第54回 ナポレオン3世の第二帝政
同じ時代をあっちこっちの視点から見ていますので、そこが良いというか、紛らわしいというか・・・。ちょっと復習になりますが、ナポレオンが失脚したあと、ルイ18世、シャルル7世と復古主義的なブルボン家の国王が続き、これに対し立ち上がった人々は自由主義的な考えを持っていたルイ・フィリップを国王にしましたね。 ところが、この国王は資本家を保護しすぎたために反発を買い、1848年2月にパリの民衆によって追い出されます。 こうしてフランスは第二共和政がスタートしますが、働かなくても賃金が出るという国立作業場の設置のように労働者を保護しすぎたため、今度は労働者以外の人達から猛反発を喰らいます。そのため、4月に行われた選挙で社会主義勢力は大敗を喫し、これに怒った労働者達が蜂起するも(六月暴動)、死者30000人以上、逮捕25000人以上、死刑1500人という、凄まじい弾圧を喰らいました。 こうして再びフランスが混乱に陥った中で、1848年12月、大統領選挙が実施されました。 ここで当選したのが、あのナポレオンの甥であるルイ・ナポレオン(1808〜73年)でした。正式な名前はシャルル・ルイ・ナポレオン・ポナパルトですので、きちんと「ポナパルト」の名前も受け継いでいますね。とまあ、当時のフランス国民にとっては、一時的にとはいえ強大なフランス帝国を造り上げた「ナポレオン・ポナパルト」が再びやってくる! というわけで拍手喝采だったのです。 本題に入る前に、ちょっと彼のプロフィールを書いておきますと。 彼の父はナポレオン(1世)の弟、ルイ・ポナパルト。母はナポレオンの妃ジョセフィーヌの連れ子だったオルタンス。彼らの第三子として生まれたルイ・ナポレオンは、伯父が失脚すると母と共にスイスへ亡命。成長すると1831年には、前回登場したイタリアのカルボナリ党に参加するなど血気盛んな青年時代を送ります。 その翌年、ポナパルト一族の当主だったナポレオン2世(1世の息子)が死去するとルイ・ナポレオンが当主に。 1836年には新国王ルイ・フィリップに反対し、ストラスブールで蜂起しますが鎮圧され国外追放。その後も機会をうかがいますが結局イギリスへ亡命しました。なんと、終身禁固の刑を受け脱獄までやった上での亡命です。なかなかパワフルな男ですな。そして、ルイ・フィリップが失脚するとフランスに帰国し、議員を経て大統領に当選したのです。 大統領に当選したルイ・ナポレオンは前回見た通り、マッツーニが建国したローマ共和国を弾圧。フランス軍を駐留させることに成功します。そして、当時の憲法で大統領は再選禁止となっていたことから1851年12月、軍隊と警察を使ってクーデタを仕掛け、反対派の議員を逮捕。そして国民投票で自らのクーデタを承認させ、独裁権を掌握し、任期10年の大統領となります。が、これだけでは満足できないルイ・ナポレオンさま。翌年の12月には、やはり国民投票で皇帝へ就任することを承認させます。 かくして、民衆からの圧倒的な支持の下、ナポレオン3世による第二帝政がスタートするのです。
これがなかなか巧妙に出来ておりまして・・・これまでの政府の失敗を踏まえ、第一にカトリック教会を保護。そして、農民へは土地所有権を保護。さらに産業革命を推進し、育成することで資本家階級を保護。のみならず、鉄道網の整備、パリの大改造といった公共工事を行うことで労働者の雇用を創出(なお、労働条件を改善させる一方で、労働者同士が団結することを禁止)。実際、景気も非常に良くなります。 このうち、パリの大改造は急激な人口増に対処するために行われたもの。 当時、すなわち今から150年ほど前のパリは、上下水道も未整備で、あちこちにゴミや屎尿などの汚水が投げ捨てられ、老朽化した古い建物が建ち並び、悪臭が漂う、悪臭漂う街でした。それもそのはず、なんとローマ帝国の支配下にあった頃から、基本的にパリは大改造されていなかったからだとか。何を整備するにしても、抜本的な対策が必要で、歴代政権は手をつけていなかったのです。 そこでナポレオン3世は、内務官僚のジョルジュ・ウージェーヌ・オスマンをセーヌ県知事に任命。 オスマンは、中世以来の多数の歴史的な建造物をぶっ潰し、広大な道路を建設し円滑な交通網を整備。特に、凱旋門があるシャルル・ド・ゴール広場から放射状に伸びる12本の道路は機能的である上に、凱旋門のモニュメントとしての価値を高めます。そして、懸念事項だった上下水道を積極的に整備し、衛生的な住宅街を建設し、これまでコレラなど様々な伝染病が大流行するのを防止します。そして、各地に緑地を整備することで人々の憩いの場を提供。また、街灯や公衆トイレのデザインにもこだわり、多くの建築家に表現の場を与えます。 ここまでやってしまうと、まるでゲームの都市整備のような感じさえ受けますが、そこは独裁者であるナポレオン3世と、しっかりとした都市整備のヴィジョンを持っていたオスマンだからこそ、現実に出来たこと。現在、人々のあこがれの的である美しい都、パリはこうして誕生したと言っても過言ではないのです。そして、フランスの植民地もこの発想を基にしていますので、世界に影響を残すことになります。 一方、外交面では軍事力を強化し、海外侵略を行いことで国民の不満の目をひきつける。 このように、各種勢力を上手く懐柔することで政府の安定化を図ります。こうしたナポレオン1世にも似た統治方法は、ポナパルティズムと呼ばれます。なお、外交面を詳しく見ていきますと・・・。 まず、1853〜56年にはイギリスと手を組み、クリミア戦争でロシアと戦い勝利。 それから、1856〜60年にも宣教師が殺害されたことを口実に、イギリスと手を組み中国の清政府に大して出兵。アロー戦争を仕掛け、北京条約を結ばせてフランスの権益を拡大。さらに、1858〜67年にはインドシナ出兵を行い、この中で1862年、サイゴン条約を結び、東南アジア支配の第1歩を踏み出します。サイゴンとは現在のホーチミン。というわけで、これはヴェトナムに関する問題。非常に重要なので、敢えて次回で1ページ割いて解説しましょう。 また、前ページでも見ましたが1859年にはイタリア統一戦争にも介入。サルディーニャ王国側を支援しておきながら、一時はオーストリアと単独講和し(ヴィラフランカ条約)、”ナポレオン3世の裏切り”として非難されましたが、結局、サルディーニャからフランスとの国境に近い、サヴォイア、ニースを割譲してもらうことで再支援。こうして、オーストリアの勢力をイタリアから駆逐します。
ヨーロッパ史第51回で詳しく見ましたので、ここでは簡単におさらい。 中心となったのは、フランスの外交官で技術士官レセップス(1805〜95年)。彼は、エジプトで副領事を務めたことがあり、「スエズに運河があって、ここに大きな船も通行できるようになれば、これまでのようにヨーロッパから中東に出るのに、南アフリカ経由で行くことが亡くなって便利になるな」と考えます。 そこで、オスマン朝のエジプト太守サイード・パシャを説得し、工事の許可を得ました。 ・・・な〜んて簡単に言いますが、「お宅の領土をざっくり掘らせてくれ」と言うんですから、見ず知らずの馬の骨が許可を取れるわけはありません。そこで役に立ったのは、オヤジのコネ。と言うのも、1805年よりエジプトは、事実上太守ムハンマド・アリーの支配下にあったのですが、このムハンマド・アリーはエジプトの近代化を進めていたんですね。それを助けたのが、レセップス(父)。そして、サイード・パシャはムハンマドの息子! 交渉をスムーズに進めるために大きく役になったことは想像に硬くありません。 こうして1858年、エジプトの会社として、スエズ運河会社が設立(当初はフランスとエジプトが株を所有し、99年後に完全エジプトへ移管と決められる)。10年の工期と1億ドルもの莫大な予算、さらにその3倍ともいわれる修復費・改善費を投じて開通し、海路に計り知れない革命をもたらしました。 ちなみにその後、レセップスはパナマ運河開通も任されますが資金繰りに行き詰まり、贈収賄に手を出し、刑は執行されませんでしたが息子と共に罰金と懲役刑の判決が下されています。あららら・・・。そして、スエズ運河もディズレーリ首相時代のイギリスが買収してしまったのは、前に見たとおりですね。 それから、幕末の日本にはロッシュを派遣し、江戸幕府を積極的に支援。 徳川慶喜ら幕府首脳も援助を大歓迎し、ロッシュも徳川慶喜を高く評価したことから、特に江戸幕府の軍制の急速な近代化を進め、一方でフランスの日本における権益確保(北海道の割譲など)を密かに認めさせますが、その前にイギリスの支援を受けた薩摩・長州による連合軍によって江戸幕府は滅亡してしまいました。
そして致命的になったのが、1870〜71年の普仏戦争。すなわち、プロイセンとの戦争。 ここでプロイセン宰相のビスマルクの巧みな戦術によってナポレオン3世は大敗を喫し、あろうことかセダンの戦いで捕虜になってしまいます。皇帝が捕虜になってしまうとは、これはもう評判をどん底まで落とし、パリの民衆が蜂起。帝政を廃止し、また共和制へ移行することが宣言されました。ナポレオン3世はのちに、イギリスに亡命し、そこで亡くなりました。ちなみに、オスマンも皇帝と共に失脚してしまいました。 さあ、次回はフランスとヴェトナムの関係を見て、次次回でプロイセンを解説していきましょう。 次のページ(第55回 近現代ヴェトナムとフランス)へ 前のページ(第53回 イタリア統一と建国への道)へ |