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世界各地域史・日本史 第23回 鎌倉幕府の仕組みとは?
ご覧のとおり、源義経や梶原景時らが戦っている間に、頼朝は着実に自分の政権の組織固めと、鎌倉の整備を行っていたわけなのですが、それではどんな組織が出来上がったのでしょうか。今回は、鎌倉幕府の仕組みを中心に見ていきます。
これは、鎌倉幕府のボスである鎌倉殿(将軍)と、その家来となった御家人との間に土地を通じた、ギブアンドテイク・・・じゃない、御恩と奉公の関係を成立させることです。具体的には、 1.鎌倉殿から御家人へ(御恩) A.本領安堵(ほんりょうあんど)・・・先祖代々の所領を支配することを保障してあげる。 B.新恩給与(しんおんきゅうよ)・・・新たな所領を与えてあげる。地頭に任命してあげる。 C.朝廷の官職などに推挙してあげる。 2.御家人から鎌倉殿へ(奉公) A.軍役(ぐんやく)・・・合戦に参加し、鎌倉殿のために戦う。 B.番役(ばんやく)・・・京都大番役、鎌倉番役など、鎌倉幕府の重要機関で一定期間働く C.関東御公寺(かんとうみくじ)・・・朝廷の内裏や幕府の建物などの建築を担当したり、修理したりする。 といったことです。ちなみに、こうした土地を通じた主従制度のことを一般的に、封建制度(ほうけんせいど)といいます。
1.将軍(ショーグン!) 1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたことからスタート。鎌倉殿が就任します。 2.執権(しっけん)・・・1203年設置 1203年設置。将軍に続いて偉い人で、実質的に鎌倉幕府を取り仕切りました。北条時政が就任して以降、 北条氏が代々世襲していきます。 3.侍所(さむらいどころ)・・・1180年設置。 初代別当(長官)は和田義盛。のち、北条氏が世襲。 軍事、警察、御家人の統率を担当する部署。 4.公文所(くもんじょ)・・・1184年設置/1191年に政所(まんどころ)へ改称 初代別当は大江広元。のち、北条氏が世襲。一般政務、財務を担当する部署。 5.問注所(もんちゅうじょ)・・・1184年設置。 初代執事は三善康信。当初は裁判を担当していましたが、のちに訴状を受理する事務機関へと機能を縮小。 6.京都守護・・・1185年設置。 京都における鎌倉幕府の出先機関で、京都にいる御家人の統率、朝廷との交渉、幕府との連絡、 京都(洛中)における警察や、裁判など幅広く担当。 7.鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)・・・1185年設置。 九州(鎮西)の御家人を統率。 8.奥州総奉行・・・1189年設置。 東北の御家人を統率。 9.守護・・・1185年設置。初期のころは、惣追捕使(そうついぶし)、国地頭とも。 諸国に設置され、大犯三か条(京都大番役の催促、謀反人と殺害人の逮捕)、在庁官人の支配が任務。 有力な御家人が任命されます。 10.地頭・・・1185年設置。 荘園や公領(郡、郷など)に設置。土地の管理、年貢を徴収したり、警察権を行使する。 このほかにも色々ありますし、後に追加されたものもありますが、重要なものについてはまた紹介します。
彼は梶原景時を信任して政治を行うのですが、ところが景時は周りからの評判が悪かった。例えば源義経を追い詰めたのは、彼の報告というのも1つの原因でしたし、その他にもライバルを蹴落としていました。さらに1199(正治元)年、今度は結城朝光(ゆうきともみつ)という有力な御家人を、頼家に対して 「奴は謀反をする疑いがあります」 と密告。これが他の御家人の反感を決定的に買うことになり、和田義盛ら66人が「梶原景時を追放せよ!」と訴え、さすがの景時も鎌倉から追放されてしまいました。そして翌年、甲斐源氏の武田有義を将軍にしようとして挙兵を企みますが、幕府に殺されてしまいました。ちなみに、武田有義は行方不明になりましたが、武田信光が継ぎ、その子孫に有名な武田信玄が登場します。 ・・・おっと、なんか余談が長くなりました。 さて、こうしてお気に入りの御家人を失い、うるさいジジイどもの小言とバトルすることになった頼家。特に、実際の政治は祖父の北条時政ら13人の合議によって行われていました。しかも、1203(建仁3)年に頼家は重病になってしまいます。そこで、なんと北条時政は「これはチャンス!」と、頼家の権力や領地を、頼家の子である一幡(いちまん)と、頼家の弟の千幡(のち源実朝)に半分ずつにしようと企むんですね。 もちろん頼家は怒ります。病気が回復しますと、妻の父親で、北条氏と並ぶ有力な御家人であった比企能員(ひきよしかず)と共に北条時政を討伐しようと密かに企みます。ところが、時政はこの動きを察知。能員を自宅に誘い込んで騙まし討ちで殺害し、そのまま一幡と、比企一族を滅ぼしてしまいました(比企氏の乱)。 そして頼家は将軍職から解任され、伊豆の修善寺に幽閉。そして翌年、時政は頼家を暗殺しました。哀れ、頼家は僅か23歳でその生涯を、祖父の手によって終えることになったわけです。・・・こんな爺さん、自分の祖父だったら嫌だ・・・。
ところが、そんな文化人の孫ですら、邪魔だと考えた北条時政。 時政の後妻、牧の方との間に生まれた娘の婿である、平賀朝雅を将軍にしようと考えます。 そうすると、北条政子や北条義時など、時政の先妻の子としては危険な話です。 このままでは、幕府も北条家も、牧の方の一族の思うがまま。ええぃ、親父どもは引退しろ! ・・・というわけで、北条時政は政子と義時に捕まり、「鎌倉から出てけ!」と、とうとう伊豆に引退させられました。 さて、話を実朝に戻します。 朝廷が大好きな幕府の三代将軍、ということで院政を行っていた後鳥羽上皇は大歓迎でした。もちろん実朝を使えば鎌倉幕府に影響を与えられる・・・という思惑もあって、非常に実朝を可愛がります。実朝はどんどん出世していき、異例のスピードで正二位右大臣に上り詰めるのですが、なんと28歳のとき、鶴岡八幡宮で頼家の息子、公暁(くぎょう/1200〜19年)に殺害されてしまいました。どうやら、有力な御家人である三浦義村に「あれが父親の仇だ」とけしかけられたようなのですが、実朝殺害後、公暁も三浦義村に殺され、こうして源頼朝の子孫は絶えてしまいました。 ・・・ちなみに、実朝が殺害される少し前まで、北条義時は実朝の近くにいたのですが、「気分が悪くなった」と途中で消えます。そして実朝が・・・という、なんとも怪しい場面。さて、実朝暗殺は三浦氏によるものなのか、それとも北条氏が関与したのか、ただ利用したのか。もしくは、公暁を擁する三浦VS実朝を擁する北条だったのか・・・。いずれにせよ、なんとも不気味な話です。ていうか、母親の北条政子も加担して、子供と孫を、ことごとく殺したり、見殺しにしたわけで・・・ああ、恐ろしい。
ということで、北条時政や、2代執権となった北条義時は、権力基盤を強化するため、数々の御家人を排除しました。比企能員を謀殺したほか、1205年には畠山重忠を殺害、さらに1213年、侍所の別当の座を得るべく、和田義盛を合戦で戦死させています(和田合戦)。そして、その後も有力御家人の排斥は鎌倉時代後期まで続きます。 次のページ(第24回 承久の乱と権力基盤を固める北条氏)へ 前のページ(第22回 鎌倉幕府の成立)へ |