第35回 室町幕府の衰退と、戦国大名の興亡

○守護代→戦国大名/守護代の部下→戦国大名

 守護の部下であった守護代が守護を倒したり、実権を握ったりして戦国大名となったパターン。
 さらには、守護代の部下が戦国大名になるパターン。

1.長尾氏(上杉氏)

上杉謙信

本拠地:越後(→上野、越中、能登に拡大)
本城:春日山城(新潟県上越市)
主な当主:長尾景虎(上杉謙信)→上杉景勝
主な家臣:長尾政景、宇佐美貞満、本庄繁長、甘粕景持、柿崎景家、直江景綱、直江信綱、中条藤資、北条景広、志田義秀、斎藤朝信


▲春日山城模型

▲現在の春日山城


 武田信玄のライバルとして有名な上杉景虎(謙信)(1530〜78年)は元々、越後の守護代である長尾氏の出身。北条氏康にコテンパンにやられて越後に逃亡してきた関東管領、上杉憲政(のりまさ)を手厚く保護したことから、「上杉家の勢力を回復せよ!」と、関東管領の地位と上杉氏の名跡を譲られました。

 上杉謙信は武田信玄と並んで戦国随一の猛将で、毘沙門天を深く信仰し、生涯妻を娶らなかったのは有名な話。5回にわたって川中島で武田信玄と死闘を繰り広げ(川中島の戦い)、また上杉憲政の期待通り、北条氏と関東で戦い、また北陸方面にも勢力を拡大し、1577年には手取川の戦いで織田信長軍を打ち破っています。

 謙信没後、家督をめぐって2人の養子が争った結果、上杉景勝が家督を相続し北陸の大大名として存続。しかし、関が原の戦いで徳川家康と敵対したことから、戦後には米沢へ国替となり、領土は大幅に削減。苦難の道を歩むことになります。

  ちなみに、上杉謙信の父である長尾為景は、対立していた越後守護の上杉房能を自殺させて下克上。さらに、その兄で関東管領の上杉顕定による報復に、一時は敗北して佐渡に逃亡するものの、勢力を立て直して顕定を戦死させるなど、典型的な戦国大名です。

2.尼子氏


本拠地:出雲、石見(→隠岐、安芸、備後、美作などに拡大)
本城:月山富田城(島根県安来市/旧広瀬町)
主な当主:尼子経久→尼子晴久→尼子義久
主な家臣:尼子政久、尼子国久、本城常光、亀井秀綱、立原久綱、宇山久兼、佐世清宗、赤穴久清


▲現在の月山富田城


 出雲・隠岐の守護、京極高秀の3男高久が、近江国犬上郡尼子郷(現、滋賀県甲良町)を領して尼子氏を名乗ったのがスタート。その子、尼子持久は出雲守護代となり月山富田城を拠点とします。そして1486(文明18)年、尼子経久が京極氏を倒して戦国大名となり、山陰一帯を支配する大勢力に。周防・長門の守護である大内氏などと激しく争います。

 しかし経久死後は勢力に衰えが見え始め、尼子義久のときに安芸で勃興した毛利元就に敗北し、1566永禄9)年に滅ぼされます。のち、一族の尼子勝久が家臣の山中鹿之助に擁立されて復活を企てますが、毛利の軍勢に敗北し自害しています。

 なお、前述のとおり尼子氏の場合、守護である京極氏の一族であり、一族が争って勝者が戦国大名となった島津氏のパターンと、そう大きな違いはないかもしれませんね。

3.織田氏

織田信長
本拠地:尾張(→中部地方全域、中国地方東部へ拡大)
本城:清洲城(愛知県清須市)→稲葉山(岐阜)城(岐阜県岐阜市)→安土城(滋賀県安土町)
主な当主:織田信秀→織田信長→(織田信忠)→織田秀信
主な家臣:柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、村井貞勝、前田利家


▲現在の安土城


 詳細については後述することになりますが、織田氏は越前守護、斯波氏の被官だったものが、斯波氏が尾張守護になったことに伴い、尾張守護代に。応仁の乱で岩倉織田家、清洲織田家に分裂しますが、この中で勢力を伸ばしてきたのが、清洲織田家の一族で、その三奉行の1人だった織田信秀。つまり、守護代の部下ということですが、次第に本家をしのぐ勢いとなり、美濃の斉藤氏や、駿河の今川氏とも抗争するほど。

 そして織田信長が跡をついで、ついに天下統一に王手をかけるほど成長。いち早く機動的かつ効率的な統治機構を整え、身分にとらわれず能力主義に立って、人材を集めたことが功を奏しました。しかし、よく知られているように本能寺の変で、家臣の明智光秀に殺され、さらに豊臣秀吉に取って代わられました。江戸時代も信長の子孫は大名として存続はしていますが、天下に王手をかけたあの勢いは全くありません。

4.宇喜多氏


本拠地:備前
本城:岡山城(岡山県岡山市)
主な当主:宇喜多直家→宇喜多秀家
主な家臣:宇喜多忠家、岡利勝、戸川秀安、戸川達安、長船綱直、花房正幸、花房正成、明石全登
 

▲現在の岡山城
現在みられる岡山城の大半は、江戸時代に岡山藩主の池田氏が整備したもの。


▲宇喜多氏時代の岡山城石垣
一部には宇喜多氏が築城した際の石垣が残っていたり、発掘されたりしています。


 宇喜多(うきた)氏は元々、播磨の守護、赤松氏の守護代である浦上家の被官。
 宇喜多直家のとき、謀略によってライバルたちを次々と倒し、ついに岡山城を本拠として浦上宗景を追放。さらに織田信長軍の先鋒として、中国地方に進出してきた羽柴(豊臣)秀吉と手を組み、息子の宇喜多秀家(1572〜1655年)は豊臣政権で五大老へ上り詰めました。

 しかし、関が原の戦いで西軍に参加して徳川家康に敗北し、八丈島へ島流し。明治時代にようやく許され、宇喜多家は本州へ帰還を果たしました。もっとも、八丈島の生活は悪くなかったみたいで、宇喜多秀家は50年以上も八丈島で過ごし、84歳と天寿をまっとうしています。

○国人→戦国大名

 地元の小勢力が次第に周囲を倒し、成長していくパターン。

1.毛利氏

毛利元就
本拠地:安芸(→中国地方全域に拡大)
本城:吉田郡山城(広島県安芸高田市)→広島城(広島市)
主な当主:毛利元就→(毛利隆元)→毛利輝元
主な家臣:吉川元春、小早川隆景、宍戸隆家、志道広良、熊谷信直、福原貞俊、桂元澄、児玉就忠、口羽通良、吉見正頼、天野隆重、赤川元保



▲吉田郡山城(復元模型と現在の遠景)
長らく毛利氏が本拠とした吉田郡山城。


▲現在の広島城
毛利輝元が築城した広島城。


 毛利氏は鎌倉時代に政所の別当を務めた大江広元の4男、毛利季光を祖とします(季光については、日本史では第24回のページで紹介)。安芸吉田庄の地頭になった毛利一族が、毛利元就(1497〜1571年)のときに急成長。最初こそ、大内氏VS尼子氏の抗争の中で小勢力として振り回されますが、元就は正式に尼子氏と手を切り、大内氏配下に。

 企業のM&Aのごとく、次男の元春を吉川氏に養子として送り込み、さらに三男の隆景を小早川氏に養子として送り込むことで、嫡男の毛利隆元(1523〜63年)吉川元春(1530〜86年)小早川隆景(1533〜97年)を柱とした毛利両川とも称される強固な組織力を構築します。

 ちなみに、ユニークなのは、吉川元春の妻。
 武勇に優れた安芸の国人、熊谷信直の娘は、周囲にはブスとして有名で親としては「困った・・・」と悩みの種だったのですが、元春は「是非、私の妻に」と申し入れます。もちろん、元春としては「私の一族として、毛利家で力を発揮して欲しい」という政治的な意味もあり、もちろん信直もそんなことは百も承知だったでしょうが、しかしわざわざ有名なブスな娘を嫁にもらおうとは、なかなか言えるものではない。

 これに信直は大感激し、これ以後は元春に従って奮戦し多大な功績を上げ、一門同様の待遇を受けるようになります。また、元春も側室を持たなかったため、ブスな正妻とは別に美女の側室と・・・ということも無かったとか。信直としては自分も娘も幸せで、大満足だったことでしょう。ちなみに元春の弟、小早川隆景も政略結婚した正妻のほかには、子どもが出来なかったにもかかわらず側室を置かなかったとか。兄弟そろって夫婦仲が非常に良かったんですね。

 話がずれますが、これに対し意外にM&Aで失敗しているのが東北の伊達氏で、息子や娘を東北の諸勢力に送り込むも、結局互いに争ってしまったケース。闇雲に企業買収すればよいというわけではないようです。

 さて、毛利元就は強力なリーダーシップで安芸の国人たちを纏め上げ、前述のように大内氏、そして尼子氏も滅ぼし、中国地方を支配する戦国大名に。孫の毛利輝元は叔父2人に支えられながら、織田信長と戦い、豊臣秀吉政権下では徳川家康に対抗する大勢力に。また、彼のときに広島城と城下町が形成され、本拠を移します。

 しかし、関が原の戦いでは西軍の総大将となりながら、どっちつかずの中途半端な対応をとり、そのまま敗北。戦後、家康に領地削減の口実を与え、周防、長門2カ国の大名にされてしまいました。

2.松平氏(徳川氏)

徳川家康
本拠地:三河(→駿河、遠江、信濃、甲斐に拡大)
本城:岡崎城(愛知県岡崎市)→浜松城(静岡県浜松市)→江戸城(東京都千代田区)
主な当主:松平清康→松平広忠→松平元康(徳川家康)
主な家臣:本多忠勝、榊原康政、井伊直正、鳥居元忠、大久保忠隣、石川数正


▲現在の浜松城
家康は今川氏真(義元の子)を掛川から追い出すと、領国の東への拡大を狙って、本拠を東へと移すことに。そこで選ばれたのが、浜松の地でした。


▲徳川家康像(浜松城にて)


▲現在の江戸城
豊臣秀吉による小田原北条攻めの後、徳川家康の本拠となった(させられた)江戸城。この秀吉の采配が、その後の日本を大きく変えることになるとは。

      
 松平氏は元々、三河国松平郷の小勢力でしたが、有名な徳川家康の祖父、松平清康(きよやす)は人望の高い人物で勢力を一気に拡大。尾張の織田信秀と争いつつ、西三河を手中に収め、東三河も攻略を開始するなど、三河統一に王手をかけます。ところが1535年、守山城に進軍していたとき、
「(家臣の)阿部定吉が謀反を起こすそうだ」
 というウワサが流れます。そんなある日、阿部弥七郎(定吉の子)は、清康の馬が暴れて陣中が混乱したのを、
「おのれ、わが殿はウワサを信じて父を殺したか!」
 と勘違い。逆上して清康を殺害してしまいました。これを、守山崩れといいます。

 これによって松平家は一気に勢力が衰退。実権は織田家と手を組んだ一族の松平信定が握り、清康の子、松平広忠は伊勢へ流浪の生活へ。2年後、駿河の今川家の協力で当主の座を奪還するも、今川家に従うことになりました。このとき、幼き頃の徳川家康は今川家に人質に出されるも、移動中に織田信秀に奪われ、これが縁で、織田信長と知り合います。

 もちろん、「息子の命が惜しければ、織田家に味方しろ・・・」
 と松平家に揺さぶりをかけてきますが、広忠は家康の命を無視して、今川家の下で信秀と戦う道を選び、幸いにも家康の奪還に成功。家康は今川家の人質になりますが、当時の今川家当主、今川義元の軍師として名高い太原雪斎(たいげんせっさい)の教育を受けたことは、大きな収穫でした。

 さらに義元は姪を家康に嫁がせるなど、むしろ将来の今川家を支える人間として期待していた傾向も。この間に広忠は亡くなり、桶狭間の戦いで今川義元が信長に負けて戦死すると、独立。織田信長と同盟し、戦国大名として勢力を拡大。最後には江戸幕府を開いていきますが、それはまた紹介しましょう。

 ※なお、このページでは(株)コーエーがユーザー向けに配布している戦国武将顔グラフィックのHP用素材を使用しています。 

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