第32回 1990年〜99年(6):ルワンダ紛争の悲劇

○対立を煽られた2つの民族

 今度はアフリカに舞台を移しましょう。ユーゴスラビア紛争も複雑に絡み合った民族や宗教が悲劇を巻き起こしましたが、ルワンダ紛争は遥かに上を行く凄惨さでした。

 ルワンダは第一次世界大戦以降、ベルギーの植民地だったのですが、ヨーロッパ各国の植民地支配の常とう手段として、反乱を起こされないよう、2つの民族を対立させて、片方を優遇するというパターンでした。ルワンダの場合、少数派のツチを支配層として優遇し、多数派のフツを差別するという対立を煽ります。

 ところが1959年にルワンダ革命が起こり、翌年にツチの国王が国外へ追放。1961年に選挙が実施され、フツ解放運動党(パルメフツ)が過半数を獲得し、政権を樹立。そして1962年には国連信託統治理事会の強い要請により、ベルギーはルワンダの独立を承認しました。

 その後、ツチとフツの対立は続くものの、1973年にクーデターで政権を奪取したフツ出身のジュベナール・ハビャリマナ(1937〜94年)はツチとの融和政策を取ります。一方で、1987年にはウガンダに逃れたツチの難民を主体に結成されたルワンダ愛国戦線(RPF)が活動を開始し、1990年にルワンダ北部に侵攻したことで、内戦が始まります。

 それでも、タンザニアの仲介でルワンダ政府とルワンダ愛国戦線との間に和平協定がむすばれ、対立は終焉するかに見えたのですが・・・。

○ハビャリマナ大統領の謎の死

 1994年4月、国連平和維持軍をルワンダに駐留させるための和平協定をルワンダ愛国戦線とむすんだ直後、ハビャリマナ大統領と、ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領(1956〜94年/フツ出身)は、首都キガリ近郊で飛行機事故に遭って、ともに死亡します。
「これはツチの仕業だ!」
「違う、フツの過激派の仕業だ!」
 ・・・と、真相はいまだに謎ながら、2つの民族の対立は決定的なものとなりました。

 国連平和維持軍は民間人保護の権限を与えられていなかったことから、ギガリを放棄。この結果、民族間による虐殺が始まり、数か月後には50万人ものルワンダ人が死亡しました。この時、その多くは少数派のツチでした。

 これに黙っていないのがルワンダ愛国戦線で、7月にルワンダ全土の制圧に成功します。今度はツチによる報復が始まり、100万人とも200万人ともいわれるルワンダ人がザイール(現・コンゴ民主共和国)など周辺国に逃れ、巨大な難民キャンプが出現しました。当然、栄養状態や衛生状態が良いわけではなく、2万人もの犠牲者を出したといわれています。

 そしてルワンダでは、フツのパストゥール・ビジムングを大統領、ルワンダ愛国戦線のポール・カガメ(1957年〜 )を副大統領とし、ツチが主導しつつ、表面的には民族融和をアピールした新政権が樹立されました。一方で、この大量の難民の余波でザイールでは、ツチ系の勢力が武装蜂起し、それまで強大な権力を誇っていたモブツ政権が崩壊(第一次コンゴ戦争 1996〜97年)。さらに、民族問題や資源獲得を巡って、周辺8か国が介入した第二次コンゴ戦争(1998〜2003年)が発生しています。

○アフリカの奇跡



 さて、2000年にポール・カガメは大統領に就任し、20年以内に中所得国を目指す経済成長戦略「Vision2020」を掲げます。

 そして海外、特に中国などからの投資を積極的に受け入れ、2008年〜2017年の10年間のGDP成長率は約7.5%。周辺国から「アフリカの奇跡」と称される経済発展を実現しました。貧困、医療、教育の改善、特に女性の地位向上にも努めており、2019年4月19日付のクーリエ・ジャポンによると、女性議員の割合は64%だとか。上写真は首都ギガリの様子ですが、高層ビルも多数建ち並び、急速な経済発展がわかります。

 一方で2020年時点でもカガメは大統領職にとどまり続け、厳しい報道統制と野党への弾圧を行っているとの批判もあります。

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