1791年

○国王亡命未遂事件と王政の廃止

 さて、ルイ16世にしてみれば、自分の身がどうなるのか不安でたまらない。
 そこに登場するのが、王妃マリー・アントアネットです。彼女は「私の実家である神聖ローマ帝国(オーストリア)のハプスブルク家の援助をもらって革命に対抗しましょう」と夫に進言し、6月、国王一家は国外逃亡を図ります。ところが、途中で捕らえられてパリに連れ戻されました(ヴァレンヌ逃亡事件)。*前ページではル・シャブリエ法発布と同じ月です。

 これはルイ16世達にとって命取りになります。
 「国王は我々を見捨てて、むしろ外国の援助で我々を弾圧しようとしている!」
 と、人々の信頼を大きく損なわせることになります。実際、神聖ローマ帝国皇帝レオポルド2世(マリー・アントアネットの兄)は、隣国であるプロイセン国王に「一緒にルイ16世の支援をしよう!」と呼びかけているのです(ビルニッツ宣言)。

 またこの時期、パリの貧困層は王政の廃止を訴え広場に集まりますが、ラ・ファイエット率いる国民衛兵に弾圧されます。

 そして国民議会の方は9月、91年憲法を発布し、フランスを一院制の立憲君主制にすることが決定。
 また、選挙権は一定の財産がある人々のみに限られます。これは、自由平等であるはずのフランス革命に置いて極めて矛盾した政策だったと考えられます。

○立法議会

 そして選挙が行われ、10月、新たに立法議会が招集されます。その構図は
 第一党・・・フィヤン派=自由主義貴族が多く、現憲法と立憲王政を支持
   *フィヤン修道院にあつまるクラブの会員が多かったから、この名前に
 第二党・・・ジロンド派=商工業者市民が多く、穏健な共和主義を主張
 と、主にこの2つの会派に別れて争います。

1792年 
 結局、第2党であったジロンド派が政権を握り「革命戦争を行う!」とルイ16世に要求してオーストリアに宣戦布告をさせます。革命を妨害するオーストリアを黙らせたい、ということだったのですが・・・。

 しかし、フランス国内では食糧危機で暴動や農民一揆が発生。
 さらに神聖ローマ帝国とプロイセンの軍勢がフランスに侵攻を開始します。

 この当時のフランス軍ですが、本来軍隊を指揮するはずだった貴族は大半が身の危険を感じて国外に亡命しており、新たな指揮系統などが確立しておらず、次々と敗北していきます。そのため、議会の呼びかけで人々は義勇軍を結成。

 この時に、マルセイユの軍団が「奴らは女子供まで殺しにやってくる。武器を取れ、さあ市民達、進軍だ。奴らの汚れた血を畑にぶちまけろ」と勇ましい、ていうか凄まじい行進歌を歌い、これが後に「ラ・マルセイユ」としてフランス国歌になります。いやあ、君が代の歌詞なんて可愛いもんです(笑)。

 一方、国王ルイ16世は「このままでは負けてしまう」と慌てて諸外国と講和を結ぼうとしますので、8月、議会はルイ16世の王権を停止します。つまり、アンタから国王の権力を取り上げる!ということです。これに伴い、立憲君主制を考えていたラ・ファイエットは亡命。しかしオーストリアに捕まってしまいました(1800年にフランス帰還)。

○国民公会

 こうして王政を廃止したフランスは共和政に移行し、9月、議会では新たに国民公会が成立します。
 今度は成年男子全員に選挙権が与えられた、普通選挙が行われました(ただし、あれだけ活躍した女性には選挙権が与えられていません)。

 その結果集まった議員達は、穏健なジロンド派と、過激ジャコバン派モンターニュ派(山岳派)に別れます。山岳派というのは、国民公会の議会の高所に席を占めたことから付いた名称で、議長席から見て左側だったので、ここから急進派のことを左翼、というようになります。

 ちなみに、ジャコバン派というのは元々、フランス革命期に作られた議会外の政治組織で、1789年5月にヴェルサイユで結成されたブルトン・クラブを前身とします。ここの主導権が
 フィアン派→ジロンド派→モンターニュ派
 に移るのですが、一般には、このモンターニュ派をジャコバン派と言うことが多いようです。

 さて、ジャコバン派(モンターニュ派)を指導したのが、下層市民や農民の支持を受けたマラー(1743〜93年)ロベスピエール(1758〜94年)ダントン(1759〜94年)らです。マラーは医師で物理学者、さらに新聞発行人、そして後者2人は弁護士出身です。

 そしてジャコバン派(モンターニュ派)はこれ以上の革命の激化を防ごうとするジロンド派を激しく攻撃しました。その一環として、12月、ルイ16世はジャコバン派の主導によって裁判にかけられ、議会で1票というわずかな票差によって処刑が決定。そして翌年1月に革命広場(現・コンコルド広場)に設置されたギロチンによって処刑されてしまいました。

 その人柄自体は温厚で、好きなのは錠前造りと、いわばメカニックオタクの国王。もう少し情勢を把握し、的確な政策を打てていれば良かったのか、それとも、もはやどのような政策を打とうとも自分の運命は変えられなかったのか、さてさて、どちらだったんでしょうね。


コンコルド広場
奥に見える細長い塔は、3300年前に立てられたエジプトのオベリスクを移築したもの。

ギロチン
明治大学刑事博物館で複製品が保存されています。


1793年 

○ジャコバン派による独裁

 この国王処刑に周辺諸国は、ビックリします。しかも、1792年11月にはフランスはベルギーを占領していたのです。
 「この流れが自分のところに波及したら・・・」と思うと恐怖です。だいたい、領土をめぐって戦争をするものの、各国の国王同士は殆ど親戚ですから、そう言った意味でも他人事ではなかったでしょう。そこで1793年、イギリスのピット首相の呼びかけによって、周辺諸国は第1回対仏大同盟が結成され、フランスを孤立させます。

 そのフランスでは紙幣の乱発によってインフレーションが起こり物価が高騰。人々の不満も高まり、ヴァンデ地方では大反乱も発生します。そこで国民公会は、3月初めに革命裁判所、4月には公安委員会(数名の国民公会議員によって構成され、行政活動を監視し、必要な場合には国防政策を決定)を設置します。

 そんな中、フランスが苦境に立たされているのはジロンド派のせいだ!と、パリの民衆は怒り、ジャコバン派(モンターニュ派)と共にジロンド派を議会から追放します。そして6月24日、ジャコバン派は男子普通選挙を定めたジャコバン憲法の制定。さらに7月になると公安委員会を刷新。

 これによってロベスピエールが権力を掌握し、封建的特権を全て廃止し小土地を所有する農民を形成しようとしたり、物価の統制、徴兵制の実施、新たに革命暦を制定、キリスト教の否定と、「理性」を崇拝しようという全く新しい宗教を創設するなど、あれよあれよという間に政策が実行されていきました。

○非キリスト教へ・・・

 このキリスト教否定について、ちょっと見ていきます。
 例えば、1793年10月にはキリスト教と結びついたグレゴリウス暦を廃止し、10進法で新しい暦(こよみ) を制定(共和暦)。つまり、1週間が10日、1ヶ月が30日とされ、月曜日、火曜日・・・のような名称は第1日、第2日・・・のような感じになります。

 ちなみにフランス革命は10進法が好きで、1795年4月にメートル法を施行し、長さの単位を1m=100cm のように定めていきます。重さの単位であるグラムも同様。このあたりは日本にも輸入され、私たちも使っていますね。また、1時間100分、1日10時間となります。こうした政策のおかげで、フランス全土で同じ単位で生活することが可能になりました。

 ・・・と、ちょいと話がずれましたが、この共和暦導入をキッカケに、これまでブルボン王朝と深く関わってきたキリスト教否定に拍車がかかり、「聖(サン)」と名前の付いた言葉を、例えば街路の名前から外したり、聖職者の衣服着用禁止に。さらに聖職者を無理矢理結婚させたり(当の本人が喜んだかどうかは知りませんけど)、ロバに司教の冠をかぶせたり、聖杯で酒を飲むなどが行われます。

 極めつけは、11月に、キリスト教(カトリック)のシンボルの1つであるノートルダム大聖堂において「理性の祭典」が行われ、「自由と理性の女神」を讃え、さらに教会を「理性の神殿」に転用しました。いやあ、凄いですねえ・・・。

○テルミドール反動

 このようにロベスピエールらは次々と政策を実行。
 ところが貧困層の暮らしは良くならず、当然「貧しい民衆ばかり優遇するのか!」と批判の声が高まり、「この動きは利用できる」と、パリを脱出していたかつてのジロンド派議員、貴族などが中心となって、マルセイユやリヨンなどで暴動を起こします。

 そこでロベスピエールは、政敵を次々とギロチンで処刑。
 10月16日には元王妃、マリー・アントアネットを僅か2日の裁判の末、ギロチンで処刑。
 11月にはジロンド派で活躍していたロラン夫人を処刑。この時彼女は「自由よ、汝の名において如何に多くの罪がおかされていることか」と言ったそうで、当時の雰囲気を良く表していると思います。なお、元・内務大臣だった夫・ロランはこの知らせを聞いて大層嘆き、自殺したそうです。

1794年  
 さらに1794年4月5日には、ロベスピエールのライバルになっていたダントンが処刑されます。
 ダントンは以前から「恐怖政治はやめた方が良い」と主張していましたが、その恐怖政治によってあっさりと処刑されてしまったのです。さらに、6月には革命の神を称える最高存在の祭典を挙行し(こうなってくると、どこかの社会主義国みたいです)、同時に革命裁判所の権限を強化し、反革命容疑者の処刑を激化させます。

 ですが、そのロベスピエールも「経済統制に反対!」「独裁反対!」の声が広がる中、7月27日に逮捕され、ギロチンで処刑されてしまいました。

 さらに、ジャコバン派自体も支持を失い次々と関係者が逮捕。
 次いで政権を握ったのが、穏健共和主義者達によるテルミドール派(中間派、平原派)。この政権交代劇を、テルミドール反動といいます。反革命容疑者として逮捕された人々は次々と釈放され、ジャコバン・クラブが閉鎖。総価格統制令を廃止。そして、1795年には革命裁判所も廃止されました。ちなみに95年8月に、フランスの通貨であるフランが誕生しています。今は、EU各国ではユーロを使っていますので、懐かしい名前です。

 とまあ、このようにして様々な身分・立場の人々の利害関係が複雑に絡み合いながら、しかし一方でやはり、これまで支配されてきた人々が自分たちの権利を確保するような流れになってきたと言えます。しかし、フランスはこんなに何から何まで、シャッフルされちゃったわけですから、当然大混乱状態。

 そこで、いよいよナポレオンが登場してきます。
 そしてナポレオンは、その短い治世の間に独裁的な権力をふるいながら、見事に問題を解決し、そして歴史の舞台から降りていきます。では、そのナポレオンについて次回で見ていきましょう。

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