第28回 不満だらけの建武の新政と足利尊氏の挙兵

○今回の年表

1333年 鎌倉幕府滅亡。後醍醐天皇の建武の新政スタート。記録所復活、武者所、雑訴決断所設置。
1335年 中先代の乱が起こり、北条時行らが挙兵。足利尊氏がこれを鎮圧する。
  後醍醐天皇、足利尊氏を討伐することを決定。尊氏は北畠顕家に破れ、九州へ敗走。
1336年 足利尊氏、多々良浜の戦いで菊池武敏を破り、京都へ進軍。湊川の戦で楠木正成が戦死。
  足利尊氏、持明院統から光明天皇を擁立。建武式目を制定する。
  後醍醐天皇が吉野に脱出し、朝廷は南北朝に分裂。

○建武の新政・・・。

 念願の鎌倉幕府滅亡を果たし、150年ぶりに政権を取り戻した貴族。
 後醍醐天皇は京都に戻り、それまでの慣習とは異なり、関白や摂政、院政も排除し、天皇自らが政治を行います。

 まず幕府滅亡の翌年、元号を「建武」(けんむ)と改めます。これは、古代中国、後漢の劉秀(光武帝)が、王莽(おうもう)によって乗っ取られて滅亡した漢王朝を復興させたときに使われた年号。後醍醐天皇の思いが推し量れますね。というわけで、ここから建武の新政とよばれる、後醍醐天皇の政治を見ていきます。

 まず、政権中枢の建物が貧相では仕方が無いので、その権威を示す大内裏(皇居)の造営を開始。さらに、これはなかなか面白いと思うのですが、貨幣の鋳造はもちろん、大内裏を造営するために紙幣の発行を行います。残念ながら、一般に浸透する前に終わってしまいましたが、紙幣に目をつけたのは、意外に後醍醐天皇は経済政策に目を向けていた証拠ではないでしょうか。

 組織面では、次のとおり整備を行います。
1.中央組織
 ・記録所・・・重要政務を行う最高決定機関。
 ・恩賞方・・・恩賞(要するに褒美ね)を担当。
 ・雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)・・・所領をめぐる事務や裁判を担当。
 ・武者所・・・京都の警備

2.地方組織
 ・鎌倉将軍府・・・成良親王(なりよししんのう 後醍醐天皇の子)足利直義(あしかがただよし 足利尊氏の弟)のコンビで関東の政務を担当。
 ・陸奥将軍府・・・義良親王(のりよししんのう 後醍醐天皇の子)北畠顕家(きたばたけあきいえ 北畠親房の子)のコンビで、東北の政務を担当。古来以来の東北の拠点である、多賀城に設置した。
 ・国司と守護・・・全国に両方設置。ただし、権限は国司のほうが上。

 問題は、後醍醐天皇は「所領が誰のものかというのは、私が決めること」と、土地所有権の再確認を発表したこと。
 武士たちは、御成敗式目の第8条で「現在の持ち主が、20年間、その土地を事実上支配していたら、その土地の所有権は変更できない」という、まさに現在の民法にある時効取得と同様の考えで、安心して土地を所有していたのですが、これにはビックリ。しかも再確認の結果、「あんたのものじゃないよ」なんてされることもあり、大変なことに。ていうか、そもそも確認作業だけで膨大な事務量に。

 さらに、後醍醐天皇に親しい人々がどんどん出世し、政権内部で対立が起こるなど、とにかく政治が思うように進まず、人々の恨みは募るばかり。当然、こんな有様では現実に遭うはずも無く、後醍醐天皇はそのたびに政策変更を迫られ、まさに朝令暮改。朝決まったことが、夕方には変わっている・・・みたいな状況で、「いったいあんたの命令は何が正しいんだ」と大混乱状態です。

 もちろん、武士たちの多くは後醍醐天皇に失望し、新たなるリーダーを求めました。その中で浮上したのが、足利尊氏です。

○後醍醐天皇と足利尊氏、序盤戦

 この足利家というのは源氏であり、その系図は次のとおりです。


 
 ご覧のように、鎌倉幕府を倒した新田義貞とはライバル的な家柄。源頼朝の子孫が絶えたあとは、お互いに「我こそは源氏の主流である」と考えていたことでしょう。もっとも、鎌倉時代は足利家の方が家柄は上と認識されていたようです。ちなみに、鎌倉時代の足利氏ですが、北条家には逆らわない方針を取り、足利義兼が北条政子の妹を妻とするなど、歴代当主は北条氏から妻を迎えているほど。尊氏自身、妻は北条一門の赤橋登子でした。

 さて足利尊氏は、鎌倉幕府滅亡後に参議、武蔵守と重用され、後醍醐天皇の名前(尊治親王)から「」の字をもらい、高氏から尊氏に改名することになるなど、かなり優遇されていましたが、尊氏は「次は私が武家の棟梁として、幕府を開くぞ」と意気込んでいました。

 一方、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりよし)も、
「ここで足利尊氏を中心に幕府を開かせてしまっては、なんのために我々の手に政権を取り戻したのか解らないではないか。むしろ、私を中心に武士を集めたい」
 と考えます。彼は、なかなか武骨な人物で、前回少し紹介したとおり、鎌倉幕府を倒すときにも、楠木正成と共に赤坂城で戦ったり、近畿の武士たちを統合したり、全国へ密使を派遣して鎌倉幕府討伐を呼びかけるなど、実は幕府滅亡を成功させた、縁の下の力持ち。幕府滅亡後は、征夷大将軍に任命されていました。

 彼は、少しずつ足利尊氏が全国の武士たちから支持されていくのを見て
「親父のためにも、今のうちに足利尊氏は排除しなければならない」
 と準備を始めます。
 ところが、それに気がついた足利尊氏。後醍醐天皇に対し
「まさかと思うけど、こんなに頑張っている私を、陛下は排除するおつもりですか?」
「いや、私は知らないよん」
 とシラを切る。後醍醐天皇としては、ここで尊氏に反乱をされたら困ると考えたのでしょう。

 そこで足利尊氏は、当時、後醍醐天皇が熱心に愛していて、彼女の言うことなら何でも訊くとさえ言われた阿野廉子(あのれんし)という女性を通じて
「実は、密かに護良親王は帝位を狙っていますよ〜」とささやかせます。

 当然、「あの馬鹿息子!」と激怒した後醍醐天皇は、護良親王を逮捕し、なんと尊氏の弟である足利直義に預けて、鎌倉で幽閉させてしまいます。果たして親子喧嘩なのか、それとも、実はトカゲの尻尾切りなのか・・・。これまで、危なくなると誰かに罪をなすり付けてきた後醍醐天皇的には、さてさて今回は?

○中先代の乱

 そこに発生したのが、中先代の乱(なかせんだいのらん)でした。
 まず、権大納言の西園寺公宗(きんむね)による後醍醐天皇暗殺計画が発覚! 西園寺家は代々、鎌倉幕府と朝廷を結ぶ関東申次(もうしつぎ)という役職に在職し、もちろん北条家の勢いが盛んなころには、西園寺家も北条家の力を背景に、朝廷の中で大きな力がありました。ところが鎌倉幕府が滅亡すると、西園寺家も力を失っていきます。

 26歳の西園寺公宗としては「あのころの栄光を再び!」と考える。そこに来たのが、最後の執権の北条高時の弟、北条泰家(ほうじょうやすいえ)。彼は、前ページで分倍河原で新田義貞と戦って負けていますが、覚えていらっしゃるでしょうか?その後、彼は兄とは運命を共にせず、北条家残党のまとめ役の1人として、暗躍していたのです。

 「あの天皇を殺せば、きっと我々の天下が戻ってきますよ」
 「ホホホ、良し解った。まろに任せるでおじゃる」
 というわけで、西園寺公宗は、後醍醐天皇を京都の北山へ紅葉見物に誘い、風呂に入ったときを見計らって殺害しようとしたのです。しかし、なんと弟の西園寺公重によって計画はバレバレ。後醍醐天皇は難を逃れ、西園寺公宗は逮捕!さらに、公卿としては平治の乱以来初めて、処刑されました。

 そこで「計画失敗!今すぐ挙兵せよ!」
 と信濃国(現在の長野県)の諏訪地方で挙兵したのが、北条時行(ときつら)。北条高時の次男で、諏訪頼重ら北条氏の旧御内人とともに鎌倉を奪還すべく、侵攻してきました。当時、鎌倉を守っていたのは足利直義でしたが、「これでは負ける」と考え、さらに「生かしておいては危険」と、幽閉していた護良親王を殺害。そして、鎌倉から一時退却します。

 「・・・というわけで、北条時行討伐に出陣します。また、征夷大将軍に任命して☆」
 と、尊氏は後醍醐天皇に頼み込むのですが、
 「鎌倉行きも将軍就任もダメ!代わりの者に行かせる」
 と、拒否されてしまう。そこで尊氏は、勝手に征東将軍を名乗り、鎌倉へ出発。北条時行らを追い出し、鎌倉に居座るようになりました。そして、功績のあったものに対して、自分で恩賞を与え始めます。

※ちなみに、北条時行の政権は、鎌倉時代の北条氏(つまり先代)と、尊氏の政権の間に存在したということで「中先代(なかせんだい)」。ですから、この動乱を中先代の乱といいます。たった20日ぐらいの栄光だったようです。

※さらにおまけ。西園寺家は西園寺公宗の息子、西園寺実俊が室町幕府の武家執奏に任じられ、再び勢力を盛り返します。そして子孫に、戦前の元老として大きな力を持った西園寺公望(さいおんじきんもち 1849〜1940年)がいます。
 

○いよいよガチンコバトルスタート!

 こうなると、さすがに後醍醐天皇も放置できません。ついに足利尊氏討伐を決意します。


 まずは新田義貞を鎌倉に向けて出陣させて、足利尊氏と戦わせますが、箱根竹ノ下の戦いで尊氏が勝利します。勢いに乗った尊氏と直義の兄弟は京都に攻め込み、これを占領。しかし、陸奥将軍府から北畠顕家(きたばたけあきいえ)が後醍醐天皇の要請に応じて出陣。足利軍を破り、鎌倉を占領し、さらに京都も攻略。尊氏らは敗北して九州まで逃れました。

 しかし尊氏人気は衰えることなく、2ヶ月もするとあっという間にまた勢力復活。
 政治面で重要なのは、鎌倉幕府滅亡によって、後醍醐天皇によって「お前は天皇ではない」とされてしまった、持明院統の光厳上皇から「新田義貞を討伐せよ」という院宣(いんぜん)を貰ったこと。これによって、足利尊氏は朝廷に刃向かう朝敵に指定されることを回避する大義名分が立ちました。

 はて、なんのことでしょうか。
 前に見たとおり、鎌倉幕府の調停によって、本来は持明院統と大覚寺統から順番に天皇が即位することになっていましたね。それで、1331年に後醍醐天皇が鎌倉幕府転覆クーデターを起こしたため、鎌倉幕府は持明院統光厳天皇を即位させたんです。ところが、もちろん後醍醐天皇は「私は絶対に認めない。天皇私ただ一人だ!」と主張。天皇が2人いる状況になりました。ここから南北朝時代の始まりとする分類も可能です。

 ところが、鎌倉幕府が滅亡すると光厳天皇は捕まってしまい
 「お前は天皇ではない」
 と、後醍醐天皇に処遇されてしまったわけです。しかし、光厳天皇改め、光厳上皇も
 「そんなこと認めるか〜!」
 と御不満。そこに、足利尊氏が反乱を起こしたのだというのですから、これはもう協力するしかないでしょう。
 「皆さん、後醍醐天皇ではなく、私こそが正統な天皇で、その支援者である足利尊氏に協力しなさい」
 というわけでございます。

 そんなわけで勢いを得た足利軍は1336(建武3)年、多々良浜の戦い(福岡県福岡市東区)で、南朝方の武将である菊池武敏(きくちたけとし ?〜1341年?)の軍勢を破ると、一気に中国地方を東へ、畿内(関西)へ入り湊川の戦い(兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で楠木正成を戦死させ、新田義貞も撃破。




 そして京都を占領し、後醍醐天皇から、天皇の証である三種の神器を取り上げ、光厳上皇の弟を天皇として即位させます(光明天皇)。これが、いわゆる北朝の成立です。
 ※ちなみに光厳上皇は、院政を行うことにし、再び天皇にはなりませんでした。

 ところが、実は三種の神器はニセモノ。本物を誰が譲るものか!
 というわけで後醍醐天皇は、現在の奈良県の吉野に逃れ、
 「我はここにあり!諸君、逆賊を討伐せよ!」
 と、引き続き足利尊氏との戦いを続けます。




 この後醍醐天皇の政権を南朝といい、ここに約半世紀にわたる南北朝の争いが始まります。ちなみに、北条時行は南朝に降伏し、足利尊氏と戦う道を選択します。単語としては先ほど既に登場しましたが、これがいわゆる南北朝時代の始まりです。

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