第7回 1955年〜64年(2):冷戦の激化、一発触発の米ソ

○はじめに&まずは核兵器のお話から

 前回は米ソの宇宙開発競争を見ました。
 今回は米ソの政治的対立を中心とした冷戦を軸に、この年代に起こった出来事を見て行きましょう。

 まず復習になりますが、1949年にアメリカとヨーロッパ西側諸国は北大西洋条約機構(NATO)を結成し、これに対してソ連とヨーロッパ東側諸国は経済相互援助会議(コメコン)を結成し、それぞれが米ソとの結びつきを強めます。ちなみに、ヨーロッパの東側諸国の中でもギリシャはNATOへ、またトルコもNATOに1952年に加盟しています。

 そして米ソの東西対立の中で、不気味な存在が核兵器
 既にアメリカは第2次世界大戦末期に日本へ原子爆弾(原爆)を2発も落として威力を実証済みでしたが、ソ連も1949年に原爆の開発に成功。加えて、アメリカは1952年に水素爆弾(水爆)の実験に成功。さらに翌年、ソ連も水爆の実験に成功したと発表(*もっとも当時のものは、完全な水爆ではなかったようです)。

 ちなみに原爆と水爆の違いですが、エネルギーを放出する核反応が異なります。
 原爆・・・主に核分裂
 水爆・・・主に核融合 というわけ。

 また、ソ連の水爆実験の約5ヶ月前である1953年3月5日には、ソ連の最高指導者であるヨシフ・スターリンが死去。独裁者の死は大きな波紋を広げましたが、だからと言ってここで米ソの対立が終了するという簡単なものにはなりません。スターリンのあとは、ゲオルギー・マレンコフ(1902〜88年)が3月6日から3月13日まで登板しますが、直ぐにニキータ・フルシチョフ(1894〜1971年)に権力を譲ります。今回扱う時代では、ソ連はフルシチョフを軸にお話が展開します。

 一方、アメリカは1953〜61年が共和党のドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー大統領(1890〜1969年)、1961〜63年が民主党のジョン・F・ケネディ大統領(1917〜63年)の政権です。

 ソ連に話を戻しますが、マレンコフは、その後も2年間首相を務め、「核兵器は世界の破滅を招く」と反対の姿勢を示し、西側諸国の融和を説きますが、反発を受けて辞任を余儀なくされています。

 また、ソ連で原爆の開発に従事し、さらに水爆を完成させた物理学者のアンドレイ・サハロフ(1921〜89年)は、放射線による汚染を見て核兵器に反対。核実験を中止するようフルシチョフに進言します。さらには、ソ連の体制を批判するようになり、人権問題にも取り組みます。

 これでよくまあ政府から叩かれなかったものですが、後の話になりますが1980年にはソ連のアフガニスタン侵攻に反対したことから、とうとうゴーリキー市(現ニジニーノブゴロド)に流刑されています。モスクワに戻ることが許されたのは1986年でしたが、勇気ある発言と行動は多くの人の尊敬を集めました。

○もうちょっと核兵器のお話を

 今度はアメリカに話を移しますが、アメリカによる水爆実験で大きな被害が出たのが1954年3月1日にマーシャル諸島共和国のビキニ環礁で行われた水爆実験では、多数の日本漁船が操業しており、700隻近くが死の灰を浴びます。このとき、遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の船長であった長久保山愛吉が半年後に死亡。

 これを契機に、世界的な原水爆禁止運動が起こっていきます。
 ちなみにビキニ環礁はアメリカにとって核兵器の良い実験場で、1946年から1958年にかけて23回も核実験が行われています。原住民は強制移住させられ、放射能汚染によって未だに戻ることは出来ていません。なお、ビキニ環礁は2010年に世界文化遺産に指定されました。

○ワルシャワ条約機構の結成


 さて、お話を米ソの政治的なものへ戻しましょう。
 NATOが西側の軍事同盟、コメコンは東側経済協力機構でしたが、おっと東側の軍事同盟も結成しないとまずいじゃないか!ということで、1955年にソ連を中心としたワルシャワ条約機構という軍事同盟が結成されます。

 加盟国は、アルバニア、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツ(ドイツ民主共和国)、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、そしてソ連。ただし、アルバニア(左地図参照)は1961年にソ連と断交し、1968年に機構から脱退しています。

 と言うのも、アルバニアは1950年代後半から非スターリン化、資本主義国との平和共存を進め、さらに(ソ連とは一線を画した社会主義国の)ユーゴスラヴィアとの和解を目指し始め、ソ連との関係が悪化していたのでした。ソ連と手を切ったアルバニアは中国との関係を深めています。

○フルシチョフのスターリン批判と、反ソ暴動

 この時期のソ連について、さらに詳しいことは別コーナーのロシア史を是非参照して欲しいのですが、ワルシャワ条約機構結成の翌年である1956年2月、ソ連共産党第20回大会において、ソ連の最高指導者であるフルシチョフが、スターリンを批判した秘密報告を行います。内容としては主に、

 ・レーニンがスターリンを批判した遺言の紹介
 ・スターリンへの「個人崇拝」が党と国家に大きな損失をあたえた。
 ・無実の同志に対する大量弾圧
 ・独ソ戦開戦時のドイツに対する無警戒と、戦争指導上の誤り
 ・外交政策の誤りに大きな責任がある

 といったものです。あくまで「秘密」報告だったのですが、なんとこれをアメリカ国務省がこれを暴露します。

 スターリン体制からの転換によって、日本はソ連と1956年10月に日ソ共同宣言を発表し関係が改善。さらに、ソ連は西ドイツとも国交回復を実現し、時代が大きく変わったかに見えました。


 ええ、変わったかに見えたんですよ。ということで、「そろそろ大丈夫かな?」とハンガリーで反ソ暴動が発生します。というのも、この国ではスターリン死去を受けて、ナジ・イムレ首相が社会主義を緩和した改革を行っていたのですが、1955年4月に失脚。そこへ、このスターリン批判と来たものですから、民衆は「求む民主化!ナジ首相の復権を!」と訴えたんですね。

 そして1956年10月23日に首都のブダペストで発生したデモは大きく広がり、ハンガリーの独裁政党であるハンガリー勤労者党も、ナジを首相に復権させることを決定し、翌日にナジは首相に復権します。そしてハンガリーの民衆とソ連軍が争う中、ナジは一党制の廃止、自由選挙の実施、駐留ソ連軍の撤退、ワルシャワ条約機構からの脱退などの宣言を行いました。

 一度はハンガリーから手を引いていたソ連軍でしたが、この性急な動きは黙認できず、しかも街中では共産党員が民衆によって虐殺されるという事件まで発生したことから、再び軍を出動。民衆を蹴散らし、ユーゴスラビア大使館に亡命していたナジを「身の安全を保障する」とウソをついて捕らえ、秘密裁判で処刑しました。これをハンガリー動乱といいます。

 ハンガリーの改革は夢と終わり、勤労者党を改組したハンガリー社会主義労働者党による、一党独裁政権へ戻りました。

○第二次中東戦争

 これだけ見ると、ソ連ひでぇという話ですが、同じ年にイギリスとフランスも、結構な荒業を中東に行使しようとします。
 対象となったのは、エジプト。これも復習になりますが、ナセルが政権を取っていましたね。


 1956年7月、ナセル大統領はヨーロッパとアジア、オセアニア、アフリカを結ぶ重要な航路である、スエズ運河の国有化を宣言します。これは、エジプト革命によってアメリカとイギリスが建設から手を引いていたアスワン・ハイ・ダムの建設資金を獲得するために、スエズ運河を通る船からお金を徴収しよう、というのが狙いです。

 地図を見ていただけるとわかりますが、ヨーロッパから海路でアジア方面に抜けるとき、この運河がないと南アフリカのほうまでぐるっと大回りしないといけません。このスエズ運河がある、ということは船舶にとって計り知れないメリットがあるんですね。

 これに対して、「船で無料で通行させろ!」イギリスとフランスが反発します。そこで炊き付けたのが、イスラエルでした。スエズ運河の東側、シナイ半島を狙っていたイスラエルにエジプトを侵攻させ、交戦状態になったところで、事態を収拾するためと、イギリス軍とフランス軍を派遣し、スエズ運河の確保を狙います。

 いざ戦闘が始まってみますと、エジプトのボロ負けで、ナセル大統領は大ピンチとなります。
 ところが、ここで思わぬ動きが発生。なんと、アメリカとソ連が共同で、イギリスとフランス、イスラエルを批難します。そして、英仏の拒否権で機能不全となる安全保障理事会ではなく、国連緊急総会が11月1日に開催され、翌日に停戦が決議。イギリス、フランス、イスラエルはこれに従い、撤退せざるを得ませんでした。代わりにスエズ運河には、初となる国連平和維持軍がしばし駐留し、1967年5月に撤退しています。

 これによって、特にイギリスは多大な戦費を投入した挙句に何も得るものが無く、財政危機に陥ります。フランスと共に中東における影響力を失い、代わってアメリカが中東、さらにヨーロッパでも更に影響力を強めることになりました。一方、ナセル大統領はソ連と接近し、ソ連の資金・技術協力でアスワン・ハイ・ダムを建設。1970年に完成しました。


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