第26回 1980年〜89年(7):80年代のインドと東南アジア

○インディラ・ガンディーの暗殺

 インドの初代首相であるネルーの娘、インディラ・ガンディーは1966年に首相に就任し、長期政権を担っていましたが、その強権的な手法に批判が集まり、1977年の選挙で与党の国民会議派が大敗し、自身も落選してしまいます。しかし、政権を奪取したジャナタ党は反インディラを掲げて急きょ結成された4野党による連合で、1979年に分裂してしまいます。

 このため、1980年の選挙では再びインディラ・ガンディーが政権を奪還しました。
 ところが1984年10月31日、インディラ・ガンディーは官邸の庭で、なんと2名の警備員によって暗殺されてしまいました。こうして長期にわたるインディラ政権に幕が下ろされたわけですが、なぜでしょうか。

 実はインドはヒンドゥー教徒が多数を占めるとは言え、多民族で多宗教の国家です。このため、様々な対立が起こりやすい状況でした。そこで、今回の暗殺劇のカギとなるのがシク教という宗教でした。シク教はグル・ナーナク(1469〜1539年)がインドに創始した宗教で、総本山はインドのパンジャーブ州アムリトサルにあるハルマンデール(ゴールデン・テンプル/黄金寺院)です。ちなみにシクは弟子を意味し、グルは導師または聖者を意味します。


 ちなみに黄金寺院の場所はこちら。地図を引いていただけるとわかりますが、黄金寺院のあるパンジャーブ州はインドの北西部に位置します。


 さらに、これが黄金寺院です。実に美しく壮麗ですね〜。

 さて、1965年にパキスタンにいたシク教徒がイスラム教徒の戦いの結果、インドに移住してきます。こうしてインドにおけるシク教徒がさらに増加したのですが、彼らはインドにおいて自治を要求し、インド政府は翌年にパンジャーブ州を設立し、一定の配慮を見せます。

 しかしさらなる自治権の拡大、または独立を求める声がシク教徒の中から起こり、宗教的指導者の1人ジャルネイル・シン・ビンドランワレ(1947〜84年)率いるグループなど、一部はテロ行為に出たことから、ついにインディラは軍事力で過激派を押さえつけることにします。

 こうして6月3日から6日にかけて、ブルースター作戦を発動。インド軍が黄金寺院を襲撃し、ジャルネイル・シン・ビンドランワレを含む450人以上を殺害しました。当然のことながら、シク教徒はインディラへの報復を誓い、シク教徒だった警備員が同年10月31日にインディラを殺害した・・・というわけです。

 これは憎悪の連鎖につながり、今度はヒンドゥー教徒がシク教徒の家々を襲撃し、1000人以上とも資料によっては数千人とも表記される死者を出しています。

 一方、インディラ・ガンディーの跡を継いで首相となったのは、彼女の息子であるラジーヴ・ガンディー(1944〜91年)。40歳という若さで首相となり、対米関係の強化やインド科学技術の発展に尽力する一方、スリランカ内戦に介入します。結果的に彼は、これが元で1991年に暗殺されてしまいました。

○スリランカ内戦


 では、スリランカ内戦とは何か。
 スリランカでは1983年、北部・東部にすむタミル人の分離独立国家をめざすタミル・イーラム解放の虎(LTTE)が、シンハラ人が主導する政府に対して闘争を開始します。1987年にタミル・イーラム解放の虎は独立を宣言する一方、インドはスリランカ政府を支援し、軍事介入しますが成功しませんでした。

 一方、タミル・イーラム解放の虎はインドを敵視し、1991年にラジーヴ・ガンディーを自爆テロで暗殺したのです。当時の彼は1989年の総選挙で敗北しており、復権を目指して遊説中でした。

 ちなみにスリランカ内戦は延々と続きますが、少しずつ政府軍がにタミル・イーラム解放の虎を追い詰めていきます。2009(平成21)年にタミル・イーラム解放の虎は敗北を宣言しました。

マハティールの「ルック・イースト政策」


 マレーシアでは1981年、マハティール・ビン・モハマド(1925年〜 )が首相に就任します。マハティールは22年間にわたって首相を務めましたので、まさに80年代と90年代のマレーシアを語る上では欠かせない存在ですが、その政策方針が「ルック・イースト政策」と呼ばれています。

 簡単に言えば、西洋の個人的価値観ではなく、日本のように集団の利益を優先しよう!というもので、当時は日本に多くの留学生が派遣されました。

ビルマからミャンマーへ

 ミャンマーでは1988年3月と6月に大規模な民主化運動が起こり、1962年以来政権を握っていたネ・ウィンが、ついに党議長を辞任します。そして軍事政権が不安定になる中、1988年9月にソウ・マウン将軍(1928〜97年)がクーデタを決行し、国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置し、彼は議長に就任。一方、総選挙による民主化を約束したことから、建国の父であるアウンサンの長女アウンサン・スーチー(1945年〜 )を書記長とする国民民主連盟(NLD)などが活動を活発化させます。

 1989年6月、ソウ・マウン議長は国名をビルマからミャンマーに、首都名をラングーンからヤンゴンに変更。一方、国民民主同盟のティン・ウ議長とアウンサン・スーチー書記長を国家破壊法違反として自宅に軟禁し、政治活動も禁止するなど、結局は民主化の動きを弾圧していきます。

 これ以後、ミャンマーは長い間、軍事政権時代が続くことになります。

フィリピン〜マルコス大統領の失脚〜

 フィリピンでは1965年からフェルディナンド・マルコス(1917〜89年)が大統領を務めており、80年代に入ると特に独裁に対する反感が高まります。そうした中、1983年に反政府指導者として名高かった、ベニグノ・アキノ・ジュニア(1932〜83年)が、亡命先のアメリカから帰国すべく、マニラ国際空港に降り立った直後に暗殺されます。

 人々は「マルコスの指示だ!」と考え、反マルコスの動きが加速。1986年2月の大統領選挙では、ベニグノ・アキノ・ジュニアの妻であったコラソン・アキノ(1933年〜2009年)とマルコスの争いになり、政府はマルコスが勝利!と発表しましたが、世論は納得せず、流石のマルコスもハワイへの逃れることとし、ついに独裁政権が終焉しました。

 アキノ大統領は1987年に新憲法を施行し、議会選挙を行っています。1992年まで大統領職を務めました。

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