第5回 大和政権の成立と発展

○朝鮮半島と大和政権

 さて、卑弥呼の時代から160年ほど中国や朝鮮の歴史書に登場しなくなった日本(倭)ですが、大和地方に誕生した政権が再び東アジア地域と関わるようになったことから、色々なところで倭に関する記述が見つかります。・・・と、その前に中国と朝鮮の情勢を解説しますと。

 三国志の時代を経て、中国を統一した晋ですが、早々に弱体化し、北は匈奴をはじめとする異民族によって征服され、政権は南へと移ります。この時代を南北朝時代と言い、北は匈奴の諸国家が次々と興亡し(いわゆる五胡十六国。5つの異民族による16の国)、南も漢民族政権が次々と交代するようになります。


 こんな情勢下ですから、4世紀になると、それまで中国の支配下にあった朝鮮半島で国家形成の動きが起こります。
 まず、現在の中国東北部で建国された高句麗(こうくり、コグリョ)。その起源は紀元前2世紀とする説もありますが、313年に中国の朝鮮半島出先機関である楽浪郡を攻め滅ぼし、朝鮮半島北部に勢力を拡大します。

 これに対し、南部では馬韓、弁韓、辰韓の3つの連合体が相争っていましたが、この中で辰韓地域から新羅(しらぎ、シルラ)が、馬韓地域から百済(くだら、ペクチェ)という統一国家が誕生します。

 一方で、伽耶(かや)と呼ばれるようになった弁韓地域は小国が分立する状態が続く一方で、日本と密接な関係を持っていました。それどころか、日本側の資料である「日本書紀」では任那(みまな)として登場し、日本府、つまり大和政権の朝鮮半島統治機関(もしくは出張所)を置いていたと書かれています。・・・が、果たして日本が朝鮮半島南部をある程度にせよ、実行支配していたのかどうかは疑問の声も非常に強いです(もちろん、特に韓国側から〜)。ちなみに、個人的には、逆に伽耶地域出身の王族が、大和朝廷の大王だったり・・・なんて推測もしています。

 さて、こうした朝鮮半島の微妙な均衡を撃ち破ったのが高句麗。
 4世紀末には、百済と新羅を服属させ、朝貢させていたのですが、大和政権の権益がある伽耶地域に対して手を伸ばそうとしてきます。大和政権は、朝鮮と密接な関係を保ち、そこから鉄を輸入することで他勢力に対して優位に立っていたので、伽耶地域を失うわけにはいきません。

 こうして大和政権の軍勢は海を渡り、391年に百済と新羅を破ります。
 さらに399年になると大和政権は百済と手を組むことにし、新羅を再び破るのですが、新羅は高句麗の広開土王(好太王)(374〜412年)に援軍を要請。翌年、騎馬隊の戦力に勝る高句麗軍は大和政権の軍勢を破りました。

 しかし、大和政権はすぐさま再攻撃に出ます。
 404年になると、なんと朝鮮半島北西部まで怒濤の攻撃を繰り出すのです。
 ・・・が、やはりこれも高句麗軍の猛烈な反撃に遭い、見事に大敗を喫し、これによってしばらく、大和政権は本格的な朝鮮半島への軍事介入を諦めました。

 以上の高句麗VS大和政権(倭)の交戦の記録は、当時、高句麗が都を置いていた丸都(がんと 現・中国吉林省集安市)にある好太王碑にシンプルながらも書かれています。これは、広開土王の一代記を記した碑文で、当時の日本と朝鮮の関係を記した、唯一と言ってもいい貴重な資料となっています。

 ちなみに、広開土王の正式な諡(おくりな)は国岡上開土境平安好太王といいます。
 そこから広開土王と略すか、好太王と略すか色々のようですね。

○渡来人と朝鮮文化の到来

 さて、高句麗の騎馬隊にて痛い敗北を喫した大和政権では騎馬隊による攻撃というものを考案せざるを得なくなったようで、古墳の中に馬具が埋葬されるようになっていきます(そのため、一時は騎馬民族が日本を征服したという説もあったぐらいです)。また、この朝鮮半島の混乱を避けるため、多くの人々が朝鮮半島から日本にやってくるようになります。

 こうした朝鮮半島などから日本にやってきた人々のことを渡来人と言って、朝鮮や中国の文化や技術、政治システムなどを伝えました。大和政権は彼らを韓鍛治部(からかぬちべ)、陶作部(すえつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、鞍作部(くらつくりべ)といった技術部門別に分けて、各地に居住させました。

 この中から土器部門では、弥生文化の名残であった土器である土師器(はじき)が、5世紀頃になると須恵器(すえき)に取って代わられるようになります。土師器は弥生土器に似ているものの、華麗な文様が影を薄めたのが特徴。須恵器は朝鮮半島の技術を取り入れ、1000度以上の高温で焼いた、青灰色の硬質の土器です。



土師器の例

須恵器の例
 また、漢字も使われるようになり、刀剣や鏡に掘られた文字は、この時代を知る貴重な手がかりとなっています。

○倭の五王

 こうして、朝鮮半島との交流が強まる中で、大和政権は半島南部での立場を優位にするために中国と結びつこうとします。そのため、晋の後を継いで中国の南部を支配していた宋という国に対し、讃(421年)・珍(438年)・済(443年)・興(462年)・武(477年)という5人の王が朝貢したことが、『宋書』倭国伝に書かれています。


 この5人の王がいったい何者なのか。
 宋書に出てくる1文字の名前は、大王の名前の総意を簡単に表したものだと考えられており、記紀(古事記・日本書紀)に比較してみると、まず讃は応神天皇、仁徳天皇、履中天皇のいずれかと考えられます。

 そして、珍は『宋書』倭国伝に「讃死して、弟珍立つ。」とあるので、讃の弟ということになります。そうすると、もし讃が履中天皇のことであれば、端歯別(みつはわけ)大王反正天皇となりますが、仁徳天皇だとする説もあります。珍は、宋の文帝から安東将軍・倭国王に任命されました。

 それから、こちらは異論が殆どなく、
 済=雄朝津間(おあさづま)大王允恭天皇
 興=穴穂(あなほの)大王安康天皇
 武=大泊瀬幼武(おおはつせのわかたける)大王雄略天皇
 とされています。このうち武については、「興死して、弟武立つ」と、『宋書』倭国伝に登場します。

 ちなみに、これは愛媛県民だと伝承として習った記憶があるのではないかと思いますが・・・。
 允恭天皇の第1子だった、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は同じ母から生まれた、妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と恋に落ちてしまうという、禁断の愛に足を踏み入れてしまいます。当時は、「同じ母から生まれた」兄妹(姉弟)間の近親相姦はタブー。この二人の愛は親父に知られるところになり、「この馬鹿たれがァ!」・・・と、なります。

 息子の方は、曲がりなりにも皇位継承者だったため罪には問われませんでしたが、娘さんの方は伊予(愛媛県)に流されました。しかし、軽皇子も皇位継承レースから大きく脱落し、允恭天皇が死去すると穴穂皇子に「皇位はオレのものだ!」と戦いを挑まれます。スキャンダルが仇となって人心が離れていた軽皇子は勝つことが出来ず、自害して果てました。こうして、穴穂大王=興が即位するのです。しかし彼もまた、即位3年で皇后の連れ子によって殺されてしまいました。

 次に即位した雄略天皇こと大泊瀬幼武大王もまた、兄二人と従兄弟の忍歯(おしはの)王を殺して大王の位についたとか。そして、長寿王率いる高句麗が475年、百済の都である漢山城(今のソウル)を陥落させていたことから、百済を救援する意味も込めて宋に使いを送り、簡単に言えば「我々は日本と朝鮮を何世代にも渡って征服してきました。それは、中国に貢ぎ物を送るためです。しかし、高句麗が邪魔をしてきます。助けをくださいませ」と願います。

 こういわれて宋は悪い気はしないでしょう。しかも、中国南部を支配する宋と、高句麗とは直接国境を接していません。そこで宋の順帝は武を、使持節都督倭・新羅・任那・加羅(伽耶)・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王という、何とも長ったらしい役職をもらいました。

 何が凄いのか解りづらいですが、「大将軍」という破格の栄誉をもらったわけです。ですが果たして、これがどの程度、効果があったのかどうかは、当時に行ってみないと解りません。ただ、これ以後しばらく、中国に使者を送らなくなったようで、そう考えると当面の高句麗からの危機が、回避できたのかも知れません。

○人々の暮らし

 ところで、この時代の人々はどんな場所に住んでいたのでしょう。その参考となる模型が、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館にて展示されていますので、ご紹介しましょう。



東国のムラ (黒井峰西組遺跡/群馬県渋川市 *旧・子持村)  6世紀の東国のムラの場合、写真のように竪穴住居と垣根に囲まれた平地住居、作業小屋、高床倉庫、家畜小屋を1つのグループとして、これが3〜4単位集まってできているのが基本形態。農耕には馬が欠かせませんでした。

東国の豪族館 (三ツ寺T遺跡/群馬県高崎市 *旧・群馬町)  この館の場合、1辺が約86mで、周囲に幅30mの濠がありました。この濠は土砂が流失しないように、石で覆っているのが特徴。また、館内部は儀式の場と首長らの生活の場で2分割されています。


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