第63回 第2次世界大戦

○アメリカ参戦

 さて、日本は中国での戦線が拡大する中で、アメリカから「満州事変前(1931年)の状態に戻せ」と圧力をかけられていました。おまけに石油供給を停止し、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)と、共に、日本に対するABCD包囲網を形成。当然、そいつは困るぜ、とアメリカと交渉を続けますが、とうとう「戦争だ!」と、1941年12月8日、ハワイの真珠湾にある米海軍基地を奇襲し、アメリカ、イギリスに対して宣戦布告します。

 これである意味で喜んだのがルーズヴェルト大統領。
 当時のアメリカは、まだ他国の揉め事には関わらないという風潮が強かったので、早くチャーチル首相のイギリスを支援したかったルーズヴェルト大統領としては、戦争参加への格好の口実が出来ました。おまけに、ドイツ、イタリアなどもアメリカとの戦争に正式に突入することにしたため、ついにアメリカが動き出すことになりました。

 ここに、ドイツを中心とする枢軸国(ハンガリーやルーマニア、ブルガリアも入っています)VS連合国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連など)の構図が完成し、・・・ていうか、完成した頃には枢軸国側が敗北濃厚になっているのですが、まずはイタリアが敗北濃厚になります。

 1943年7月、ムッソリーニは国王から解任され、ファシスト党は解散します。
 そして新たに誕生したパドリオ政権は、連合軍のイタリア本土侵攻を前に無条件降伏しました。なお、ムッソリーニは投獄されましたがドイツ軍により救出され、まもなく北イタリアに於いてイタリア社会共和国を樹立します。しかし、ヒトラー率いるドイツ軍の完全な監視下に置かれた傀儡国家でした。

○戦後処理構想

 ・・・って、まだ戦争は続いていますが、連合国側は既に戦争終結後の構想を考え始めます。
 まだ日本が参戦する前の1941年8月14日、ルーズヴェルト大統領は、チャーチル首相と大西洋上の軍艦の上で、大西洋憲章を結びます。具体的には
 (1)アメリカとイギリスは領土を拡大しない
 (2)国民は政治体制の選択権をもつ
 (3)国民は国境の変更を強制されない
 (4)すべての国家は原料資源を利用する権利をもつ
 (5)諸国家は経済協力をおこなう
 (6)ナチスを打倒し、全人類は恐怖と貧困から解放される
 (7)公海自由の原則をみとめる
 (8)国際間の武力行使を放棄し、連合国側が勝利したのち軍備縮小を実行する、の8つです。
 これは、連合(国際連合)発足の下地ともなりました。

 さて、1944年6月、アメリカのアイゼンハワー(1890〜1969年)率いる連合軍がノルマンディーに上陸。
 8月にはパリを解放し、ド=ゴールが臨時政府を樹立し、フランス国のペタン国家主席はドイツへと逃亡。後にスイスまで逃げますが、捕まり処刑が宣告。ともあれ、高齢を理由にそれは回避され、大西洋沿岸の小島の監獄で死去しています。そして、ドイツへは連合国が次々と空襲を仕掛け、都市機能を沈黙させます。

 さあ、いよいよナチス・ドイツに最期の時が訪れようとしていました。

 ところで、第1次世界大戦の時のように、ソ連とドイツが勝手に講和を結んだり、戦後処理でもめるわけにはいきません。そこで42年1月には連合国共同宣言をだし、先の大西洋憲章の確認と、単独で講和はしないという約束をします。と言うのも、ソ連がドイツと戦わされていたので、不満たらたらだったのです(第二戦線形成問題)。

 ともあれ、アメリカは日本に空襲をかけて中国を支援する一方、、テヘラン(1943年)、ヤルタ(1945年)、ポツダム(1945年)での連合国首脳会談を開き、戦後の国際秩序について煮詰め、さらに東ヨーロッパにおけるソ連の勢力圏をみとめさせることで、ソ連に対日参戦決断させます(元々ソ連と日本は中立条約を結んでいた)。

○ヒトラーとムッソリーニの最期

 こうした中、1945年4月20日、アドルフ・ヒトラー総統の56回目の誕生日がベルリンの総統官邸地下壕で行われました。その席で宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスはヒトラーに向かって次のように述べました。
「我が総統よ。あなたを祝福します。ルーズベルトが死にました。星回りによりますと、四月の後半は我らにとって一大転換点になるだろうと記されています。」

 たしかに、4月12日にはルーズヴェルト大統領が死去したことから、やや連合国側に足並みの乱れが生じていましたし、過去にはプロイセンのフリードリヒ大王が、ベルリン陥落直前になってロシアが味方についたことで九死に一生を得たこともありました。

 しかし、そうした虚勢もむなしく、4月25日にアメリカのサンフランシスコに50ヶ国の代表が集まり、連合国全体会議を開催。この会議では戦後世界の安全保障と、国際連合の創立が議題となります。 そして、同日、米ソ両軍はドイツのエルベ川で出会い、ドイツ軍を分断(エルベの出会い)。さらに4月28日、ソ連軍は既にベルリン市内に突入します。

 このような中、ヒトラーの側近達はゲーリング国家元帥をはじめ次々と逃走。ですがヒトラーの最期は孤独ではありませんでした。彼は 4月28日に、愛人エヴァ・ブラウンと結婚。30日の午後3時半ごろ、ヒトラーは拳銃自殺、エヴァは服毒自殺によって死去しました。

 5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏します。
 一方で4月28日、つまりソ連軍がベルリンに突入した日、既にヒトラーの操り人形と化していたイタリアのムッソリーニは、パルチザン(ゲリラ軍と同じ意味)に攻撃され、ドイツ軍と共にスイスへ逃亡する途中に捕らえられ、愛人のクララ・ぺタッチと共に銃殺されます。そして、なんと遺体はガソリンスタンドに逆さ吊りにされ、見世物にされるのでした。
 
 こうして、ヨーロッパ戦線はいよいよ終結。
 日本も、アメリカから原子爆弾を広島、長崎に落とされ、恐ろしいほどの人数が一瞬にして虐殺され、さらにソ連が侵攻してくると、とうとう降伏を決意。8月15日にポツダム宣言を受諾し降伏、ここに第2次世界大戦は終結するのでした。この戦争での犠牲者は、数千万人に上るとも言われています。

 さらに、多くの難民が発生し、また迫害されたユダヤ人たちがパレスティナに大量移住することで、ますますこの地域の民族バランスが崩れ、未だに終わりの見えないパレスティナ紛争が続きます。

 一方で、この戦争によってヨーロッパが世界各地で植民地支配するという構図が、とうとう終わりを迎えます。
 遅かれ早かれ、各地の独立要求に応えていかなければいけませんでした。
 もはや、ヨーロッパ諸国に世界各地を支配する力は残っていなかったのです。

○国際連合の設立と冷戦へ

 そして世界は、新たな段階へと進もうとしていました。
 1945年10月、ニューヨークを本部とし、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国を常任理事国&拒否権を持つ国とする国際連合・・・正しくは、United Nationsですから、連合が発足します。国際平和を維持し、経済と文化、教育の発展を助け、基本的人権を擁護しようという、崇高な理念の下に誕生します。

 そして、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)、国際労働機関(ILO)、世界保健機関(WHO)などの、お馴染みの機関が誕生し、これらはかなりの効果をあげていると私は考えています。

 一方、資本主義のトップであるアメリカと、共産主義のトップであるソ連の対立がこれ以後激化し、いつ戦争が起こるか解らない、冷戦状態というのが長く続きます。・・・しかし、ソ連崩壊後に判明しましたが、実際には経済的にも軍事的にも、アメリカが圧倒的に優位だったんですけどね。

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