第39回 清教徒&名誉革命〜イギリス立憲政治への道

○今回の年表

1616年 シェークスピア、徳川家康死去。
1618年 三十年戦争(オーストリアVSスウェーデン・フランス・ザクセンなど)スタート。
1620年 ピューリタン102名を乗せたメイフラワー号、アメリカへ。
1628年 イギリス議会、チャールズ1世に権利の章典承認を求める。
1644年 (中国)明が滅亡し、満州族の清が中国を統一する。
1648年 三十年戦争が終わり、最初の現代的国際条約であるウエストファリア条約が締結され、スイス・オランダが独立を承認される。。
1649年 ピューリタン革命(42〜49年)。チャールズ1世、処刑され、共和制に。
1652年 第1次英蘭戦争(〜54年)。
1658年 神聖ローマ帝国で、レオポルド1世が即位。
1660年 王政復古。チャールズ2世即位。
1661年 (フランス)ルイ14世が、直々に政治を開始する。
1682年 (ロシア)ピョートル1世(大帝)即位。
1688年 イギリスで名誉革命が起こる。翌年、権利章典が発布される。

○ジェームズ1世とピューリタン


さて、エリザベス女王には愛人ぐらいはいたものの、結婚をせず嗣子無いまま死去しました。これによって、テューダー朝は断絶。そのため、遠戚に当たるスコットランド王ジェームズ1世が即位します(位1603〜25年)。ヘンリ7世の娘マーガレットの曾孫に当たります。これが、スチュアート朝です。こうして、ブリテン島は1人の王が統治することに。ここからは、イギリスと呼ぶことにしましょう。

 この頃、イギリスでは市民階級の力が強まり、農村では領主を中心とする封建制度が崩壊し、独立自営農民(ヨーマン)と呼ばれる階層が生まれます。そして、イギリスの中核として力を持ったのが、ジェントリ。新興地主層です。これが、いわゆるジェントルマンの原型です。彼らは、当然自分たちの力を伸ばそうと考えます。その舞台となるのが、議会。

 ところが、ジェームズ1世は絶対主義のお得意技「王権神授説」つまり、王は神から権力を与えてもらっているという論を展開して対抗し、さらにイギリス国教会をバックに何かと王と神を結びつけて政治を行います。さらに、大商人を保護したため新興地主層は怒る。特にこれに対し、真っ向から対立したのがピューリタン。清教徒とも言われるカルヴァン派の人々です。

 もちろん、ジェームズ1世はこれを弾圧します。
 ちなみにこの時(1620年)、ウィリアム・ブラッドフォード(1590〜1657年)などに率いられたピューリタン教徒102名が、メイフラワー号に乗ってアメリカに渡ったのは有名です。彼らのことをピルグリム=ファーザーズといって、厳しい航海の末、ニューイングランドにプリマス植民地を建設することに成功しました。ちなみに途中で、メンバーの足並みが乱れそうになったので、メイフラワー誓約を締結し、この決まりに全ての人が従うようにしました。アメリカで最初の成文化された憲法とも言われます。

 そうそう、アメリカ合衆国の休日に感謝祭と言うのがありますが、これはブラッドフォードたちが入植後、最初の秋の収穫を祝い、近隣のアメリカ先住民を招いてお祭りをやったことに由来します。そしてその後、リンカーン大統領が感謝祭の全国的な休日化を正式に表明して今に至ります。

 おっと、話がずれました。
 ところで、イギリスは宗教関係が複雑なんですね。
 イギリス国教会は名目上はカルヴァン派ですが、内実はカトリックと同様でした。一方でスコットランドは長老派と呼ばれるカルヴァン派が盛ん。彼らはピューリタンよりも穏健です。またイギリスには、純粋なカトリックも存在していました。そして、これらが政治と絡んできます。これを念頭に見てください。

○絶対王政の失敗

 ジェームズ1世の跡を継いだのが、息子のチャールズ1世(位1625〜49年)。彼も同じような強権で政治を執ったため、議会は権利の請願を採択します。これは、

 ・王は議会の承認無しに税を徴収するな
 ・法律を無視して国民を逮捕するな!
 とまあこんなわけです。

 ところが、
「なら議会なんかいらねーよ」
 と、チャールズ1世は議会を解散し、11年間も招集せず、専制政治を行います。

 これに変化がでたのは、チャールズ1世がスコットランドに国教会を強制させようとして反乱を招いた時です。
 戦費が欲しいからチャールズ1世は、議会を招集します。そろそろ、言うこと聞いてくれるかな?と言う考えでしたが甘い。議会は「反対〜!」の声をあげ、チャールズ1世は3週間で、またまた解散します(1640年 短期議会)。が、反乱がなかなか鎮圧出来ず、やむ終えず議会を招集(1640〜53年)。ところが、これも反対の声ばかり。

 そして1642年、王党派と議会派の間で内戦が勃発します。



クイーンズ・ハウス  1615年から1637年にかけて、国王チャールズ1世が王妃アンのためにロンドンに造らせた邸宅。イギリスで初めてのパラーディオ様式の宮殿でしたが、一時期の共和制時代に略奪や破壊に遭い、一部が残存しています。

○ピューリタン革命

 この内乱は、まず国王軍(王党派)がヨーク地方を、議会派はロンドンを占領しこれを舞台に戦闘が繰り広げられます。最初、国王軍優位に戦闘が進められますが、議会派のオリヴァー・クロムウェルらが鉄騎隊という熱いピューリタン魂の軍団を結成。これが強い強い。統率がとれているんです。

 1645年6月に国王軍に致命的な打撃を与え、46年5月、国王はスコットランド軍に降伏します。議会は、今度こそ国王に改革を約束させようとしますが、クロムウェルら急進派(独立派)は、いっそ国王を殺してしまえ!と言う。これに議会の穏健派(長老派)と対立。

 そうこうしているうちにチャールズ1世が逃亡。彼は、スコットランドが信仰する長老派を国教にすることを約束し、同盟を結び反撃を開始! 再び戦端が開かれますが、クロムウェルにやられてしまいます。

 1649年、議会はチャールズ1世を処刑しました。そして、君主制を廃止。
 独立派とクロムウェルを中心とする体制がスタートします。



バンケティング・ハウス  ロンドン中心部にある建物で、元々はヘンリー8世が建てさせた部屋数約2000という、壮大な規模のホワイトホール宮殿が火災によって宮殿の大半を失う中で残った部分で、祝宴の場として使われたそうです。
 このページでこの建物を紹介したのは、清教徒革命(ピューリタン革命)時、国王の座を追われたチャールズ1世は、ここの窓(現在はふさがれて壁)を通って断頭台に上り、処刑されたから。まさに歴史の舞台ですね。

○クロムウェル独裁

 さて、権力の座に就いたクロムウェルは、実質国王のごとく振る舞いました。
 なんと、議会においては財産と財産権の平等を訴える水平派を弾圧。また、王党派残党討伐を口実にアイルランドに侵攻。先住民から土地を没収し、イギリスの植民地にします。これが今でも尾を引いているわけです。

 また、スコットランドはチャールズ1世の息子・チャールズ(2世)を後継に抗戦しますが、敗北。
 チャールズはフランスへと亡命しました。

 またクロムウェルらは、日本との貿易に見られるように海運国家として力をつけてきたオランダに対し航海法を発布。オランダ船はイギリスの港に入港させない、として打撃を与える。オランダに対する挑発です。これに対し、第1次英蘭戦争(1652〜54年)が勃発。イギリスの勝利に終わります。イギリスとオランダの関係については、最後にまとめてお話しします。

 一方で議会とクロムウェルが次第に対立するように。そこで彼は軍と手を組み、1653年には終身の護国卿に就任。独裁体制を確立します。そして、彼の死後は息子リチャード・クロムウェルがあとを継ぎます。彼も独裁体制を進める。

 これに「リチャードよ、お前もか!」とこれに国民は反発します。
 そして議会では、日陰者となっていた長老派と王党派が妥協。取り敢えず、こいつを追い出そうと共闘を開始します。

 リチャード・クロムウェルの運命や如何に! 後半に続く。

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