェルナンドに王位が回ってきて領土が拡大しました。

 で、カルロス1世。マクシミリアン1世が亡くなると、1519年にローマ皇帝に選ばれます(カール5世)。当たり前のような感じですが、実はフランス王フランソワ1世、イングランド王ヘンリー8世も対立候補。なにも、地元の人でなくても良かったのです。が、これは大富豪フッガー家の資金援助で選帝侯達に選挙工作。

 これに、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は応じなかったものの、しかし彼もやっぱり見ず知らずの他人よりハプスブルクの方が良いと考え、結局カール5世が選ばれます。が、これによりフランスとますます対立。ヘンリー8世に対しては、カール5世は直接会って親交を結びました。

 が、フランソワ1世の腹の虫は収まらない。先ほどハンガリー王を戦死させたオスマン・トルコ帝国スレイマン1世と同盟を結び、カール5世を苦しめることになります。しかも、実はローマ・カトリック教会も裏で同盟の仲介をするという、もはや恥も何もあったものではない、とんでもない構図で争うことになります。人名たくさん登場。ご免なさい。

 ちなみにフランソワ1世。1525年にカール5世に大敗し捕虜になります。この時、もう2度と攻め込みません、領土も割譲しますとマドリード条約を結ばされ、釈放してもらいますが、帰還すると「さあ、今度は負けぬぞ」と条約を無視して教皇クレメンス7世のお墨付きで翌々年にはまた侵攻。これも29年には敗北します。

 しかしあきらめないフランソワ1世はその後も侵攻してきます。本当に執念深い・・・。

○宗教改革

 さてさて話はローマに。メディチ家出身で悪名高い教皇レオ10世は、聖ピエトロ大聖堂の新築資金調達のために、ドイツで贖宥状、いわゆる免罪符を売りまくりました。教会のために、これを買えば過去の罪も消え、救われるってね。なわけねーだろ、と反旗を翻したのがヴィッテンベルク大学のマルティン・ルター神学教授です。

 1517年、彼は魂の救いはただキリストを信仰することにあり、と確信し贖宥状は嘘だ、と95箇条の論題を発表します。中世にも教会堕落追求運動はありましたが、いずれも異端として弾圧(例:フスの火刑)。ですが、今度は支持者も多く運動は拡大します。

 当初、レオ10世は気にもしていませんでしたが、ルターはさらに、「法皇なんて聖書には書いていないぞ」、と法皇の存在も否定したため、さすが破門。しかし、もはやそんなこととは関係なくドイツを中心に大闘争へと発展し、いわゆる新教VS旧教という構図になります。
 
 これに対しカール5世。保守派のドンのような人物で、古き良き時代の教会システムを信じてやみません。ところが、そんなカール5世も、この教会の退廃ぶりには激怒しており、取り敢えず1521年にヴォルムス帝国議会を開いて、ルター派の代表とローマ教会の代表と徹底討論させます。

 ここでルターの行動を基本的には禁止したものの、「ルターの方が正しいんだよなぁ」と、内心思ったらしく、基本的には新教を禁止するのですが、その後ルターの行動を「ちょっと」支持しました。これには、オスマン・トルコ帝国がウィーンに向けて侵攻し、包囲してきたため、余計な混乱を招きたくないとの思惑もあります。1529年のことです。(この時、ウィーンは陥落寸前でしたが、オスマン海軍がアドリア海で敗北したらしく、撤退しました。)。

 ところが、これがきっかけとなりルター派の勢力が拡大し、ローマ教会、すなわちカトリックと争い始めます。カール5世、それは望んでいません。そんなわけでルター派を認めない、とします。これに対し、ルター派は抗議(プロテスト)。これにより、彼らはプロテスタントと呼ばれます。

 ルターは迫害の運命に遭いますが、先ほど登場したザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、彼を保護し、活動させます。フリードリヒ3世は元々はカトリックでしたが、こちらは平和主義者。とにかく争いを好まなかったことで世に名を残しています。そして、この時ルターは「新約聖書」のドイツ語訳を完成。広く一般に人にも聖書が読んでもらえるようにします。

 しかし、フリードリヒ3世の願いとは裏腹に、1524年、まず農民が一揆を起こします(ドイツ農民戦争)。彼らは、ミュンツァーに率いられ、プロテスタント認めろ!、そして農奴制を廃止しろ!!と立ち上がります。彼らは、聖書ではなく、さらに原始的な聖霊に価値を見ていたため、ルターを支持したのにもかかわらず、ルターに「急進的で嫌い」と言われ、また、農奴制廃止は困る諸侯によって鎮圧されました。ただ、またフリードリヒ3世は寛容政策をとっています。

 そして1531年にルター派を支持する諸侯はシュマルカルデン同盟を結び、フランスと同盟して戦争を起こします。彼らは、教会権力から抜け出し、そして強力になるハプスブルク家を追い出すのが狙いです。

 が、この同盟口数が多いだけで結局はカール5世に大敗を喫し、フリードリヒ3世も捕まって島します。
結局1555年のアウグスブルク宗教和議で、諸侯はカトリックもプロテスタントも好きな方を選べる、領民はこれに従うとしました。

 なお、カール5世はそこまでして信仰するローマ・カトリック教会を守ったのですが、なんと肝心のローマ・カトリック教会からは、イタリアにおける権益の対立、教皇権の失墜などのカール5世との関係で、フランス、そしてイスラム国のオスマン・トルコ帝国をカール5世に差し向けるという、とんでもない行動を取るのです。もちろん、表沙汰にならないように・・・。


↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif