第50回 ヴィクトリア女王時代(1)発明品とアヘン戦争

○アヘン戦争前夜

 さて、当時のイギリスは、産業革命によって、ただし何か劇的な変化というよりも、蒸気機関による機械化の進展によって次第に(ただし急速に)様々な商品の生産性が向上していました。一方、この頃にイギリスでは「喫茶」、つまりお茶を飲む風習が広がり、当時、そのお茶の唯一の産地である中国大陸の王朝である「清」から輸入をしていました。

 ところが、イギリスが清に輸出するものがありません。すなわち、イギリスの特産品となった毛織物は「野蛮人の着るもの」として清では不人気で、じゃあ陶磁器は・・・となると、こちらは清が特産地ですから、かの国が輸入する必要はありません。当然、イギリスにとって大きな貿易赤字。代金は銀貨で支払っていましたが、これでは流出する一方です。

 あげくにイギリスにしろ、清にしろ非常にプライドが高い国家ですから、お互いに相手の国を格下と見なし、一向に貿易摩擦が改善する気配がありませんでした。そこでジョージ3世時代、つまりヴィクトリア女王の祖父の時代のイギリス政府は、植民地にしていたインド産の麻薬であるアヘン(阿片)を輸出することにしました。これが非常に売れまくったのですが、当然のことながら清の人々の体に良いはずがありません。街中が廃人同様の人であふれかえるという事態に発展してしまいました。

 当初は民衆がどうなろうと知ったことではない、とタカをくくっていた清政府も対策に乗りだし、この中で林則徐を中心とし、アヘンの取り締まりが行われたのであります。このあたりの話は、中国史第26回などをお読み頂ければ幸いです。

○開戦までの道

 それでもアヘンさえ売らなければ、清で貿易自体は出来ることになっていました。
 しかしながら、アヘンだからこそ利益が得られるわけで、アヘンは売りませんという誓約書を提出「しなかった」イギリスの商人達は、本国に清を懲らしめるように盛んに働きかけました。先ほど見たように、のちにヴィクトリア女王と対立する、パーマストン外務大臣もイギリスの国力を示してやれ!という強硬主義者でした。そこで1840年2月、メルボーン内閣(自由党)は開戦を閣議決定。議会に戦費の支出の承認を求めます。

 その結果、賛成271票、反対262票。
 という、僅差で賛成側が上回りました。この時の”やりとり”は有名です。

 賛成側のトマス・バビングトン・マコーリー
 「(当時、現地で対中問題を担当していた)チャールズ・エリオット氏が、包囲された商館に立てたイギリス国旗が如何に人々を勇気づけたか、そしてイギリスには敗北という屈辱はなく、退歩することを知らない」
 ・・・つまりイギリスのやることに間違いはないと訴えます。

 一方、反対側のグラドストン
 「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私は未だかつて知らないし読んだことさえない。(エリオットがたてた)旗は、悪名高い禁輸品を密輸するためにひるがえったのである」としました。しかし、戦費の支出案が議会の承認を受けて通ってしまった以上、その方針に従う他はありません。

 んで、イギリス本国からせっせと清にまで向かうわけにはいかないので、おもに植民地のインドで艦隊が編成されました。乗り込む人達の大半はインド人です。そして、司令官にはチャールズ・エリオットの従兄、ジョージ・エリオット海軍少将が任命されました。ちなみにこの時、チャールズは39歳、ジョージは56歳。そして、イギリス政府も「あらまぁ」と後で思ったでしょうが、実は仲が悪かったりします。

 さあ、麻薬の輸出を認めろという前代未聞の戦争の開始です。

○開戦初期


 林則徐は、広州で向かい打つべく準備をしていたのですが、ジョージ・エリオット少将は杭州沿海部にある舟山列島という場所をあっさりと占領し、さらに天津に向かいました。天津は北京と目と鼻の先。ここにきて、ついに清の政府は震え上がりました。見たこともない多くの軍艦が目の前に来ているのです。

 林則徐は、(イギリスに頼まれてもいないのに)クビになり、左遷されました。
 そして、埼善(チシヤン)という直隷総督(河北省と周辺の長官)が派遣され、なんとか中国南部の広東の方で交渉をするようにしました。彼はアヘン容認派で、林則徐と対立していた人です。滅多に怒ることのない林則徐も、相当彼を恨んだようです。

 この変わりぶりに呆れたのか、イギリスのブレマー准将は
「林則徐は立派な才能と勇気を持った人物であった。ただ外国の事情を知らなかった」
 と感想を述べています。ただし、林則徐はイギリス本国の議会の動きもつかんでいましたし、左遷先のイリ地方ではロシア帝国の研究をやって、清の危機を警鐘していますので、むしろ海外情勢には詳しかったことを付け加えておきます。

 さて、埼善は後任の欽差大臣に任命されると、林則徐がイギリスと戦うために編成した軍勢を大幅に縮小し、ご機嫌取りを始めます。これに対し、イギリス側の要望は以下の通りです。
 ・イギリス人が受けた侮辱に対する賠償と将来の保証
 ・没収されたアヘンの賠償と遠征代の支払い
 ・イギリス人のアヘン密輸を取り締まらないこと
 ・輸出入税を一定にすること
 ・イギリス人の請願書は、直接、北京の皇帝に提出できるようにすること
 ・福建、江蘇など6港以上の開港
 ・イギリス人の犯罪はイギリス人が裁けるようにすること
 ・香港の割譲
 などなど・・・まだこれ以上にも山ほどあります。

 ところが、ここで問題が起こりました。ジョージ・エリオットと副使として同行していたチャールズ・エリオットがケンカを始めたのです。今までの失敗経験からチャールズ・エリオットは
「あまり高圧的にやらない方がよい」
 として、超強硬路線のジョージと対立したのです。
 結局、ジョージは「俺はもう知らん!」と病気を理由に帰国してしまいました。

 で、ジョージの後任にヘンリー・ボッティンジャーがやってくると正式に交渉開始です。
 が、香港の割譲なんてとんでもない! 時の皇帝である道光帝をはじめ政府は大激怒! 北京の近くに艦隊もいないので、また強硬路線を言い始めたのですね。埼善は、交渉の打ち切りを余儀なくされました。

 そこで戦争です。
 とはいえ、清軍が弱すぎたこともあり、清側が292名の戦死者だったのに対し、イギリスはゼロという結果に。その上で、チャールズ・エリオット大佐は、最初に占領していた舟山を帰すことで、清の面子を立てることにします(よくお勉強したものです)。その結果、とりあえず賠償の方は認める・・・とまで話が進みました。

 しかし、それ以上は進まなかったのでまた戦闘。
 さらにチャールズ・エリオットは香港の領有を宣言します。ここに埼善は罷免され、危うく死刑になりかけましたが、そこは何とか免れました。そして埼善の後任は、おまじないでイギリス軍を倒そうとする始末で、結局またまたイギリス軍の攻撃に遭い、今度は上陸されて、住民はこれでもかと言うぐらいの略奪の被害を受けました。清軍は役立たずで逃げます。

 そこで今度は住民側が「平英団 (英=イギリス)」を組織して決起し、2万人、さらにそれ以上がイギリス軍を包囲。
 ところが、その前に清側はチャールズ・エリオットと和約を結んだため、平英団に対して「解散しないとお前たちに賠償金を支払わせるぞ」と脅して解散させました。一方、チャールズ・エリオット大佐も「勝手に交渉を進めおって!」とパーマストン外相のお怒りにあいクビになりました。

○南京条約


 パーマストン外相は、超強硬路線でしたから、チャールズ・エリオットがちまちまと駆け引きをやっているのが気にくわなかったのです。彼は、さっさと北京を恐怖に陥れろと命令し、イギリス軍は清の各地を占領していきました。そして、殺人に略奪にとやりたい放題。ある意味、昔のモンゴル帝国のやり方と似ていますね。ここに来てついに道光帝も諦め、しぶしぶ条約を結ぶとしました。

 こうして、先ほどのイギリスの要求がほぼ受け入れられる形で南京条約が結ばれます。

 この中で、たとえば上海が開港場となりました。開港場は外国人の居住などが自由ということです。ここに近代上海が幕開けしたと言っていいでしょう。また、翌年の追加条約で清の関税自主権の喪失、治外法権などが認めさせられ、またフランスやアメリカとも同様の条約を結ぶことになりました。それから、香港は割譲です。

 また、それから時代は先になりますが、1860年には香港対岸の九龍も割譲となり、さらに1898年には九龍半島全域が99年がイギリスの租借となります。租借というのは、要は借りると言うことです。

 こうして、周辺国が中国の皇帝の徳を慕ってやってくる、そこで皇帝が周辺国の君主を王として正式に任命して、便宜を図ってやる・・・という册封体制が終わったのです。しかしながら、清の政府では正当化の理論をせっせと考え、それほど一大事とは認識しなかったみたいですけどね。むしろ、いわゆる鎖国をしていた江戸時代の日本が、大国である清が戦争で負けたという衝撃を受け、大混乱、激動の幕末の時代に突入していくことになります。

 なお、こののち清で現地のキリスト教集団による反乱”太平天国の乱”が発生すると、イギリスは弱体化し、扱いやすい清政府が倒れることを恐れてゴードンを中心とした援軍を派遣。一方で、フランスと共に清に対してアロー戦争を仕掛け、さらに権益の拡大を認めさせています。

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