第13回 1965年〜79年(3):カンボジアの疲弊とASEANの発足

○シンガポール独立

 1965年8月9日、マレーシア連邦からシンガポールが独立します。その原因となったのは、シンガポール地域に多い中国系住民とその他地域のマレー系住民との民族対立の激化ですが、独立そのものはマレーシアのラーマン首相とシンガポールの人民行動党(PAP)のリー・クアンユー(李光耀 1923年〜)の両首脳の合意の上によるものです。また、シンガポールは同年12月に共和国政に移行しました。

 シンガポールはその後、現在見られるように海外からの投資による商業国家として著しい経済成長を遂げます。一方で政治体制は1990年までリー・クアンユーが首相を務めて実権を握り、彼が率いる人民行動党による事実上の一党独裁。選挙制度はあり、野党は一応認められますが、その活動は大きく制限されています。この体制は今に至るまで変わっていません。



高層ビルが立ち並ぶ現在のシンガポール

○ASEAN(アセアン)の発足

 これまで見たようにヨーロッパでは各国が経済的なつながりを求め、欧州諸共同体(EC)と総称される協力体制を誕生させていましたが、東南アジアに目を向けますと1967年8月、タイ、インドネシア、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5か国で東南アジア諸国連合ASEANAssociation of South-East Asian Nations)という地域協力機構を発足させました。

 これに伴いタイのバンコクで採択された「東南アジア諸国連合設立宣言」(通称「バンコク宣言」)では、機構の目的として
(1)域内における経済成長、社会・文化的発展の促進
(2)地域における政治・経済的安定の確保
(3)域内諸問題の解決

 を掲げています。

 加盟国はいずれも非共産主義国家であり、当初は反共主義の立場でした。また、加盟国は長らく増えることはなく、1984年にブルネイがイギリスから独立した直後に加盟。さらに、1995年にベトナム、97年にミャンマーとラオス、99年にはカンボジアが加盟し、東南アジア全域に加盟国を広げたほか、1978年には日本を加えたASEAN拡大外相会議を開催したのを皮切りに、アメリカやオーストラリア、現在のEUなどASEAN以外の国を加えた会議も開催するなど、幅広く活動しています。

○混迷深めるカンボジア


 さて、今度はカンボジアに話を移しましょう。前回のベトナム戦争も大変悲惨な戦争でしたが、このカンボジアもベトナム戦争に巻き込まれた上に、とんでもない指導者がトップに立ち、凄まじい大虐殺を行うという悲劇に見舞われます。では、少し時代を遡りますが、1953年、フランスから独立したときから見ていきましょう。

 まず、フランスから独立したカンボジアは、ノロドム・シハヌーク(1922年〜)を国王とする立憲君主国家となります。
 しかし、この国王という地位は憲法上の制約が色々とあって政治的な自由度が効かず、シハヌークとしては自由に力を振るうことが出来ませんでした。

 そこで彼は、自由に政治活動を行うため、1955年に王位を父のスラマリットに譲って政治家に転身します。
 そして人民社会主義共同体(サンクム)という政治組織を作って総裁となり、王政社会主義という国家体制を目指し、同年の選挙で大勝すると首相兼外務大臣に就任します。さらに1960年にはスラマリットの死去すると、シハヌークは国民投票で新設の国家元首に就任しました。

 さて、ここからが今回扱う時代の話ですが、お隣のベトナムで戦争が激化する中、シハヌークは中立政策を取ります。ところがサンクムの内部で左派と右派の対立が激化する中、1968年にはポル・ポト(1928年〜98年)や、キュー・サムファンら左派のクメール・ルージュ(カンボジア共産党)が分派し、カンボジアのジャングルに逃れて、武力闘争を開始します。

 さらに1970年3月、首相兼国防相ロン・ノル将軍と副首相シリク・マタク(シハヌークの従兄弟)などが率いる反乱軍がクーデターを決行し、カンボジア議会は外遊中だったシアヌークの解任を決定します。そしてロン・ノルを首相(のち大統領)とするクメール共和国が発足しました。

 ロン・ノル政権はアメリカのニクソン政権と手を組み、同年4月からのアメリカ軍によるカンボジアに侵攻を容認し、カンボジア国内のベトナム共産勢力叩きに協力する一方、アメリカからの経済支援を得ます。

 一方で追放されたシハヌークは、中国の北京に亡命。カンプチア民族統一戦線を結成し、さらにクメール・ルージュと手をむすんで「王国民族連合政府」を北京で樹立し、ロン・ノル政権に対抗します。一方、カンボジア国内ではアメリカによる爆撃で農村が破壊されていきし、これに反発する人々の支持でクメール・ルージュの勢力は伸張していきました。

 しかし、前回見たようにアメリカはベトナム戦争から手を引くことにします。
 そして1973年3月29日にアメリカ軍はベトナムから撤退したため、カンボジアからも撤退しました。そうなると、ロン・ノルは後ろ盾を失ってしまいます。後に残ったのは、戦争によって疲弊した国土、経済と、食糧不足。そしてクメール・ルージュが攻勢を強めてロン・ノル政権側は敗北し、1975年4月1日にロン・ノルは国外へ脱出し、間もなくハワイへ逃れます。

 こうしてクメール共和国は崩壊し、1975年4月17日にポル・ポトらが率いるクメール・ルージュ(カンボジア共産党)が政権を握り、国家元首にはシハヌークが就任。1976年1月には新憲法を制定し、民主カンプチア(Democratic Kampuchea)を国名としました。

○ポル・ポト政権による大虐殺

 こうして元の地位に復帰したシハヌークでしたが何の権限も与えられず、プノンペンの王宮で幽閉同然の身となります。そして、1976年4月に国家元首を辞任することになり、引き続き軟禁状態に置かれます。そして、キュー・サムファンが国家元首(国家幹部会議長)、ポル・ポトが首相となります。実質的に権力を握ったのはポル・ポトで、首相に就任する前後から資本主義を完全否定すべく、恐るべき政策に出ます。

 簡単に言えばこんな感じ。
 ・約200万人のプノンペン市民を地方へ強制移住させ、食糧生産など強制労働
 (妊婦や高齢者など例外無く、多くの犠牲者が出ます)
 ・医師や教師、技術者をはじめ、文字が読めそうな人間は皆殺し
  (なんと、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者というだけで殺害。)
 ・貨幣の廃止
 ・仏教を弾圧し、僧侶は還俗、寺院は破壊

 こうして少しでも自分に反対しそうだと思われる人間は徹底的に排除し、後には自らが率いるクメール・ルージュに対しても容赦なく反乱容疑などをかけて処刑。首相をつとめた3年間に、100万人以上が処刑、病気、飢えなどで死んでいったと推測されますが、あまりの規模に正確な数字は良く解っていません。

 さらにポル・ポトはベトナムを激しく憎み、1978年1月にベトナムに攻め込んで現地住民を虐殺。国交を断絶します。既にベトナムは内戦が終結し、統一国家となっていたわけですが、このカンボジアの動きに激怒。ポル・ポト派の粛清を逃れてベトナムに亡命していたヘン・サムリン(1934年〜 )ら、クメール・ルージュの地方幹部ら中心に結成されたカンプチア救国民族統一戦線を支援し、ポル・ポト政権崩壊を目指します。

 そして1978年12月25日、カンプチア救国民族統一戦線とベトナム軍はカンボジアに侵攻し、翌年1月にポル・ポト派は敗北してカンボジアのジャングルに逃れ、政権は崩壊。ヘン・サムリンを中心にしたカンボジア人民共和国が発足しました。

 ちなみに中国はポル・ポト派を支援していたことから、ベトナムによるカンボジア侵攻に対抗すべく、1979年2月にベトナムに侵攻します(中越戦争)。しかしベトナム軍の返り討ちに遭い、撤収。こうして、ベトナムはカンボジアに強い影響力を持つことになります。また、政権を失ったポル・ポト派ですが、中国の支援を受けてゲリラ戦を続けます。ここから先については、また1980年代のページで御紹介しましょう。

 ところで、今まで中国は同じ共産主義国家のベトナム(北ベトナム)と仲が良かったはず。どうして戦争になってしまったのか。・・・実はこの時代、中国とソ連が対立するようになり、ベトナムはソ連寄りでした。両国の関係が正常化するのは1991年11月まで待つことになります。

○インドネシアでスハルト政権が誕生


 今度はインドネシアに目を移してみましょう。
 これまで見たように、第2次世界大戦後にオランダから独立したインドネシアは、スカルノ大統領が長らく権力を握っていました。こうした中で国内では軍と共産党の勢力が伸張し、両者は対立。そして1965年9月30日に大統領親衛隊長ウントゥン中佐が指揮する反乱が発生し、陸軍司令官ら6人の有力な将軍が殺害されます。

 これに対し、戦略予備軍司令官スハルト少将(1921〜2008年)は軍を掌握して反乱を鎮圧すると共に、事件の背景には共産党があると主張し、弾圧を開始し、多くの共産党員が殺害されます。さらに1966年3月、スハルトはスカルノから権力を全面的に委譲させました。

 1968年3月にスハルトは大統領に就任。軍主導で政権運営が進められ、スカルノ政権時代と異なり、海外からの投資や借款によって経済発展を進め、外交政策ではスカルノ政権時代から大きく転換し、親米・親マレーシア・反共(=反中国)路線に。さらにスカルノ大統領は国連を脱退させていましたが、これにも復帰し、欧米諸国から歓迎されました。

 一方、1975年にポルトガルが東ティモールから撤退し、共産勢力である東ティモール独立革命戦線(フレティリン)が、同地域の主都であるディリを支配下に置いて独立を目指します。これに対しスハルト大統領は12月に東ティモールに侵攻し、翌年に24番目の州として併合。国際社会からの批難を浴びます。

 さらにスマトラ島北東部のアチェ独立運動に対しても、軍を派遣して弾圧。厳しい姿勢で臨んでいます。そして、国軍をバックに権力基盤を固めたスハルトは、1998年まで大統領を務めることになりました。

○マルコス体制のフィリピン


 最後に、この時代のフィリピンを見ていきましょう。
 1965年の大統領選挙で、フェルディナンド・マルコス(1917〜89年)が勝利し、大統領に就任。ここから20年にわたるマルコス体制が続きます。経済は好調で、1969年の大統領選挙でも再選。そして、アメリカのベトナム政策を支持します。このため、共産党の軍事組織である新人民軍(NPA)による反乱・ゲリラ戦が起こります。

 さらにフィリピン南部では、分離独立を目指すイスラム教徒を主体とするモロ民族解放戦線(MNLF)が結成。北部はキリスト教徒が多いフィリピンですが、南部のスル諸島、ミンダナオ島には14世紀末にイスラム教が伝えられて定着し、16世紀後半に(キリスト教国である)スペイン、続いてアメリカが植民地として支配する中、約300年にも及ぶ抵抗を続ていました。
(モロとは、フィリピンにおけるイスラム教徒のこと)

 そしてマルコス政権になると、開発政策によって大量の移住者がやって来て紛争になります。

 こうした歴史的背景がある中、マルコス大統領は2期目の大統領任期を終える前の1972年9月に戒厳令を施行します。すると翌月、ホロ島でモロ民族解放戦線が指揮するモロ国民軍が決起したのを皮切りに、次々と反政府の火の手が上がります。このため、フィリピン国軍は兵力の3分の2から4分の3を投入しますが、思うように鎮圧できません。

 このためリビアのカダフィー革命評議会議長(1942〜2011年)による仲介で交渉が進められ、1976年12月に政府とモロ民族解放戦線は、南部13州の自治権付与を内容とするトリポリ和平協定に調印しました。これによって和平に賛成、反対のグループでモロ民族解放戦線は分裂し、結果的に反政府の動きは弱体化していきました。

 こうしたモロ民族解放戦線側の足並みの乱れもあって、マルコス大統領時代には自治権付与は実現せず、さらにモロ民族解放戦線から分離したモロ・イスラム解放戦線などは軍・警察当局に対する襲撃、無差別爆弾テロ、身代金目的誘拐等などを現代でも行っており、新人民軍(NPA)等の反政府共産勢力ともども、火種がくすぶっている状況です。

○今回の年表

 さて、同時並行で東南アジアの歴史を見てきましたが、時系列順だと何がなんだか「?」だと思います。
 ということで最後に、年表形式でざっとまとめておきます。

1965年 1月21日 インドネシアが国連から脱退。
2月7日 アメリカ軍による北ベトナム爆撃(北爆)開始。
8月9日 シンガポールがマレーシアから独立
9月30日 インドネシアで9・30事件発生
12月30日 マルコスがフィリピン大統領に就任。
1967年 3月27日 インドネシアでスカルノに代わって、スハルトが大統領に就任。
  8月8日 東南アジア諸国連合(ASEAN)結成。
1968年 10月 アメリカが北爆を停止(1972年に再開)。
1971年 2月8日 南ベトナム軍がラオスに侵攻。
1972年 8月11日 アメリカ、ベトナムからの地上勢力を撤退。
12月18日 アメリカが北爆を再開。
1973年 1月27日 ベトナム和平協定が締結。
1975年 4月17日 クメール共和国が崩壊。ポル・ポト派が政権を握る。
4月30日 サイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結。
12月2日 ラオス人民民主共和国が成立。
1976年 1月15日 ポル・ポト政権が国名を民主カンプチアとする。
  7月2日 南北ベトナムが統一し、ベトナム社会主義共和国成立。
1979年 1月17日 民主カンプチアが崩壊。ベトナムの支援でカンプチア人民共和国が成立。
2月17日 ベトナムと中国が交戦(中越戦争)

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