
ということで、当時フランスに亡命していたチャールズ2世が帰国し即位します(位1660〜85年)。何でイギリスの宿敵フランスに亡命していたかというと、国王ルイ14世が従兄弟だったからです。 このように王家って、ある意味で国境なんて関係なく、くっついていて、親戚同士で手を組んだり、戦ったりしているんですね。標準語はフランス語だったり・・・(笑)。 さて、帰国するとチャールズ2世は、王政復古を宣言し、リチャードは辞任しました。もっとも、この時復活したのは議会。議会が再び力をつけたのです。ところがチャールズ2世はそれが解らなかったらしい。 再び専制政治を行おうとするもんだから、議会は審査法(1673年)で官吏と議員を国教徒にかぎると制定します(フランスに染まったチャールズが、カトリックを優遇したため)。さらに、そして人身保護法(1679年)で国民の不当逮捕を防ぐようにします。 しかしチャールズ2世の弟で、後を継いだジェームズ2世(1685〜88年)もカトリック勢力の復活と反対勢力の大弾圧、専制政治を行ったため、1688年、議会はオランダ総督ウィレム3世を招きます。ジェームズ2世はアイルランドで抗戦を試みますが敗北。フランスに亡命します。 このウィレム3世というのは何者か。 彼は、父がオランダ総督ウィレム2世、母がイギリス国王チャールズ2世の娘、メアリ。さらに、妻がイギリス国王ジェームズ2世の娘メアリという、イギリスとすごく深い血のつながりのある人物でした。というか、メアリが2人も。何だか紛らわしいですね。 もう少しまとめてみましょう。 彼は、チャールズ2世の孫で、その弟ジェームズ2世の娘婿だ!・・・すごい話ですね。 あ、さてさて。2人は夫婦共同で即位し、ウィリアム3世(位1689〜1702年)、メアリ2世(位1689〜94年)となります。ウィリアム3世は、その昔フランスからイングランドを征服したノルマンのウィリアム1世と同名と言うことで、ちょっと不思議な巡り合わせとして受け止められたようです。 そして、ウィリアム3世は権利の章典を承認し、人権保護法も受け継ぐ。また、イングランド銀行の設立、出版の自由の促進など、議会を中心とした政治が稼働します。国王は苦々しく思ったようで対立しますけどね。 で。 この革命は殆ど血を流さなかった、ということでこの革命を名誉革命と言います。しかしその名称の裏側では、ジェームズ2世支持勢力の強かったスコットランド、アイルランドでは武力弾圧が行われ、多くの血が流れています。 なお、単なる余談ですが、チャールズ2世がフランスに亡命していた頃、弟のジェームズ2世はスペイン軍に入ってイギリスと戦っています。そして、兄が即位するとイギリスに復帰し、海軍長官に任命され、カトリックに改宗。この改宗がなければ、まだ運命も変わったのかもしれないんですけどねえ。
そして、アン女王にも子供がいなかったため、その後をドイツのハノーヴァー選帝侯が継ぎます。これがジョージ1世(位1714〜27年)。彼は、このページの一番最初に登場したジェームズ1世の曾孫ですが、英語がわかりません。しかも、いきなりイギリスに連れてこられても、内情が何がなんだかさっぱり解らない。そこで、国王は政治に関与しない、という体勢を作り、議会中心の政治が始まるのです。いわゆる「国王は君臨すれども統治せず」。 彼は、即に消極的だった議会与党のトーリー党を信頼せず、ホイッグ党に政権を任せます。これでウォルポール内閣が成立し、同時に内閣は議会に責任を負うという責任内閣制(議院内閣制)という制度が誕生。これは今と同じ体制ですね。もっとも、参政権がジェントリ以上の上流階級だけでしたから、国民主権と言うにはまだ遠い状況です。 しかも、今でも買収工作・賄賂なんて、裏で頻繁に行われていますが、この時代はもっとひどい。当のウォルポール自身が一番買収工作で有名で、「人の命は金で買える」と発言した!と言われています。もちろん、誤解ですけど、それに近いことは言っていたようです。 ちなみにこの人物。元々は田舎の地主。それが、首相まで上り詰めたのですから、まさに立身出世の典型。当たり前ですが、ただ買収工作が上手いだけでは、ここまでにはならない。人の気持ちを機敏に察し、それに適切に対処する。それが、ウォルポールの真骨頂だったようです。 さて、今度はオランダの視点から眺めていきましょう。 次のページ(名誉革命とオランダ)へ 前のページ(ロシア帝国の成立と発展)へ |