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第29回 尊氏政権の成立と観応の擾乱

○今回の年表

1336年 足利尊氏が光明天皇を即位させる。
  足利尊氏が建武式目を定める。
  後醍醐天皇、吉野へ脱出する。
1338年 石津の戦い。北畠顕家(南朝)が高師直(北朝)と戦い、戦死する。
  藤島の戦い。新田義貞(南朝)が斯波高経(北朝)らと戦い、戦死する。
  足利尊氏、征夷大将軍に任命される。
1339年 後醍醐天皇が死去する。
1345年 幕府が全国に建立中の寺と塔を、安国寺、利生塔と名づける。
1347年 ヨーロッパでペスト(黒死病)が大流行して、人口が激減する(〜51年)
1348年 四条畷の戦い。楠木正行(楠木正成の子)が、高師直(北朝)と戦い、戦死する。
1350年 足利直義が、兄の足利尊氏に対して挙兵。
1351年 高師直らが足利直義方の上杉能憲に殺される。
1351年 尊氏、直義が講和するが、間もなく再び仲たがい。
1352年 足利直義が死去。尊氏に毒殺とも。
1358年 足利尊氏が死去する。
1359年 筑後川の戦い。懐良親王と菊池武光の軍勢が、少弐頼尚の軍勢を撃破。

○室町幕府というのにはまだ早い?

 尊氏は1336(延元元・建武3)年、建武式目(けんむしきもく)を定め、実質的に幕府を開きます。この建武式目は足利尊氏の諮問(しもん)に対し、二階堂是円(にかいどうぜえん)、玄恵(げんえ/天台宗の偉いお坊さん)らの、著名な法律家たちが答申(とうしん)する、といった形式で出されたので、その内容ですが・・・
 1.幕府の場所は京都にする 
 (本来は鎌倉にすべきだが、北条氏が滅びた不吉な場所であるので、反対意見が多いなら京都でもいい。)
 2.倹約に務め、遊興を抑制する。
 3.人々の家を勝手に没収しない。
 4.公家・女性・僧侶などの政治への介入禁止
 5.賄賂は禁止、守護にはきちんとした人物を任命する。
 などといったもの。

 京都に開かれた足利氏による幕府は、のちに京都内の所在地名から室町幕府(むろまちばくふ)と呼ばれるようになりますが、尊氏の時代は別の場所にありましたので要注意。また、新たな幕府の組織は鎌倉幕府の仕組みを基本的に受け継ぎますが、執権の代わりに管領(かんれい/ただし、この頃は執事と呼ばれます)を置いたこと、さらに守護の力が非常に強力になり、自らの領地にどっしりと根を下ろしていきます。

 また、初期の幕府は統治系統がちと不思議。
 既に幕府成立前からその傾向がありましたが、
 1.足利尊氏・・・主に軍事や人事を担当
 2.足利直義・・・主に政治や裁判を担当
 という、要は兄貴は全国的な、弟は地域的な問題を担当。二人が仲がよかったころは、二馬力でガンガン問題を解決できるのでよかったのですが、幕府を開いたころから、尊氏はだんだん政治に口を出さなくなってくるんですね。どうも、後醍醐天皇を追い出したことに「申し訳ない」と思っていて、憂鬱だったようです。その証拠に、後醍醐天皇を隠岐に流すなど、強力な措置をとることも無く、吉野にいることを許していました。

 そのうちに、次第に尊氏が持っていた権限は、執事高師直(こうのもろなお)らが担当するようになり、次第に足利直義陣営と対立していきます。特に、鎌倉時代と違って一族が結束しなくなってきた。それぞれが自分の領地を拡大したいと考えるようになりますから、こういう対立が起こると利用しようとします。ですから、なかなか収束しなくなるんですよね・・・。

○しぶとい南朝、まだまだ頑張るぜい

 さて、1338年に石津の戦いで南朝の若きホープ、北畠顕家が高師直の軍勢に敗北して戦死(なんと、わずか21歳でした)。さらに、越前(現在の福井県)の藤島の戦いで新田義貞が斯波高経(しばたかつね)細川孝基(ほそかわたかもと)の軍勢に敗北して戦死し、南朝の中核となっていた武将が全滅状態。1339年、失意のうちに後醍醐天皇は亡くなりました。

 そこで足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うため、京都に壮大な天龍寺を造営させます。
 これは、後醍醐天皇と仲がよかった禅宗のお坊さんである夢窓疎石(むそうそせき)の発案によるもので、なんとか後醍醐天皇の冥福を祈りたいと考えていた尊氏は大賛成。幕府の宣伝にもなりますから、総力を挙げて完成させました。ちなみに、延暦寺が「建設反対!」と東大寺などと共に激しくデモをおこなっています。

 また、鎌倉幕府の最後の執権であった北条高時を弔うために鎌倉に宝戒寺を、新田義貞のために、彼の故郷である世良田(群馬県太田市尾島町 *旧新田郡)の長楽寺へ寺領を寄進。さらに、直義とともに、これまでの戦死者を弔うため、全国に1つずつ、寺と塔を造らせました。いわゆる、安国寺と利生塔です。

 一方、北畠顕家の父で、後醍醐天皇の側近だった北畠親房は、常陸国の小田城(現、茨城県つくば市)に入り、「神皇正統記」を執筆。なんと各地で戦いながら執筆作業を続けていたそうで、神話の時代から、後醍醐天皇、そして跡を継いだ後村上天皇までの歴代天皇について著述。後村上天皇への教育と、南朝の正当性を東国の武士に呼びかける狙いもあったようです。

 ところで、北朝と南朝の戦いは再びヒートアップ。
 あの楠木正成の息子、楠木正行(まさつら)が成長し、南朝の主要な軍事勢力として各地で足利軍を撃破していきます。特に、足利軍の細川顕氏山名時氏連合軍を、住吉と天王寺で撃破したことは、尊氏らをビックリ仰天させ、高師直、高師泰(こうのもろやす)兄弟らを先鋒に、足利直義などを足利軍の主要メンバーを取り揃えた大軍を派遣。

 1348年、四条畷の戦いで高師直軍が楠木正行軍を破り、正行は自害して果てました。どうやら、正行は南朝政権から「正面突破で大軍を撃破してね」と、馬鹿みたいな命令を受け取っていたようで・・・。

 その一方、九州では南朝の勢力が拡大。後醍醐天皇の皇子で征西将軍の懐良(かねよし)親王は、薩摩(鹿児島)で勢力を整え、菊池武光に迎えられて肥後(熊本県)へ進出!! 足利尊氏没後の1359年には、筑後川の戦いで足利方の少弐頼尚(しょうによりひさ)を破り、1361年には大宰府に征西将軍府を設置するなど、勢力盛んでした。

○観応の擾乱

 そんな中、とうとう高師直と足利直義が対立を始める。
 先手を打ったのは足利直義で、尊氏に迫って、高師直を執事職をクビにさせました。これに対し、高師直はクーデターを実行し、幕府の主要部を占領。足利直義の側近である上杉重能は殺され、直義は尊氏の屋敷に逃げ込み、自らの地位を、尊氏の嫡男で鎌倉公方(かまくらくぼう)を務めていた、足利義詮に譲り、頭を丸めて出家せざるを得ませんでした。

 *ちなみに、関東周辺の政務を担当する鎌倉公方。これ以後、尊氏の4男である足利基氏(あしかがもとうじ)と、その子孫が担当しますが、これがまた幕府に反抗的で、色々と問題になっていきます。また登場しますので覚えておいてくださいな。

 ですが今度は直義も黙っちゃいない。
 しばらくして京都を脱出すると、敵であるはずの南朝と講和し、味方を集めていきます。例えば、新田義貞を倒した斯波高経も足利直義に味方します。こうして、高師直VS足利直義となり、幕府は2つに分裂。結局、直義が勝利し、尊氏は直義と講和。そして高師直・高師泰兄弟は京都に戻る途中、足利直義方の上杉能憲(上杉重能の養子)に「親父の仇!」と、殺されました。

 しかし、尊氏・直義の兄弟対立はしばらくして再燃し、直義は再び京都を脱出して軍を組織します。そこで尊氏も本腰を入れて直義との戦いを始め、なんと今度は尊氏が南朝に降伏するという前代未聞の出来事が!

 こうして、尊氏は東海道、さらに鎌倉で直義と戦い撃破。直義はついに降伏し、まもなく死去しました。尊氏による毒殺ではないかとのウワサもあります。こうして、全国を巻き込んだ兄弟げんかは一応終結し、終わってみればようやく、幕府の権限は1本化されたことになります。もしかすると、尊氏は高師直も足利直義も、両方とも始末する気だったかも??

 ただ、これ以後も直義の養子である足利直冬(実は尊氏の息子だが、実子と認めず直義が可愛がっていた)は、幕府に対して反旗を翻し、反乱の終結にはまだ時間がかかりました。これを、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といいます。ちなみに先ほど、九州で懐良親王の勢力が盛んと書きましたが、足利直冬の勢力も九州で盛んだったこともあり、三つ巴の戦いになっていたことも影響しているのです。

 一方、足利尊氏を降伏させた南朝でしたが、ちょっとあせったようです。
「尊氏が鎌倉に行っている間に・・・」
 と、楠木正儀(正行の弟)が京都に攻め込み、留守を守っていた足利義詮を追い出します。明らかに、南朝の約束違反です。しかし、直義を倒した尊氏は、今度はまた安心して南朝と戦うことが出来ます。こうして、南朝は再び京都を失い、北朝が復活するのです。

 ちなみに足利直義、直冬に味方した斯波高経でしたが、1356年に降伏し、その子孫は細川氏、畠山氏と共に管領(かんれい)を務める家柄となり、幕府で重要な地位を占めます。また、上杉氏も関東管領として復帰し、鎌倉公方を支える重要な家柄として存続していきます。

 そして1358年、足利尊氏は55歳で死去しました。悪性の腫れ物が原因だったといわれています。

○余談

 さて、よく足利尊氏肖像画といわれる、甲冑姿の絵がありますが、身につけている装飾品などから、どうもモデルは高師直ではないか?という説が最近は有力になっています。高師直の子孫が、彼をたたえるために描かせた・・・というわけですね。

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