第36回 三十年戦争! 神聖ローマ帝国を巡る攻防

○今回の年表

1618年 神聖ローマ帝国で三十年戦争発生。スウェーデン・デンマークとフランスが介入。
1618年 ファルツ/ボヘミア戦争(〜23年)。
1625年 デンマーク戦争(〜29年)
1630年 スウェーデン戦争(〜35年)
1634年 ヴァレンシュタイン暗殺される。
1635年 フランス戦争(〜48年)
1638年 オスマン・トルコ帝国(ムラト4世)、イラクを併合する。
1642年 (イギリス)ピューリタン革命(〜49年)。チャールズ1世の処刑とクロムウェル独裁。
1643年 ルイ14世即位。
1644年 (中国)明が滅亡し、満州族の清が中国を統一する。
1648年 三十年戦争終結。初の国際条約・ウエストファリア条約締結。スイス独立が承認。

○三十年戦争

  元来昔からの大小の両方国家に別れていたドイツ地域。神聖ローマ帝国はその微妙なバランスの上に君臨していたわけですが、宗教改革後に情勢が一層不安定に。カール5世後は彼ほどの能力を持つハプスブルク家皇帝も出なく、ついに1618年に三十年戦争と呼ばれる大きな戦争が起こります。

 というわけで、この戦争。基本的にはカトリックVSプロテスタントなんですけど、よく見ればハプスブルク家VS反ハプスブルク家という構図なんです。だから、前回見た通りフランスのルイ13世は、自国ではプロテスタントを弾圧しているのに、ドイツではプロテスタントを支援しています。

 この戦争、もちろん1つの戦争を30年もやったわけではありません。
 ファルツ・ボヘミア戦争(1618〜25年)、デンマーク戦争(1625〜29年)、スウェーデン戦争(1630〜35年)
 フランス戦争(1635〜48年) の4段階に分けられます。

○ファルツ・ボヘミア戦争(1618〜25年)

 まず最初の勃発の原因。それは、ボヘミア(べーメン)のプロテスタント達が、カトリックに迫害されているので困っていると、ボヘミア国王フェルディナント2世(ハプスブルク家 後に神聖ローマ皇帝に)に調停を依頼したところ、逆に弾圧されます。

 そこで、1618年5月23日、プラハのプロテスタント議員たちが宮殿に侵入し、国王参議官ら3人を窓から突き落とします。これを「窓外投下事件」といい、これを合図にドイツのプロテスタント達が立ち上がり、トゥルン伯を中心に諸侯も決起。福音同盟を結成し、反ハプスブルクとして戦います。

 が、内部でルター派とカルヴァン派で対立。これに対し、神聖ローマ皇帝となったフェルディナント2世は、ティリ伯ヨハン・セルクラエス(1559〜1632年)に命じ、徹底的に鎮圧。福音同盟を解散に追い込み、最後の拠点ファルツを制圧。カトリックへの改宗を住民達に強制しました。

○デンマーク戦争(1625〜29年)

 ところが、ここでデンマークが登場。何故かというと、ドイツ諸侯達が出陣を要請したからです。
 当時ノルウェー王も兼ねていたクリスティアン4世(1577〜1648年)は「これを口実に、領土拡大が出来るわい」と判断し、1625年春、さしたる抵抗もなくドイツのボヘミアに侵入してきます。

 そこへ、ボヘミアの傭兵隊長アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(1583〜1634年)は、皇帝フェルディナント2世のために強力な傭兵部隊を結成し、フェルディナント2世は彼を皇帝軍の総司令官任命。また、ティリ伯も反撃に転じ、クリスティアン4世を敗走させるに至りました。彼らが通過した町や村は、略奪などでおびただしい死者が出たと言われています。

 こうして、クリスティアン4世の野望は砕かれ、1629年にリューベックの和約が結ばれ、以後スウェーデンはドイツに侵入しないことと、ドイツ内における彼の領土の割譲を命ぜられました。

○スウェーデン戦争(1630〜35年)

 ところが、今度はフランスのルイ13世、及び宰相のリシュリューを刺激してしまった。「まずいな・・・このままでは」というわけで、彼らはカトリックでありながら、熱狂的なルター派のスウェーデン国王グスタフ2世(位1611〜32年)と同盟を結んで資金援助を行います。

 そしてグスタフ2世(グスタフ・アドルフ)は、1630年に北ドイツ・ボンメルンに侵入。
 1631年にドイツのライプツィヒ北方の小さな村、ブライテンフェルト郊外で行われた、ブライテンフェルトの戦いで、ザクセン公国を味方につけたスウェーデン軍は、ティリ伯率いる神聖ローマ帝国に圧勝し、翌年にはティリ伯を宣しさせます。

 そのため、神聖ローマ皇帝のフェルディナント2世は、一時「クビだ!」としていたヴァレンシュタインを総司令官に再任命します。そして、ドイツのライプツィヒ南西、リュッツェン近郊で行われたリュッツェンの戦い(1632年)で、グスタフ2世を戦死させました(戦い自体はスウェーデン軍の勝ち)。

 この後、プロテスタント陣営の傭兵たちを率いるベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル(1604〜39年)が、スウェーデン軍を指揮し、ヴァレンシュタインと戦いますが膠着状態に。無意味な戦いを続けても仕方がないので、ヴァレンシュタインは和平交渉を始めました。

 ところが、「とんでもない!裏切り行為だ!」と、フェルディナント2世は激怒。「奴がいなくても戦争に勝てる。むしろ裏切られたら怖い」、おそらくそう考えた皇帝は、1634年にヴァレンシュタインを暗殺します。そして、同じハプスブルク家であるスペインの援助の下、1634年にドイツのネルトリンゲン郊外で行われた、ネルトリンゲンの戦いで、スウェーデン軍・ベルンハルト軍(ドイツのプロテスタント諸侯の軍勢)を叩きのめし、1635年にプラハの講和を結びました。

 ちなみにベルンハルトは、ザクセン=ヴァイマル公ヨハン3世の第11子で、傭兵として将軍クラスで活躍しました。

○フランス戦争(1635〜48年)

 そこで、ついに重い腰を上げたのが、ハプスブルク家の宿敵ルイ13世のフランス。1635年、まずはスペインに宣戦布告し、38年に神聖ローマ帝国にも宣戦布告します。

 これにベルンハルト軍もフランス軍に雇われ、そしてスウェーデン軍も呼応し神聖ローマ帝国内をどんどん攻略します。
(ただし、健康を害してベルンハルトは翌年に死去) 

 そして10年が経過し、「そろそろ降伏したらどうだ」とフランス・スウェーデンは和平を持ちかけますが、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント3世は、それでも勝利への望みを捨てずに抵抗を続けます。

 ですが1648年、ついに和平条約に調印することになりました。もはや、敗北は決定的だったのです。これが、近代国際法上初めての国際条約と言われる「ウエストファリア条約」。これによって、神聖ローマ帝国は、ドイツでのカルヴァン派を認め、ネーデルランドとスイスの独立を、正式に認めることになります。

 また、近代的な意味の「条約」というものがここからスタートすることになりました。

 そしてドイツ国内は、戦争、それから傭兵達による虐殺や略奪により、人口が15〜20%、あるいはそれ以上も減少し、経済活動が停滞。また、神聖ローマ帝国というものが有名無実化し、オーストリアやハンガリーなど東欧を中心とするハプスブルク家の領土とドイツの各諸侯領へ、実質的に分裂することになりました。

 上写真はチェコのプラハにあるカレル橋(世界遺産)。ヴァルダヴァ(モルダウ)川に架かる、プラハ最古の石造りの橋(15世紀初頭に完成)で、三十年戦争が終わる1648年、侵攻してきたスウェーデン軍との間で、この橋の上で条約が結ばれました。

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