第60回 ヴェルサイユ体制とワシントン体制
いきなり余談ですが、ヨーロッパ史を書いていると、(ビサンツ帝国時代も含めて)トルコが本当によく登場してくることに気づかされます。トルコがヨーロッパか、と言われれば、「そうです」とはちょっと答えづらいような気がしますが、かなり密接にヨーロッパに影響を与え、また影響を受けたのは間違いないと思われます。ですので、まだ西アジア史の近現代史を書いていないこともあり、ちょっとトルコにも注目しておきたいと思うんです(ロシアとアメリカについては、それぞれのページを見てくださいね)。 さて、重い賠償金を受ける羽目になったドイツと並び、いや、それ以上の過酷な敗戦処理がされたのがトルコ。 中東ではアラビアが独立し、東欧からは殆ど手を引くことになり、オスマン=トルコ帝国時代の広大な国家は、見る影もなく縮小されてしまいました。これに対し、「弱体化した政府を倒せ!」とトルコ大国民会議を結成したのがムスタファ=ケマル、後のケマル=アタテュルクです。ちょっと生い立ちから見ておきましょう。 彼はマケドニア州の州都テッサロニキ(現在はギリシャ領)の下級官吏の家に生まれ、陸軍幼年学校へ進学。ケマルというのは、完全無欠という意味で、「この優秀さ、ただ者ではない」と教師から与えられた名前だとか。んで、彼はイスタンブールの陸軍大学に進み、1905年に卒業すると、ダマスカスで参謀大尉として着任しました。つまり、軍の人間ですね。当然、第1次世界大戦時には大佐として、同盟国側として戦い、イギリス軍を撃退するなど数多くの戦いで勝利。陸軍少佐に出世します。 転機が訪れたのは1919年5月15日。 既に第1次世界大戦は終結していますが、ギリシャ軍がアナトリア西岸の都市イズミルを占領します。ムスタファ=ケマルは「防衛しなければ!」と、防衛軍を組織し始めます。ところが、肝心のオスマン=トルコ政府が「うちは負けました。アナトリアは放棄します。首都に連合国軍が駐屯しても構いません」と、セーブル条約を結んだのですから、激怒! こうしてムスタファ=ケマルを中心として、1920年に先ほどのトルコ大国民会議が組織。 現在の首都である、アンカラで暫定政府を樹立し、21年8月にサカリヤの戦いでギリシャ軍を撃破! そして、翌年9月にイズミルを奪回し、さらに1922年、スルタン制を廃止して、オスマン=トルコ帝国を滅亡させました(24年にはカリフ制も廃止)。そして、1923年にローザンヌ条約を連合国と結び新国境を確定し、治外法権の撤廃、関税自主権の回復にも成功し、ムスタファ=ケマルを初代大統領とするトルコ共和国が誕生したのです。 もうちょっと書いておくと、ムスタファ=ケマルは人民党(1924年に共和人民党と名称変更)を創設し、一部期間を除いて1945年まで、一党独裁体制で強力に改革を進めていきます。キーポイントはイスラム制度からの独立で、アルファベットの導入、ヨーロッパ法を取り入れる、等を実行。トルコは急速に近代国家として発展します。 さらに、1934年には創姓法が施行、ヨーロッパ風にトルコでも姓を持つことが義務付けられました。逆に言えば、それまでのトルコに姓はなかったわけです。このときムスタファ=ケマルは、大国民議会からアタ(父)テュルク(トルコ)、すなわち父なるトルコを意味するアタテュルクを姓として授かりました。 そのようなわけで、つい最近までトルコでは建国の父、ムスタファ=ケマルの功績への批判は御法度だったのですが、しかし強権的な政治手法を取ったことは間違いなく、少しずつですが、功罪両面を見ていこうじゃないか、と研究が始まっているようです。ただ、「反イスラム的な人間」と単純な評価をされるような時代が来たら、嫌だなあ(笑)。熱烈なイスラム教信奉者から見れば、極悪人でしょうけど。
例えば、ポーランドはソ連に侵攻し、ベラルーシとウクライナの一部を獲得。さらに、イタリアはユーゴスラヴィアと戦い、フィウメを獲得。さらに、ポワンカレ首相率いるフランスと、ベルギーは「ドイツさんよぉ、賠償金をまだ払っていないじゃないか」として、1923年にルール地方を占領しました。とはいえ、こんなに地域紛争を起こしていたら、いつまた大きな戦争が起こるか解らない。こうした中、フランス国内では政権交代が起こり、ドイツと強調した方が良いとブリアン外相(1862〜1932年)は考えます。 そこで各国は1925年、ロカルノ条約を結んで、ドイツとヨーロッパ各国で国境線を現状維持し、みんなで集団安全保障体制を作っていこうじゃないか、と決められました。なお、ロカルノってのはスイスの都市です。さらに、翌年、ドイツは国際連盟に加盟。さらに1928年、ブリアン外相と、アメリカのケロッグ国務長官(1856〜1937年)の提唱により、15ヶ国で不戦条約が結ばれます(のち63ヶ国が調印)。 内容は、「国家の政策遂行の手段としての戦争を放棄し、国際紛争を平和的な手段で解決する」ということ。 どこかの国の憲法前文にも、非常に良く似た内容が書かれていますね。ただ、自衛権までは否定されていませんでしたし、違反したからといって軍事的な制裁があるわけではありませんでした。そのため、結果的には第2次世界大戦発生を食い止めることは出来ませんでした。それでも、戦争をやめよう、と各国が高らかに宣言したことは大きく評価されています。 それから、軍縮に向けた動きが推進されます。 1921年〜22年、アメリカ大統領ハーディングの主宰で、ワシントン会議が開催されます。この中で、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの主力艦保有トン数を制限・・・つまり、何隻ではなく、各艦船の重さを合計した量を制限し、さらにそれぞれの国の保有比率を、5:5:3:1.67:1.67にしようと、海軍軍備制限条約が締結。 さらに、中国の主権を尊重し、領土を保全しようと九ヶ国条約が結ばれた他、日本、アメリカ、イギリス、フランスの間で太平洋諸島を現状維持することにしよう、と定めた四ヶ国条約が調印。また、もうこれからは二国間同盟の時代ではないだろう、として日英同盟が解消されています。こうした体制を、ワシントン体制といいます。 ・・・と、各国が戦争回避に向けて積極的に取り組んだ。 にもかかわらず、何故第2次世界大戦が起こってしまったのか。残念でなりません。
イタリアとすれば、第1次世界大戦でドイツ、オーストリアを裏切って連合国についたにもかかわらず、あまり領土の獲得が認められていなかったため、不満がたまっていました。さらに、国内ではインフレーションの進行で生活の苦しくなった労働者が蜂起するなど、社会不安が増大。そこで、皆様の味方として登場したのが、ムッソリーニ(1883〜1945年)率いるファシスト党。強い政府を作り、皆さんの不満は我々が解決しますよ、とPRし、支持者を増やします。 さらに1922年、政権獲得を目指した彼らは、支持者と共にローマ進軍をするというパフォーマンスに打って出ます。これを見た国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、「よし、ならば君らが内閣を作りなさい」と命じ、ファシスト党中心の内閣が誕生。ムッソリーニは言論・出版の自由を制限し、反対派は弾圧するという、一党独裁体制を形成。 一方で、国民には強いイタリアをPRしないと「独裁者は出てけ」と愛想を尽かされてしまいます。そこで先ほど見た通り、1924年にフィウメを併合。さらに1926年にはアルバニアも併合と、国際協調の流れを見事にぶち壊していきます。極めつけは1935年に、アフリカのエチオピアに侵入し、全土を占領し植民地にします。国際連盟は強く非難しましたが、何の実効的効果もなく、かえって威信低下につながってしまいました。 なお、1929年、ローマ教皇庁とラテラン条約を締結。 イタリア政府との対立を解消し、ヴァチカン市国を独立させることを認めました。 次のページ(第61回 ヴァイマル共和国と世界恐慌)へ 前のページ(第59回 第一次世界大戦)へ |