第30回 室町幕府の絶頂期、足利義満の時代

○今回の年表

1368年 足利義満が征夷大将軍に任命される。
  中国で元が滅亡。朱元障が明を建国し、洪武帝として即位する。
1369年 楠木正儀、北朝に降伏する。
  明の洪武帝が、九州の懐良親王に倭寇の禁止を求める。
1370年 (ウズベキスタン周辺)ティムールがティムール帝国を建国し、中央アジアで大きな勢力を張る。
1378年 足利義満、京都室町の花の御所へ移る。
1390年 土岐康之の乱が起こり、義満がこれを討伐する。
1391年 明徳の乱が起こり、義満が山名氏清を討伐する。。
1392年 南北朝が合一する。
1392年 李成桂が李氏朝鮮を建国。
1394年 足利義満、太政大臣に任命される。
1398年 室町幕府、三管領・四職の制度を整備。
1399年 応永の乱が起こり、義満が大内義弘を討伐する。
1400年 今川了俊が義満に追討され降伏。
1401年 第1回の遣明船。明と国交が樹立し、翌年に足利義満を日本国王とした国書が来る。
1402年 世阿弥が「風姿花伝」を著す。
1404年 明と勘合貿易を開始。
1411年 4代将軍、足利義持が明との貿易を停止し、国交が断絶。
1419年 応永の外寇。朝鮮が対馬に侵攻したが撃退される。
1429年 フランス軍のジャンヌ=ダルクがオルレアンの包囲を突破する。
1432年 5代将軍、足利義教が明との国交を回復。

○11歳で即位した新将軍

 南北朝といいながらも、非常に複雑に敵味方が入り乱れた大動乱の時代も、足利尊氏の孫である足利義満の時代に、ようやく終結に向けて動き出します。1368年に11歳で幕府第3代となる征夷大将軍に就任した足利義満は、管領細川頼之(1329〜92年)の補佐を受けながら政治を展開します。

○幕府の組織


 本題に入る前に、まずはちょっと幕府の組織から。
  2代将軍、足利義詮のときも幕府の統治機構を整えられ、執事(家宰)を管領(かんれい)として、それまでの「足利家の執事」から「室町幕府将軍の補佐」の地位へ高められました。1362年に、斯波義将が任命されたのが最初で、次が細川頼之ではないか・・・と考えられています。まあ、大体この2人の頃に、管領をいう役職が成立したと考えてください。

 のちに管領は、足利一門である細川、斯波、畠山が交代で任命され(三管領)、また侍所(京都市中の警察と司法)のトップである所司(しょし)には赤松、一色、山名、京極の4氏(四職)から任命されるのが慣例となります。
 *注:鎌倉幕府の侍所などのトップは、別当(べっとう)。 室町幕府の侍所などのトップは、所司なので、受験生は要注意!

 それから、鎌倉を中心とする東国8カ国には鎌倉府が設置されます(のち、伊豆と甲斐を加え10カ国)へ。
 これは関東におけるミニ室町幕府のようなもので、上図を御覧のように幕府本体と同じ、自前の統治機構を持っているのが特徴。んで、そのトップが鎌倉公方(かまくらくぼう)。のちの2代将軍となる足利義詮、次いで彼の弟である足利基氏(1340〜67年)が任命され、以後は基氏の子孫が地位を継承していきますが、これが次第に将軍と対立していきます。。

 それから、鎌倉公方を支えたのが関東管領(かんとうかんれい)。
 発足初期は上杉氏、高氏、斯波氏が任命されましたが、足利基氏が鎌倉公方となってからの1363(正平18/貞治2年)に上杉憲顕が任命されてから、上杉氏が地位を継承していきます。 

 また、九州には九州探題、東北の陸奥には奥州探題、出羽には羽州探題設置され、統治が任されます。
 九州探題は鎌倉幕府の鎮西探題と紛らわしいので、こちらも受験生は要注意。

○荘園支配を強める守護たち

 さて細川頼之は義満を補佐し、様々な政策で幕府権力の引き締めと強化を行います。
 まず1368(応安元/正平23)年に、応安の半済令を施行します。半済令というのは、守護に貴族が持っている荘園の年貢のうち、半分を持っていっていいよ〜というもので、最初は足利尊氏が1352年に近江、美濃、尾張で1年限りで特例で認めていたもの。

 頼之はこれを正式に制度化し、皇族や摂関家、寺社本所が持っている荘園など一部例外を除けば、すべての荘園を荘園領主と武士で折半しなさい、というもの。既に荘園からとれる年貢は半分が守護のものになっている状況でしたが、この頃になると土地まで半分を持っていけ、ということが認められる有様。

 こうして、守護は正式に自分の土地を確保したわけですね。もっとも、必ずしも武士のための制度といえばそうでもない。実は現実問題、守護によっては半分どころか荘園の殆どを奪っている例もあり、荘園領主は「ふざけるな!」と怒り心頭。そこで頼之は「半分以上を持っていった者は処罰する!」とし、守護に対する取締りを強化したのです。そのため、むしろ歓迎する声もあったようで。

 さらに、守護請(しゅごうけ)という制度も注目。
 なんと守護が、国衙(国府)や荘園の年貢の取立てを「手数料をもらって」代行しましょう、という制度です。

 便利なように見えますが、そもそも武士が勝手に年貢を荘園などから取立て、貴族が安心して年貢を手に入れられなかったから生まれたような制度。貴族にしてみれば、なんとも腑に落ちない話でしょう。ともあれ、一定量は確実に手に入るので、荘園の経営を任せるようになってしまいました。さらに、段銭(反銭)という、田畑の面積によってかけられる、室町幕府の固定資産税(しかも臨時でしばしば徴収)も守護の仕事。守護の家臣が、「税金払ってください」と村々にやってくるようになるので、人的なつながりも守護に持っていかれることになります。

 それから守護は、刈田狼藉(かりたろうぜき)という、所有権をめぐって裁判中の田畑について、片方の人間が一方的に収穫物を刈取る違法行為を現地で取締まる権限、そして幕府による裁判の判決を、現地で執行する使節遵行(しせつじゅんぎょう)という権限を持つようになりました。

 こうなってくると、いよいよ国司に代わって守護が、各国の政治を担当するようになり、守護大名と呼ばれるようになります。こうして、中世以来の国府はついに消えていきました。

○頼之失脚・・・しかし!

 それから、南朝方で、懐良親王と菊池武光が率いる征西将軍府がなかなか手ごわい。
 そこで頼之は、切り札として今川了俊(貞世)九州探題に起用し、1372年に征西将軍府の拠点、大宰府を攻略させ、ようやく九州を完全占領しました。さらに激しく抵抗していた楠木正儀(楠木正成の3男)を降伏させるなど、幕府の権力強化に大きく貢献しました。

 この勢いを背景に1378年、足利義満は京都室町の場所に「花の御所」とも言われる、新たな邸宅を建築し、引っ越しました。花の御所という愛称は、庭に四季折々の花を植えたことから来ており、とても華麗なものだったようです。そして、室町幕府という用語も、ここから付けられたものですね。

 さて、足利義満も次第に成長して「自分で政治を行いたい」と思ってきますし、細川一族を優遇した、として斯波義将(しばよしまさ)や、土岐頼康(ときよりやす)ら有力守護から反発を喰らいます。その結果、1379(天授5/康暦元)年に失脚して、讃岐(香川県)の領国に引っ込まざるを得なくなりました。これを、康暦の政変といいます。

 しかし、これまでに室町幕府の権限は大幅に強化され、南朝もついに力を失っていくことになります。*ちなみに、後ろ盾を失った楠木正儀は再び南朝に戻りますが、その後はよく解ってません。

 ちなみに、だいたい失脚すると失意のうちに病死、もしくは暗殺・・・なんてことが多いですけど、頼之の場合は、弟で自分の養子にした細川頼元を、自分の代わりに幕府中枢に置くことに成功し、しかもその後、頼之と足利義満は再び密接な関係となり、政治顧問として様々な問題に対処しています。
 
 なお、江戸時代の大名である肥後熊本の細川家と、さらにその子孫の細川元首相は、細川頼之の弟である細川頼有の子孫で、細川頼之や頼元の子孫は、室町時代こそ管領として活躍しますが、戦国時代には没落して消滅しています。

 


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