4回 1945年〜54年(4):中東情勢

○はじめに

 続いて中東情勢について見ていきましょう。中東諸国は第2次世界大戦に直接巻き込まれることがなく、欧米列強と結びついた王朝と、欧米の利権が継続していました。しかし、これに抗議する民族運動が発生していくほか、未だに解決の道筋が見えないパレスチナ問題も深刻化。これについては未だに解決の糸口すら見えていません。

○アラブ連盟の結成


 第2次世界大戦末期の1945年3月22日、エジプト、シリア、イラク、レバノン、トランスヨルダン、イエメン、サウジアラビアの7カ国でアラブ連盟が結成され、統一的な行動による発言力強化が図られます。

 そして1946年にはトランスヨルダンがイギリスから独立することに成功し、1949年にはヨルダン・ハシミテ王国と国名を変えます。また、フランスの支配下にあったシリアも1946年に独立を達成します。
(*地図は現在の国境を示す:外務省ホームページより 一部編集)

 一方、既に第一次世界大戦後からアラブ人とユダヤ人の対立が起こっていたパレスチナ地域。

 元々、オスマン帝国の領土だったものを、第一次世界大戦下の1917〜1918年にイギリスが獲得していました。当時、イギリスはパレスチナの独立を約束して、アラブ人を反トルコ運動に協力させていました。一方、ユダヤ人の協力も得たかったイギリスは、1917年に出したバルフォア宣言で、パレスチナにユダヤ人の地を建設することを約束。

 ・・・まさに二股交際。
 その後、イギリスは国際連盟によってパレスチナの信託統治が認められ、問題の先送りを図りますが、ユダヤ人たちはパレスチナに国家を建設するんだ!と意気込み移住を開始。移民はナチス=ドイツによるユダヤ人迫害で拍車がかかり、これにアラブ人たちは反発し、衝突していきます。なぜユダヤ人がたちがパレスチナを求めたのかというと、ユダヤ教の聖典旧約聖書で、パレスチナは神がイスラエルの民に与えた約束の地とされていたから。

 しかし2000年前にローマ帝国のハドリアヌス帝によって「反乱を続けるので、お前らを追い出すぞ!」とユダヤ人たちはこの地を追い出されたのですが、長い長い年月の中でも、いつかはパレスチナに戻ることを目標にしていたのでした。それが良くも悪くも、第1次世界大戦と第2次世界大戦後の政治情勢の中で、あれよあれよと2000年来の悲願が実現。しかし、現実にパレスチナに住んでいるアラブ人たちにとっては、たまった話ではありません。

 しかし1948年、国際連合はパレスチナをアラブ人、ユダヤ人に分割する案を作成。ユダヤ側はこれを受け入れ、同年5月14日にイスラエルの建国が宣言されます。イスラエルとはヘブライ語で「神の戦士」を意味し、これは紀元前1020年ごろにこの地域で誕生した古代国家イスラエル王国の名称を引き継いでいます。

 これに対してアラブ連盟は反対し、建国の翌日にアラブ連合軍(エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク)がイスラエルに対して攻撃を開始します。これをパレスチナ戦争、もしくは第一次中東戦争といいます。これに対し、イスラエル軍は第2次世界大戦集結によって余ったヨーロッパの兵器を大量に買いつけ、さらに大戦を多々抜いた兵士たちも参加する一方、アラブ連合軍は指揮系統がバラバラでした。

 こうした状況下で、実質的にイスラエルの圧勝に終わり、イスラエルは国連による分割案を上回る領土(パレスチナの約77%)を獲得。一方、その他のパレスチナの地域はヨルダンとエジプトによって占領されました。

 また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3宗教にとって聖地となっているエルサレムは、西エルサレムをイスラエルが、東エルサレム(旧市街で聖地がある)をヨルダンが占領しました。こうしてイスラエルは独立を維持し、100万人にも及ぶアラブ人の難民が発生してしまいました(パレスチナ難民)。この問題は、引き続いて尾を引いていきます。



イスラエルの首都・エルサレムの風景(撮影:ムスタファ)

○エジプト

 第一次世界大戦後、エジプトはオスマン帝国の支配から、イギリスの強い影響を受けた王国が名目上の独立を保っていました。そして、第二次世界大戦ではイギリスはエジプトも参戦させ、大きな負担を強います。こうした中、ムスリム同胞団のようなイスラム原理主義グループや、共産主義グループが出現します。

 そしてエジプトは第一次中東戦争にアラブ側として参戦しますが、イスラエル建国阻止という目的を果たせず撤退。1952年、ムハンマド=ナギブ将軍(1901〜1984年)やガマール・アブドゥル=ナセル(1918〜70年)に率いられた自由将校団を中心とする軍部によるクーデターが起こり、国王が追放。1953年にエジプト共和国が誕生し、ナギブが大統領に就任します。

 しかし、彼に実権は無く、1954年に首相となったナセルが実権を握ります。ナセルは同年中にイギリスを撤退させることに成功。11月にはナギブを大統領の座から引き摺り下ろすのでした。



首都・カイロの風景(撮影:ムスタファ)

○CIAによって政権が転覆したイラン

 パフラヴィー朝が統治していたイランでは、1951年にモハンマド・モサッデグ首相がイギリスの利権を撤廃するため、イギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社の国有化を議会に認めさせます。これに対しイギリスは反発し、イランに対して経済制裁を実施。経済危機に陥ったイランでは、連立政権が崩壊して政治が流動化する中で、ソ連に接近し、なんとモサッデグ首相はモハンマド・レザー・シャー皇帝の退位を要求します。アメリカ、イギリスには受け入れられない事態でした。

 こうした中、モサッデグ首相は皇帝に罷免されますが、反王政主義者たちが暴動を起こしてモハンマド・レザー・シャーは亡命を余儀なくされました。一方、アメリカはCIAを使ってイラン国内の工作を行い、モハンマド・レザー・シャーの帰国とモサッデグ首相の拘束を実現。

 イラン石油利権はアメリカ、イギリス、フランス、オランダで分配できるよう、皇帝に認めさせました。こうして、イラン皇帝としては政権の存続に成功しますが、国民による反欧米感情が高まっていくことになります。



サーダバード宮殿(撮影:ムスタファ)
イランの首都テヘランに残るパフラヴィー朝の宮殿。
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