第46回 フランス革命(2)ナポレオン時代

○終身統領、そして皇帝へ

 それでもナポレオンに対して、王党派を中心に対抗する動きが出ていました。
 そこでナポレオンはアメとムチを上手く使い分け、味方になった者には甘く、敵には容赦なく、硬軟つけつつ敵対勢力を弱めていき、そして1802年8月2日、ナポレオンが終身の統領となりたいというので国民投票が実施されたところ、圧倒的な支持で賛成が得られました。また、これに合わせて憲法を改正し、ナポレオンの後継者はナポレオンが選べることになります。

 さらに、1804年3月27日。
 一時はナポレオンに反抗していたフーシェは、ナポレオンに不動の地位を与えよう、と元老院で提案します。つまり、彼を皇帝にしてしまおうと、ナポレオンのご機嫌を取ったのですが、これが護民院で認められ、さらに国務院で憲法が改正。そして、5月18日に元老院が承認し、帝政が成立します。

 さらに国民投票でも承認。
 12月2日、ノートルダム大聖堂でナポレオンは盛大に戴冠式を行います。


 世界遺産に登録されているノートルダム大聖堂。12世紀から実に200年をかけて建築され、フランス王家の重要な式典はここで行われた。しかし、18世紀後半に反キリスト教の動きが起こり、あちこちが破壊され閉鎖。さらにフランス革命では「理性の殿堂」としてワインや飼料の倉庫に!

 ナポレオンはここを復活させ、戴冠式を行い、再び大聖堂に光を当てた。もっとも、破壊された状態から実際に復興するのは作家のヴィクトル・ユゴーが小説「ノートル・ダム・パリ」で聖堂の荒廃ぶりを訴えてから。これが反響を呼び、当時の国王ルイ・フィリップが建築家ヴィオレ・ル・デュクらに復元工事を行わせ、1864年に完了した。
 戴冠式では、フランス革命で仲が悪くなっていたカトリックとの和解も演出するため、教皇のピウス7世も招待されます。しかし、ナポレオンは自分で冠を頭上に掲げ、さらにジョセフィーヌにも同様にするのでした(下図)。さてさて教皇を差し置いてののこの行為、ピウス7世はどう思ったことやら。


ヴェルサイユ宮殿に掲げられている戴冠式を描いた絵画
 そしてナポレオンは独裁政治を心配する動きをなだめるために、こう宣言します。
 「私はフランス領土を保全し、国民の権利と自由と平等を尊重する」
 事実、ナポレオン時代に革命によってかき回され、大混乱状態だったフランスが立て直され、そしてフランス革命は大成していくことになるのですから、この独裁者は不思議といえば不思議な人物です。現在のフランスの社会システムは、実質的にナポレオンが作ったものなんだそうですよ!

 その一方、当初はナポレオンを賞賛し、彼に交響曲第3番を献呈しようとしていた作曲家ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ナポレオン皇帝就任に激怒し、その曲のタイトルを「英雄」に改めました。

○イギリスとの戦い

 さて、国内の整備が進む中でナポレオンはイギリスと戦うことにします。この時代のイギリスVSフランスは第2次百年戦争とも言われるほどで、それだけお互いにライバル関係だったのでした。1805年にアミアンの和約が破られ、イギリスは小ビットを再び首相に復帰させ、ロシア、オーストリアと第3次対仏同盟を結成。

 これに対し、ナポレオンはイギリス上陸を目指しますが陸上、海上で敗北。海上での戦いは、トラファルガーの海戦といって、イギリスのネルソン提督VSフランス・スペイン連合のビルヌーブ提督の戦いとして名高いもので、スペイン南西のトラファルガー(トラファルガル)で行われました。結果、艦隊を2つに分けて柔軟な攻撃を行ったネルソンが、縦一列の艦隊だったビルヌーブ艦隊を大いに撃ち破り、沈没・拿捕20隻、7000人の死傷者という壊滅的な打撃をフランスに与えます。イギリスは、1隻も沈没せず、死傷者1500人。以後、海におけるイギリスの優位は圧倒的なものとなります。

 ですが、ネルソンは戦死してしまいました。
 また、イギリスの小ビット首相も戦いの最後を見届けること亡くなくなってしまいました。


ロンドンのナショナルギャラリーの前で、天高く設置されているネルソン提督の像。

○神聖ローマ帝国、ついに解体

 こうして、宿敵イギリスとの戦いにコテンパンにやられたナポレオンでしたが、大陸側では驚異的なパワーを発揮し、1805年、オーストリア・ドイツ連合軍をアウステルリッツの戦いで撃破!(ロシアのアレクサンドル1世、オーストリアのフランツ2世も出陣したので、三人の皇帝が戦場に。そのため、三帝会戦とも言われます) 

 この勝利によってナポレオンは、ドイツ南西部にフランスの衛星国としてライン同盟(連邦)を結成させ、神聖ローマ帝国の枠組みを崩壊させます。ここに、長い伝統を持つ神聖ローマ帝国は終焉し、さらに第4次対仏同盟を結成したプロイセンもボコボコにして領土の多くを奪い、小国家に転落させることに成功(しかし、このためにプロイセンでも封建制度から脱出する改革が行われ急速に国力を回復)。

 こうして、フランスは中央ヨーロッパ、西ヨーロッパ全域を支配する広大な帝国となります。そして、イギリス製品をヨーロッパ大陸に入れないことで、イギリスに経済的な打撃を与える大陸封鎖を実施します。

○凱旋門の建設

 さて、アウステルリッツの戦いに勝利したナポレオンは古代ローマ帝国皇帝に自らをなぞらえ、凱旋門を造らせることにしました。もっとも、なかなか工事が進みません。

 前述のように、1810年にジョセフィーヌと離婚してオーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚したナポレオンは、婚礼の時にこの凱旋門を通るのを夢見ていました。しかし、完成していないのだから仕方がない。なんと、地上50cmまでしか造られていなかったのです。やむを得ず、張りぼての凱旋門を造り、その下を通りました。


 このように、ナポレオンが執心した凱旋門でしたが、完成したのは1836年。ナポレオンは1821年に亡くなっていますので、既にこの世にいませんでした。しかし1840年12月、旧ナポレオン皇帝軍の兵士達は、ナポレオンの遺骸を、凱旋門の下をくぐらせるのでした。

○ナポレオンの没落

 さて、大陸封鎖でイギリスの製品を大陸に入れない。
 貿易が出来ないイギリスめ、さぞかし打撃を受けているだろう。へっへっへ・・・。

 しかし皮肉にも、再建の途中だったフランスにはイギリスに代わって輸出できる製品がまだ無く、イギリス製品が消える=物が無くなる、と、ヨーロッパ各国の方に経済的な打撃を与えてしまいます。おまけに、フランスの支配によって、フランス式の「自由」を手に入れ、封建制から脱出し、社会システムも大きく変容したフランスの支配国の人々は、その「自由」によってフランスに対し反抗的な動きを見せます。なにしろ、大陸封鎖もあって暮らしが貧しいのですから。

 例えば、1808年にはスペイン独立戦争が発生します。
 これは、ナポレオンがスペインのブルボン王朝の内紛を利用し、カルロス4世及びその子フェルナンド7世を追放し、自分の兄ジョセフを王にしたことに起因するもので、その封建的な体制に対し、スペインの人々が自由を求めて立ち上がります。ジョセフは、ナポレオンほどの才覚もなく、直ぐに逃亡。一方、スペインの人々はウェズルリー(のちウェリントン公 (1769〜1852年 首相として在任1828〜30年))率いるイギリス軍の支援を受けてゲリラ戦を展開。

 手を焼いたナポレオン軍は、徹底的に残虐な報復を行います。
 これを描いた作品で、画家ゴヤのものが非常に名高いですね。そして、このスペイン独立戦争は1814年まで続きました。おかげで、ナポレオンは多方面に作戦を展開することになってしまい、打撃を受けます。

 さらにナポレオンは1812年、ロシア遠征に失敗。
 これは、ロシア側がナポレオンと正面で戦うことを避け、東へ撤退しつつ同時に自国の街を破壊し、ナポレオン軍が現地で補給を出来ないようにしたためで(焦土作戦)、ロシアの寒い過酷な環境下で満足な補給も受けられないナポレオン軍は大損害を受け、50万人のうち、大半が戦死したり餓死したり、逃亡したりと、ナポレオンの栄光は地に落ちました。

 *ちなみに、このロシアへの作戦の中で食糧を上手く保管できないか・・・と、生まれたのが缶詰の元祖・瓶詰めです。また、何で危険を冒してまでロシアと戦争をしたのかというと、ロシア皇帝アレクサンドル1世(1777〜1825年)がオスマン=トルコ帝国と同盟し、さらにスウェーデンと組んでナポレオンと対抗しようとしていたからです。なお、当時のスウェーデンの皇太子は、ナポレオンの元部下のベルナドット元帥だったというのですから、ちょっと驚きです。

 さて、ナポレオンは第6次対仏大同盟を結成していたイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアに決戦を挑みますが敗北。今までフランスが占領したベルギー、スペインなどの領土も失い、義弟のミュラ元帥も裏切る。いよいよナポレオン政権も終わりが見えてきました。そこで暗躍したのが、外務大臣のタレーランです。

 彼は、対仏大同盟を結成していた国々と連携し、自身を臨時政府の首相とします。そして、元老院、立法院でナポレオンを退位させ、人口1万2000人のエルバ島の小君主へと蹴落としました。ナポレオンも、味方が次々と離れていくのを見て、これに同意せざるを得ませんでした。そして、フランスはルイ18世が即位し、再び王国へ戻ります(なお、ルイ18世は、ルイ16世の弟)。そして、タレーランは再び外務大臣に就任しています。

 あとでまた書きますけど、とにかくこの男は世渡りが上手です。しかも、非常に有能な男だったのです。
 それから、さすがに長くなりますので書きませんが、フランスの警察制度を作ったフーシェ。彼も、タレーランと共に、どんな政権になろうとも自分を売り込むことの出来た政治家でした。このフランスの警察制度を明治初期、薩摩出身の川路利良(かわじ としなが)がフランス留学によって学習し、自己流にアレンジして造り上げたのが首都警察である警視庁をはじめとする、今の日本警察です。



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