第35回 室町幕府の衰退と、戦国大名の興亡
さらには、守護代の部下が戦国大名になるパターン。
上杉謙信は武田信玄と並んで戦国随一の猛将で、毘沙門天を深く信仰し、生涯妻を娶らなかったのは有名な話。5回にわたって川中島で武田信玄と死闘を繰り広げ(川中島の戦い)、また上杉憲政の期待通り、北条氏と関東で戦い、また北陸方面にも勢力を拡大し、1577年には手取川の戦いで織田信長軍を打ち破っています。 謙信没後、家督をめぐって2人の養子が争った結果、上杉景勝が家督を相続し北陸の大大名として存続。しかし、関が原の戦いで徳川家康と敵対したことから、戦後には米沢へ国替となり、領土は大幅に削減。苦難の道を歩むことになります。 ちなみに、上杉謙信の父である長尾為景は、対立していた越後守護の上杉房能を自殺させて下克上。さらに、その兄で関東管領の上杉顕定による報復に、一時は敗北して佐渡に逃亡するものの、勢力を立て直して顕定を戦死させるなど、典型的な戦国大名です。
しかし経久死後は勢力に衰えが見え始め、尼子義久のときに安芸で勃興した毛利元就に敗北し、1566永禄9)年に滅ぼされます。のち、一族の尼子勝久が家臣の山中鹿之助に擁立されて復活を企てますが、毛利の軍勢に敗北し自害しています。 なお、前述のとおり尼子氏の場合、守護である京極氏の一族であり、一族が争って勝者が戦国大名となった島津氏のパターンと、そう大きな違いはないかもしれませんね。
そして織田信長が跡をついで、ついに天下統一に王手をかけるほど成長。いち早く機動的かつ効率的な統治機構を整え、身分にとらわれず能力主義に立って、人材を集めたことが功を奏しました。しかし、よく知られているように本能寺の変で、家臣の明智光秀に殺され、さらに豊臣秀吉に取って代わられました。江戸時代も信長の子孫は大名として存続はしていますが、天下に王手をかけたあの勢いは全くありません。
宇喜多直家のとき、謀略によってライバルたちを次々と倒し、ついに岡山城を本拠として浦上宗景を追放。さらに織田信長軍の先鋒として、中国地方に進出してきた羽柴(豊臣)秀吉と手を組み、息子の宇喜多秀家(1572〜1655年)は豊臣政権で五大老へ上り詰めました。 しかし、関が原の戦いで西軍に参加して徳川家康に敗北し、八丈島へ島流し。明治時代にようやく許され、宇喜多家は本州へ帰還を果たしました。もっとも、八丈島の生活は悪くなかったみたいで、宇喜多秀家は50年以上も八丈島で過ごし、84歳と天寿をまっとうしています。
企業のM&Aのごとく、次男の元春を吉川氏に養子として送り込み、さらに三男の隆景を小早川氏に養子として送り込むことで、嫡男の毛利隆元(1523〜63年)、吉川元春(1530〜86年)、小早川隆景(1533〜97年)を柱とした毛利両川とも称される強固な組織力を構築します。 ちなみに、ユニークなのは、吉川元春の妻。 武勇に優れた安芸の国人、熊谷信直の娘は、周囲にはブスとして有名で親としては「困った・・・」と悩みの種だったのですが、元春は「是非、私の妻に」と申し入れます。もちろん、元春としては「私の一族として、毛利家で力を発揮して欲しい」という政治的な意味もあり、もちろん信直もそんなことは百も承知だったでしょうが、しかしわざわざ有名なブスな娘を嫁にもらおうとは、なかなか言えるものではない。 これに信直は大感激し、これ以後は元春に従って奮戦し多大な功績を上げ、一門同様の待遇を受けるようになります。また、元春も側室を持たなかったため、ブスな正妻とは別に美女の側室と・・・ということも無かったとか。信直としては自分も娘も幸せで、大満足だったことでしょう。ちなみに元春の弟、小早川隆景も政略結婚した正妻のほかには、子どもが出来なかったにもかかわらず側室を置かなかったとか。兄弟そろって夫婦仲が非常に良かったんですね。 話がずれますが、これに対し意外にM&Aで失敗しているのが東北の伊達氏で、息子や娘を東北の諸勢力に送り込むも、結局互いに争ってしまったケース。闇雲に企業買収すればよいというわけではないようです。 さて、毛利元就は強力なリーダーシップで安芸の国人たちを纏め上げ、前述のように大内氏、そして尼子氏も滅ぼし、中国地方を支配する戦国大名に。孫の毛利輝元は叔父2人に支えられながら、織田信長と戦い、豊臣秀吉政権下では徳川家康に対抗する大勢力に。また、彼のときに広島城と城下町が形成され、本拠を移します。 しかし、関が原の戦いでは西軍の総大将となりながら、どっちつかずの中途半端な対応をとり、そのまま敗北。戦後、家康に領地削減の口実を与え、周防、長門2カ国の大名にされてしまいました。
「(家臣の)阿部定吉が謀反を起こすそうだ」 というウワサが流れます。そんなある日、阿部弥七郎(定吉の子)は、清康の馬が暴れて陣中が混乱したのを、 「おのれ、わが殿はウワサを信じて父を殺したか!」 と勘違い。逆上して清康を殺害してしまいました。これを、守山崩れといいます。 これによって松平家は一気に勢力が衰退。実権は織田家と手を組んだ一族の松平信定が握り、清康の子、松平広忠は伊勢へ流浪の生活へ。2年後、駿河の今川家の協力で当主の座を奪還するも、今川家に従うことになりました。このとき、幼き頃の徳川家康は今川家に人質に出されるも、移動中に織田信秀に奪われ、これが縁で、織田信長と知り合います。 もちろん、「息子の命が惜しければ、織田家に味方しろ・・・」 と松平家に揺さぶりをかけてきますが、広忠は家康の命を無視して、今川家の下で信秀と戦う道を選び、幸いにも家康の奪還に成功。家康は今川家の人質になりますが、当時の今川家当主、今川義元の軍師として名高い太原雪斎(たいげんせっさい)の教育を受けたことは、大きな収穫でした。 さらに義元は姪を家康に嫁がせるなど、むしろ将来の今川家を支える人間として期待していた傾向も。この間に広忠は亡くなり、桶狭間の戦いで今川義元が信長に負けて戦死すると、独立。織田信長と同盟し、戦国大名として勢力を拡大。最後には江戸幕府を開いていきますが、それはまた紹介しましょう。
*なお、このページでは(株)コーエーがユーザー向けに配布している戦国武将顔グラフィックのHP用素材を使用しています。 次のページ(第36回 織田信長、天下統一への道)へ 前のページ(第34回 戦国時代総論)へ |