第25回 蒙古襲来
モンゴル帝国(元)による日本侵攻、通称「蒙古襲来」を今回は取り上げますが、ちょっと中国、朝鮮やモンゴルの動きを紹介。平清盛が日宋貿易で富をあげたことは紹介しましたが、この頃中国全土を支配していた宋は、中国東北部で勢力を拡大した女真族による金という国家によって中国南部に追いやられてしまいます。 もっとも、金も中国全土を支配するには至らず、中国は華北を金、華南を宋が支配するという構造になります。ちなみに、南に追いやられた宋のことを、歴史学では「南宋」として便宜上区別しています。逆にそれまでの宋のことを、北宋と言うこともあります。 一方、朝鮮半島は既に紹介した高麗(こうらい/918〜1392年)が引き続き治めています。ところが、高麗では官僚になるための試験制度はあったものの、実際には特権階級が自分たちの息子たちを別枠で採用していたため、次第に支配階級が固定化。おまけに、彼らは息子、娘達を互いに結婚させて親戚同士になってしまうんですね。 ところが、この官僚たちには2つの派閥があった。すなわち、文班(文官)武班(武官)の2つで、国王が南に向かって座って行われる会議の場において、文官は東、武官は西側に座席が設置されたことから、総称してヤンバン(両班)といいます。それぞれの名前の由来は、その期限が文人系の官僚、軍人系の官僚を起源とするからですね。 最初、この2つのグループは文班の下に武班が置かれていたのですが、次第に武班は不満を持ってきました。そして、1170年に武班がクーデターを起こして政権を獲得し、新たな王を擁立し、文班を大量に殺害。これを庚寅の乱といい、特に1194年には武班の崔忠献が政権を掌握。彼は手下の軍団である三別抄(さんべつしょう)による軍事力を背景に、国王さえしのぐ権力を握りました。 ところが、住民に重税をかけていたので、反乱がしばしば発生。そのため、国力は疲弊・・・というのが、今回お話しするモンゴル(元)による朝鮮攻略前までの状況。う〜ん、朝鮮史も詳しくなるぞ、歴史研究所の日本史!!
アレクサンドロス大王による中東征服にも増してスケールが大きいチンギス=ハン(1167頃〜1227年)の世界征服について紹介しましょう。詳しくは中国史のコーナーを参照していただきたいのですが、元々はモンゴル高原の一部族を率いていたテムジンという若者。幼い頃、一部族の長だった父親イェスゲイが、敵対するタタールという部族によって暗殺(毒殺)されてしまい、父親の部下たちから見放されてしまいます。厳しい草原の世界では、強い指導者のいない部族は解体する運命にあったのです。 ところが、このテムジンの凄いところは、貧苦の生活を送りながらも、次第に仲間を作り、また父親の盟友だった人物などの助けも借りながら、類まれなる軍事的才能で次々とモンゴル高原の各部族を従え、統合。とうとう1206年に指導者として推戴され、ここに世界帝国となる、モンゴル帝国が誕生したのです。ちなみにチンギス=ハンのハンとは、トルコ語で王といった感じの意味です。 モンゴル帝国は強力な騎馬軍団ですばやく怒涛のように攻撃。そして、自分に従う都市は保護し、従わない都市の住民は虐殺するという、ハッキリとした行動をとり、殺されるのは嫌だから先に降伏しよう」という雰囲気を作り、次々と周辺に領土を拡大。また、商人たちが安全に通行できるように配慮したことから、商業の振興にもつながり、モンゴルの富となります。 チンギス=ハンの死後、その子孫たちも、それぞれが独自の勢力を持ち、東は中国、西はイラクやポーランドの近くまで占領し、ユーラシア大陸のほとんどの国に影響を与えました。それは中国、朝鮮でも例外では無く、1234年に中国の華北地域を支配していた金(きん)という国家が、モンゴル軍によって滅亡させられます。 さらに1232年〜1258年にかけて、なんと6度にわたって高麗を攻撃。多くの人々が殺され、高麗は都を江華島に移して抵抗をします。しかし1258年、こんな時になってクーデターが発生し、崔氏の武班政権が内部で打倒されます。こうして高麗の皇帝は元に降伏し、属国として服属。モンゴルの5代目のハンであるフビライ=ハン(1215〜94年)は次に日本を狙います。 ところが、三別抄は徹底抗戦を決定!! 江華島、次いで済州島で激しい抵抗を続け、フビライ=ハンは鎮圧に1273年までかかることになり、日本攻略どころではありませんでした。これを三別抄の乱といい、たまに試験にも出るので覚えておきましょう。ちなみに三別抄は、京都の朝廷にも救援を要請していますが、貴族の皆さんは何のことかよく解らなかったらしく、返答しませんでした。
さて、1260年にモンゴル帝国の5代目のハンとして即位したフビライ=ハンでしたが、彼の即位には反対する一族も多く、この頃から実質的にモンゴル帝国はチャガタイ=ハン国、キプチャク=ハン国、イル=ハン国、オゴタイ=ハン国などに分裂していきます。このため実質的に、フビライ自身はモンゴルから中国を支配する君主となり、1271年からは国号を「元 (大元)」としました。そして、モンゴル人の特権を守りつつ、官僚制度も充実させることで組織を中国的に変えていきます。さらに、都もモンゴルのカラコルムから、現在の北京である大都に移します。 さて、中国華南地域の南宋という国家を侵略中だったフビライ=ハンは日本にも目をつけます。日本と南宋が手を組んだら厄介なので、これを分断しようという思惑があったようです。さらに、のちに高麗王として即位する忠烈王は、うかうかしていると、(どうやら独自政権を作ろうとしていた)三別抄によって、自らの王権が打倒されてしまうため、元の軍隊を高麗の中にとどめておくためにも、「日本も高麗と同じように元に従うべきです。逆らうようなら攻略されてはいかが?」とフビライに進言したとか。 さて、まずは外交交渉です。 フビライは高麗を通じて、1268年に「わが国と仲良く”させて”あげよう。そうすれば、日本はもっと幸せになるぞ。」という、高圧的な国書を鎌倉幕府に届けます。当時の幕府は、ちょうど北条時宗(1251〜84年 北条時頼の子)が第8代執権に就任したところですが、この国書を朝廷に転送します。実権がなくなったとは言え、対外交渉の窓口は朝廷だったわけですな。 そこで、後嵯峨上皇、亀山天皇、関白の近衛基平らは、 「返答の必要なし」 と、これを黙殺することにしました。 ちなみに、前述のように三別抄からは救援要請が来ますが、これも無視したわけでして。 その後も、何度かフビライから「仲良くしようといっているんだよ!無視するんじゃねーぞ(怒)」と国書が届きますが、幕府も朝廷も無視をするばかり。朝廷に至っては「異敵退散!」と、神頼みまで始めます。 「おのれ、日本は私をなめているのか!」と激怒したフビライ=ハン。 朝鮮半島も片付いたことから、1274(文永11)年、とうとう日本に軍勢を差し向けます。その数、2万5000人。高麗の合浦(現在の馬山)から船を出すことにし、都元帥(総司令官)にモンゴル人のキント(忻都)を、彼を支える右副元帥に洪茶丘(ホン・タグ 高麗人)、左副元帥に劉復亭(漢人)を任命します。手始めに、対馬や壱岐を攻撃し、多くの住民が殺されました。 日本側は少弍景資(しょうにかげすけ)を中心に、大宰府(現、福岡県太宰府市)に御家人達が集結し戦いに備えます。 そしてついに元軍が、筑前国の博多、箱崎(現、福岡県福岡市)などへ上陸し、戦いがスタート!!「我こそは長門の国の住人、裏辺次郎金好〜!」 と、名乗りを上げる、儀式的要素の強い戦い方をする日本に対し、元の軍勢はさっさと集団で攻撃にかかります。 さらに、射程距離の長い弓で毒矢を射たり、長槍で攻撃し、「鉄砲(てつはう)」という大砲を発射。おまけに、太鼓の音などの轟音で馬をパニックにさせてしまうなど、とにかく強い。それでも、なんとか御家人達は、博多で元軍を食い止めることには成功したのです。 おそらく、戦いの儀式はさっさとやめて、直ぐに本格的な戦闘モードに切り替えたのでしょう。さあ、明日の戦いに備えましょうぞ、諸君! ・・・ところが、その夜、元軍が船に戻っていたところ暴風雨が襲い、大急ぎで造った船が次々と沈んでしまったのです。高麗の歴史書である「高麗史」によると1万3000人が溺死したとか。生き残ったものも、1ヶ月もかかって合浦に帰還しました。こうして博多での戦いは、思わぬ形で1日で決着がつきました。これを、文永の役といいます。 もっとも、この「高麗史」によると、というのがミソ。 のちに日本で「神風(カミカゼ)」と騒がれるこの暴風雨(台風?)ですが、日本側の記録にはこれといったものが無い。もしかすると、負けて帰ってきた言い訳を高麗がするために作った創作話とか、そもそも文永の役はただの「おどし」で、本気で元は戦争をするつもりは無く、(予想外に抵抗を受けたこともあり)さっさと引き上げた、とも考えられています。
「もう一度脅せば、もしかすると闘わずに日本は降伏するかも?」 と考えて、再び日本に杜世忠(とせいちゅう)らを使者をとして送り、「降伏しろ」と要求します。しかし、北条時宗は杜世忠を龍の口(現、神奈川県藤沢市片瀬)で斬首するという強烈なメッセージを送り付けました。 そして北条時宗は 「元は再び博多周辺にやってくる」 と考え、西国の御家人たちに石造りの防御壁(元寇防塁)を長距離に渡って作らせ、さらに動員可能な兵数や武器の数なども西国の御家人たちから調査し、情報収集。来るべき戦いに備え、準備万端です。 一方、フビライ=ハンは1276年に南宋の都である臨安を陥落させ、とうとう南宋を滅ぼします。そして実際にはここから、フビライ=ハンによる日本と、さらに東南アジアの攻略作戦が始まるのです。早速、ミャンマーのパガン朝を攻略開始します(1287年にはこれを滅亡)。 そして1281(弘安4)年、アラカンを総大将とする軍勢が日本へ。軍は2つに分かれて出発し、1つが合浦から4万、もう1つが中国の寧波(にんぽう)から10万の兵士で構成(江南軍)。壱岐で合流することになっていました。ところが、アラカンが病気になってしまい総大将が交代するなど江南軍が混乱。そのため、合浦からの軍勢の方が早く九州北部に到着し、さっさと攻撃を仕掛けます。 元軍は、防塁の無い志賀島(現、福岡県福岡市東区)に上陸しますが、御家人達は急襲をかけて防衛に成功します。 そしてようやく2つの軍勢が合流した元は、攻撃を仕掛ける・・・はずが、一向に攻撃をしてこない。このとき、旧暦の6月。そして約1ヵ月後、またまた暴風雨の脅威に遭い、14万人もいた軍勢も3万人程度しか生き残ることが出来ず、再びフビライの野望は潰えました。いったい、どうして早く総攻撃をかけてこなかったのか。大軍で脅せば日本が降伏すると思ったのか、作戦について司令部が対立したのか・・・諸説ありますが、謎に包まれています。 また、この頃からフビライ=ハンはヴェトナム南部のチャンパーに攻撃を仕掛けますが、こちらもやはり船団が台風で壊滅するなどの被害を受け思うように攻略は進まず、さらにヴェトナム北部の大越国も、元への協力から方針を転換。激しい戦いを繰り広げ、元は大敗北を喫し、ここでもフビライの野望は潰えたのです。3回目の日本侵略も考えたそうなんですけどね。さすがに無理だったようです。ちなみに、北条時宗も「今度は我々が高麗攻略だ!」なんて発表したはいいが、実行できなかったりしていますけど。 さて、モンゴル軍の強さは訓練された騎馬軍団にありましたが、フビライの軍勢は南宋や高麗など、フビライに敗北して「渋々」したがっている兵士が大半で、戦意もあまりありません。おまけに、船を使った戦いは未経験であり、しかも大急ぎで作らせた船で、激しい風雨に非常に弱い。このあたりが、元の敗北要因のようです。 さて、こうしてフビライによる日本攻略を防ぐべく仕事をしまくった北条時宗でしたが、やはり過労でしょうね。 弘安の役から3年後に、若くして病死し、執権職は息子の北条貞時が、14歳の若さで継承します。
1つは三浦氏滅亡後、北条氏に次いで勢力を持っていた御家人、安達泰盛(あだちやすもり 1231〜85年)。妹が北条時宗に嫁いでおり、北条貞時の祖父という大きな力があります。また、北条氏以外の一般御家人の代表的存在でした。 一方、その北条得宗家の家臣団である御内人(みうちびと)は、この安達泰盛と対立。そのリーダーが内管領の平頼綱(たいらのよりつな)でした。両者の対立は非常に激しいもの。北条時宗が亡くなると、平頼綱は北条貞時に対し「泰盛が謀反を企てていますぞ」と、貞時に密告。「そうか・・・なら殺せ」となったのでしょう。平頼綱は一気に、安達一族と味方する御家人たちを殺し、鎌倉幕府最大の実力者として権力を握りました。これを、霜月騒動といいます。 ですが、彼も終わりはよくしていない。かなり仕事には厳しい人物だったようで、周りから恐れられていました。 そして成長した北条貞時は、自分を差し置いて幕府の実権を握る平頼綱を嫌い、1293(永仁元)年4月22日の早朝に彼の屋敷を急襲し、自害させました。これを、平禅門の乱といいます。
しかし一般の御家人や武士たちは、借上(かりあげ)と呼ばれる高利貸し業者から借金をするなどして、蒙古襲来で自腹を切って参戦したにもかかわらず、新たな領土を獲得したわけではないので恩賞が少なく、生活が困窮していき、次第に不満が高まっていきました。中には、あとで恩賞がもらえるから・・・と、先に借金までして参加した者も多く、恩賞の少なさに、借金が返せなくなってしまった。 しかもそれまで、大きな戦いもなく、新たな恩賞もないまま、御家人達は子供たちに土地を分割相続させていたんですね。これを惣領制といって、家を継ぐ惣領(そうりょう)に本拠地を中心とした土地を残し(惣領分)、その他の土地を、惣領以外の子供である庶子(しょし)に分け与えることによって(庶子分)、一族連合を組みます。しかし、新たな土地が手に入らなければ、土地は時代が経てば経つほど、細分化される一方(ちなみに、大抵は一代限りですが、女性にも相続権があったんです)。生活は苦しくなります。そんな中、バカでかい戦争をさせられた挙句に、恩賞殆ど無しですよ。どうしてくれるのさ! ![]() 「お任せください。それでは、皆さんの借金をチャラにしましょう。」 「え、そんな素晴らしいことができるの?」 「徳政令カード!」 「桃鉄か!」 ・・・というわけで、 @売却、質入をした所領(土地)を、無償で取り戻してOK! *ただし、20年以上前に、御家人に売った土地は取り戻せない。 A御家人は土地を売ったり、買ったり、質に入れてはいけない。 B御家人の金銭に関する訴訟は受け付けない。 などを柱とした徳政令(とくせいれい)が出されました。1297(永仁5)年に出されたので、元号を取って、今回の徳政令を永仁の徳政令といいます。 素晴らしくないですか、この発想。 ・・・そんなわけはないですね。たしかに、皆さんは現在持っている借金は帳消しになり、泣く泣く手放した土地は帰ってきました。でも、貧乏状態には変わりが無く、「仕方が無い、もう一度借金しよう・・・」と商人に頼んでも、「この前の借金、踏み倒した人間に、また貸せるか!」と、借金がすご〜く難しい。かえって御家人の生活は大混乱・・・。 結局、翌年にAとBについては廃止になりました。 ちなみに1293(永仁元)年、幕府は九州に鎮西探題(ちんぜいたんだい)を設置し、六波羅探題の管轄から九州をはずします。地方分権、ということで、これによって九州の御家人たちが、何か問題あると、必ず京都や鎌倉まで出向かなくてはならない・・・という負担を多少軽減されたことになります。 しかしこの頃、全国の守護の50%が北条一門で占められるなど、まるでかつての平氏のよう。 さあ、どうなる北条氏と鎌倉幕府? 次のページ(第26回 鎌倉時代の文化へ) 前のページ(第24回 承久の乱と権力基盤を固める北条氏 )へ |