第63回 第2次世界大戦

○ヒトラー、立つ!

 1938年3月12月、ヒトラー率いるナチス・ドイツがオーストリアに侵攻し、これを併合してしまいます。
 これは、これに先立つ1936年、オーストリアのシュシュニック首相が、オーストリアをドイツの一州とすることでヒトラーと合意したにもかかわらず、オーストリアの独立について国民投票を行おうと計画したことも発端でした。

 同じ年にヒトラーは、ドイツ人が多く住んでいるチェコスロバキアのズデーデン地方を割譲するよう主張します。
 これにイギリスのネヴィル・チェンバレン首相(保守党)は、「アメリカは信用できないし(第1次世界大戦時の借金、債務支払いで対立していたから)、ヒトラーに恩を売っておいて、ソ連と戦ってもらおう。余計に刺激して、戦争にでもなったらイギリスとしても困る」と考え、この要求を支持。

 9月末に、ミュンヘンでイギリスのチェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのヒトラー総統、イタリアのムッソリーニ首相による首脳会談が開かれ、チェコスロバキアの代表を呼ばないで勝手に、このヒトラーの要求を承認してしまいました(ミュンヘン協定)。

 ところがヒトラーの要求は留まるところを知らない。

 1939年3月、なんとチェコスロバキア解体を強行し、西半分をドイツの保護領に、東半分はスロヴァキアとして成立させ保護国としてドイツの影響下におきます。おまけにポーランドに対しては、ダンツィヒはドイツのものだから返還せよ!、第1次世界大戦後にポーランドの中に取り残されたドイツの飛び地である、東プロイセンへ陸上交通路を設置しろ!と要求します。

 このヒトラーの態度に、さすがにイギリス、フランス両政府とも
 「迂闊に妥協をすれば、どこまで要求されるか・・・」と気がつき、むしろソ連と手を組んでドイツと対峙しようとします。ところが、ソ連の指導者スターリンの方からすれば、イギリス、フランスの方が信用ならない。ドイツと戦わせでソ連の力を消耗させようと考えているのだろう・・・と感じ、同年8月にドイツと独ソ不可侵条約を締結しました。まさかの条約締結に世界中が驚きます。

 さあ、これで当面はソ連との戦争の心配が無くなったヒトラー。
 1939年9月1日、ついにドイツがポーランドに侵攻。その2日後、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦を布告し第2次世界大戦が勃発しました。そして東アジアでは既に日本が中国と交戦し、さらに1941年にはアメリカへ宣戦布告することになり、まさに世界規模で戦争が起こることになるのです。

○ヒトラーの領土拡張

 1939年9月17日、今度はソ連もポーランドへ侵攻し、ポーランドはドイツとソ連で分割占領されてしまいます。
 さらにソ連は11月にフィンランドに宣戦布告し、国際連盟から除名されますが、この間にリトアニアなどのバルト三国を併合。そしてヒトラーもさらなる領土獲得のため、1940年4月にデンマークとノルウェーへ、5月にはオランダとベルギーへ侵入し、そしてフランスへ侵攻開始。6月にパリを占領します。

 そして、イタリアのムッソリーニ政権も「よっしゃ、そろそろいいだろう」と宣戦布告をします。一方で、スペインのフランコ政権は「うちは内戦の後始末が終わっていないから」と、中立を守ります。

 さて、敗北したフランスでは北部がドイツの占領下に入ります。
 そして南部ではドイツの監視下で、ヴィシーを首都とするフランス国(ヴィシー政府)が成立。国家主席に、第1次世界大戦のヴェルダンの戦いで一躍ヒーローとなったフィリップ・ペタン元帥(1856〜1951年)が就任して、親ドイツの独裁国家が誕生しました。

 これに対し、フランスなどではドイツに対するレジスタンス(抵抗運動)が始まり、さらに前政権で国防次官兼陸軍次官だったシャルル・ド・ゴール(1890〜1970年)らがイギリスのロンドンで亡命政府(自由フランス政府)を樹立し、ドイツに反抗します。



シャルル・ド・ゴール (パリにて/筆者撮影)
 なお1940年9月には、既に共産勢力を防ごうと日本、イタリア、ドイツで結んでいた三国防共協定が日独伊三国同盟へと発展させ、結束力を強化します。そしてヴィシー政府は、日本にフランス領インドシナの南部(=南部仏印)への進駐を認め、日本は軍をこの地域に派遣。

 この動きは事前にアメリカが警告していましたが、強行されたことに完全にアメリカ、イギリス、オランダの逆鱗に触れます。いずれの国も周辺に植民地を持っています(*注:オランダ本国はドイツに征服されていましたが、ロンドンにあった亡命政府が植民地を支配していました。)

 このあたりの話は、是非日本史でご覧ください。ともあれ、日本はさらに戦争へ足を突っ込んでいくことになります。

○イギリスとソ連の戦い

 そして、ヒトラーの次なる狙いはイギリス。
 そのイギリスではチェンバレンが退陣し、彼のドイツ宥和政策に反対していた自由党のウインストン・チャーチル(1874〜1965年)が首相となります。そして、ドイツに対する激しい攻撃姿勢を取り、演説を行い国民を奮い立たせ、アメリカのルーズヴェルト大統領と太いパイプを持ち、アメリカの対独参戦を強く要請。



ウインストン・チャーチル (パリにて/筆者撮影)
 そして、ドイツ空軍VSイギリス空軍で激しい戦いが起こります(バトル・オブ・ブリテン)。1940年7月10日〜10月31日にかけて、ドイツ空軍とイギリス空軍がイギリス上空とドーバー海峡で交戦したもので、イギリスの勝利に終わります。この間にヒトラーはロンドンへの空襲を行いますが、イギリスは持ちこたえ、ドイツ軍のイギリス上陸は出来ませんでした。



V-2ロケット
 ドイツ軍の報復兵器第2号。連合軍の主要都市や重要軍事施設に向かって計3000以上もロケットが発射されました。マッハ4で飛び迎撃することもできず、命中精度もそこそこだったため、イギリス本土に大きい被害を与えています。

ユンカースJu-88R
ロンドン空襲以降のナチス・ドイツの主力軽爆撃機で、主に夜間戦闘爆撃機として使用されました。

スーパーマリン・スピットファイアMk I
 スーパーマリン・スピットファイアは、イギリス空軍を始めとする連合軍で使用された機体で、バトル・オブ・ブリテン勝利の立役者。様々な派生型が登場しましたが、これはそのオリジナル。
(以上、撮影:秩父路号/イギリス空軍博物館(RAF博物館)にて)
 ならば、とドイツは1941年4月にユーゴスラヴィアとギリシャを制圧。
 ギリシャなどバルカン半島は、今までの歴史でお解りの通りはソ連(ロシア)も狙っていましたので、ドイツへの警戒心を出すことになります。

 そこで、ソ連は日本と日ソ中立条約を結び、万が一ドイツが攻めてきた際、日本が東からソ連に攻め込んでこないよう、布石を打ったのですが・・・、1941年6月、突如としてドイツがソ連に侵入し、「まさか、こんなに早く来るとは!」と準備の出来ていなかった、ソ連軍は大敗を喫してしまいます。

 一時は顔面蒼白となったスターリンでしたが、ドイツ軍がモスクワに迫った時点で、ようやく反撃体制が整い、これを押し返します。このため、ソ連はようやくイギリス、アメリカに近づくことになります。短期決戦に失敗したヒトラーは、周辺国家による包囲網に一転して窮地に立たされます。

 こうして、ヒトラーの猛攻はストップし、占領地で工業資源や食糧を奪い、ユダヤ人をアウシュビッツをはじめとする強制収容所で大量虐殺や人体実験、そして多くの外国人を強制労働と、とにかく反感を買う統治方法を採ったため、次第に追いつめられていくことになります。



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