第37回 豊臣秀吉の天下統一

○とりあえず、改めてこの図から


○小牧・長久手の戦い

 こうして秀吉が勢力を拡大する中、不満の声をあげ始めたのが織田信雄でした。彼は「秀吉め。織田家の家臣の分際で私を部下のように扱うとは何事か」と秀吉と仲違いします。特に敵対したとはいえ、弟の織田信孝が秀吉によって自害させられたため、「次は自分かもしれない」と感じたことでしょう。

 さらに織田信雄は、秀吉との融和を主張していた浅井長時岡田重孝津川義冬の3人の家老を殺害し、徳川家康と手を組むことにし、家康も「私は亡き信長様の盟友として、その息子を助ける」という大義名分を得て、秀吉と戦う決意をしました。こうして賤ヶ岳の戦いの翌年である1584年、徳川家康・織田信雄連合軍VS羽柴秀吉軍がスタートします。

 ・・・といっても最初こそ、秀吉軍の池田恒興(いけだつねおき 1536〜84年)が犬山城を攻略したり、秀吉が伊勢を攻略したものの、尾張の小牧山で徳川家康は待機。秀吉も家康との決戦とまでは踏み切れず、これと対峙しながら、持久戦となります。

 それからしばらくして、秀吉の甥である羽柴(三好)秀次(1568〜95年)、池田恒興、森長可(もりながよし 1558〜1584年)率いる軍勢が、家康の本拠地である三河の岡崎城を攻めようとしますが、長久手で家康軍に遭遇して大敗。池田、森両名が討ち死にしてし、秀次はかろうじて逃亡しました。そして秀吉も、いつまでも家康と戦っているのも面白い話ではない。そこで、なんと織田信雄に甘い言葉で「仲直りしましょうよ〜」と交渉。

 その結果、信雄は秀吉と単独で講和し、大義名分を失った家康は三河に撤退しました。



色金山歴史公園
 小牧山で羽柴秀吉と対峙していた家康は、約9000人の軍勢を引き連れ、岡崎急襲を企む羽柴秀次の軍勢を追い、この色金山に布陣しました。

床机石(しょうぎいし)
 色金山に布陣した家康は、山頂の巨石に腰掛けて軍議を行い、羽柴軍を討伐するべく軍勢を出陣させました。

長久手城跡
 一方、美濃の大垣城主だった池田恒興(勝入斎)は、羽柴秀次を総大将に出陣。しかし、岩崎城(日進市)攻略に手間取り、この長久手城を攻略したところで家康軍と遭遇してしまいます。

勝入塚
 こうして池田恒興は、長久手城の近くで家康軍と戦い、この場所のあたりで無念の戦死を遂げました。ちなみに、愛・地球博が開かれた会場から比較的近い場所だったりします。
 最終的には家康は秀吉に屈服することになるため、この小牧・長久手の戦いの勝者は誰だ?と、古来から議論の争点になっています。政治的な戦いと、局地的な戦いの勝利者が違うわけで、弊サイトの歴史掲示板での議論はもちろん、インターネットでも様々な検証ホームページが開設されていますが、小牧・長久手の戦いと、その合戦が与えた影響をどこまで含めるかによって全く結論は異なってくるため、個人的には意味のある議論とは思えません。

○西日本の統一と太政大臣就任


 さて、織田信雄と和解した秀吉は、紀伊で抵抗する根来(ねごろ)・雑賀一揆を片付けると、弟の羽柴秀長を総大将に、四国統一に王手をかけていた長宗我部元親(ちょうそがべもとちか 1538〜99年)の討伐に乗り出します。

 まず、羽柴秀長と羽柴秀次の軍勢が阿波(現在の徳島県)から、黒田孝高、宇喜多秀家と蜂須賀正勝が讃岐(香川県)、毛利家の小早川隆景(輝元の叔父)が、伊予(愛媛県)から攻め込みます。

 長宗我部元親の軍勢は、一領具足(いちりょうぐそく)という、普段は農作業をしているものの、常に臨戦態勢を整えている強力な兵士たちで、四国統一の立役者でしたが、それは四国の中だけでの話で、武具を整え、各地から集めた立派な馬に乗った秀吉の軍勢の前には、抗うすべはありませんでした。こうして長宗我部元親は降伏し、元々の領土である土佐一国しか保障されませんでした。

 そして秀吉は、右大臣の菊亭晴季など公家たちへの外交の成果もあり、なんと関白(かんぱく)に就任します。これにより、織田家の家臣でありながらも、織田一族より上位に立つことの、正統性を確保したことになります。本当は将軍になりたかったのだそうですが、未だ将軍位自体は保持していた足利義昭に「誰がお前に譲るかー!」と拒否されてしまったそうで。

 また、徳川家康を戦わずして臣従させるべく、なんと自らの妹(旭姫)を離婚させてまで、家康と無理やり結婚させます。旭姫も40歳を過ぎており、離婚までさせられ敵に嫁ぐとは不本意な結婚だったことでしょう。ちなみに、離婚させられた夫の佐治日向守は「5万石を与える」と秀吉に言われましたが、「ふざけるな!」と話を断り、その後の消息はわかっていません。

 しかし、それでも家康が自分に従わないと見るや、ついに自分の母親である大政所を、人質として家康に差し出します。戦力差では秀吉のほうが上であるにもかかわらず、ここまでされて家康も「無視!」というわけにはいきません。

 1586年、とうとう徳川家康も秀吉へ臣従し、いよいよ敵は残り僅かになってきました。
 同年、なんと正親町(おおぎまち)天皇を譲位させ、後陽成(ごようぜい)天皇を即位させることに成功。しかも秀吉は、前関白の近衛前久(このえさきひさ)の猶子(=ゆうし。養育義務の無い養子)となることで、太政大臣に任命され、豊臣の姓を与えられます。農民から身を起こした秀吉が、ついに最高位にまで上り詰めたのです。

 そして翌年、前田利家に京都の守備を任せ、秀吉は九州の戦国大名、島津義久を討伐するべく出陣。それ以前に、先発として戦った軍勢こそ、豊後(大分県)で行われた戸次川の戦いで、十河存保(そごうながやす)、長宗我部信親(元親の嫡男)が島津軍に戦死させられてしまいましたが、今度はそうはいかんぞ!

 というわけで、派手好きの秀吉は、相手を威圧する意味合いもあって、前代未聞の豪華な装備の軍勢を率い、小倉城(北九州市)に入り、さらに薩摩川内(せんだい)まで軍勢を進めます。ここに、ついに島津義久も降伏を決意し、薩摩・大隈のみ安堵されました。

○威信を見せ付ける大パーティーの開催

 さて、島津氏を降伏させた秀吉は博多に立ち寄り、ここで伴天連(バテレン)追放令を出します。
 次第に人々の間に広まっていくキリスト教(カトリック)に対し危機感を覚え、布教の厳禁と宣教師の追放を命令します。もっとも、貿易は奨励し、少し前の1584年からはスペインも平戸を拠点に、貿易を開始しています。ちなみに秀吉は、この博多でもう一つ、博多再興令も出しています。大友氏と竜造寺氏による戦いで破壊された博多を立て直そうというもので、税制面での優遇措置に、博多の町並みを再建する事業に取り掛かりました。

 そして大坂に帰った秀吉は、当代随一の茶人である、千利休らに演出させて北野大茶湯を開催。京都の北野の森にて、百姓、庶民だって参加OKよ、秀吉自ら茶の湯を振舞うよ、という前代未聞の大パーティーは、すなわち「天下はもう関白秀吉の下で安泰じゃ〜」というパフォーマンスだったわけ。

 ・・・が、翌日に肥後(熊本県)で一揆が起こったため、このパーティーは中止となりました。それでも、こういう大イベントを企画するあたり、いかにも秀吉らしい発想で、歴史的にも珍しいものでした。また同年、大坂城の完成を目前に控え、もう一つ、聚楽第と呼ばれる超豪華な城郭風の邸宅を、現在の京都市上京区に新築完成しました。

 ここになんと! 後陽成天皇を迎え入れ、壮大な規模で、5日間にわたる大パーティーを実施。さらに、家康ら諸大名に関白豊臣秀吉への忠誠を誓わせる誓約書を提出させ、豊臣政権の基盤を固めました。

 そして1588(天正16)年には大坂城(写真)が完成しました。
 豊後の戦国大名だった大友宗麟は大坂城完成の2年前に訪問し、秀吉自らの案内で大坂城を見学したのですが、彼によると、なんと秀吉は洋式のベッドで寝ていたそうですよ!




 ちなみに現在の大坂城は、徳川家康が秀吉の大坂城をぶっ壊して造り直したもの。天守閣は1931(昭和6)年に、大坂夏の陣図屏風を参考に、秀吉時代の天守閣をイメージとして復興したものです(ただし天守閣の場所は違いますし、本来は外壁が黒じゃないと図屏風に描かれた天守閣とは違う上、そもそも図屏風の大坂城は、江戸時代の大坂城がベースだとか)。

 上写真の左が、秀吉時代の天守閣復元模型(駿府城にて撮影)、右が現在の大坂城天守閣です。
 あと前述の通り、この時代の歴史的地名では「大”坂”」、現在の地名は「大”阪”」であることも注意してください。

○いよいよ天下統一の総仕上げ

 1590(天正18)年、未だに秀吉に従わない小田原の北条氏を討伐するべく自ら出陣します。
 北条氏は既に紹介しましたが、当時は北条氏政(1538〜90年)北条氏直(1562〜91年)親子を中心とした関東一円を支配する戦国大名。秀吉は以前から「降伏しろ」と迫っていたのですが、適当にお茶を濁していました。一方、1年分の弾薬や兵糧を整え、秀吉が攻めてきても、持久戦で勝利する気満々でした。

 そこで秀吉は、早速小田原城の近くにある石垣山に城郭を築城し、じっくりと腰をすえます。一方、前田利家と上杉景勝は北関東の攻略を開始。箕輪城、厩橋(前橋)城、八王子城(現、東京都八王子市)を陥落させ、小田原城を孤立させていきます。兵糧や武器弾薬も次々と補給が行われ、さらに海に面した小田原城を、海上封鎖。

 「そのうち秀吉は疲れ果てて撤退する」
 そう考えていた北条氏の計算は見事にはずれ、とうとう北条氏直は降伏を決意。結局、北条氏政・氏照兄弟が切腹となり、氏直は高野山に追放。5代に渡り小田原と関東を支配した北条氏は、ついに滅亡しました。そして、この間に東北の伊達政宗らも降伏したため、ついに秀吉による天下統一が完了しました。

 ちなみに徳川家康は、自らの領地として開発してきた三河や駿河などから、関東に国替えさせられました。そしてここから、まだ田んぼだらけだった江戸の開発が始まっていくのです。また、余談ですが家康の領地には、尾張から織田信雄が移封、つまり簡単に言ってしまえば転勤することになっていました。

 ところが何をスネたのか「やだやだ。行きたくねぇ」と織田信雄は騒ぎ出し、激怒した秀吉に領土を取り上げられてしまいます。そして下野烏山(那須との説も)へ追放されてしまい、後に赦されるまで領土を失ってしまいました。赦された後も、大した領土は無いんですが、江戸時代も大名として存続しています(幕末には山形の天童藩などを領有)。

 ちなみに北条氏は、北条氏規(氏政の弟)(1545〜1600年)が豊臣秀吉に許されて河内狭山城主となって復活。その子供である北条氏盛が無事に家督を継承し、狭山藩1万石として細々と明治維新まで存続し、子孫は現在まで続いています。

○もっとも、東北でもう一戦ありました

 一般には、小田原の北条氏滅亡で天下統一完了と見えますが、戦い自体はもう1つ大きなのがありました。
 東北(岩手県)の戦国大名である南部信直(1546〜99年)は、小田原で北条氏と戦う豊臣秀吉にいち早く接近し、臣従して領土の保障をしてもらいました。ところが南部一族の重鎮で武勇名高い九戸政実(1536〜91年)は、そもそも南部信直が南部家の家督を継いだことに以前から反発しており、北条氏滅亡後の1591(天正19)年に反乱を起こします。

 南部家の中でも精鋭ぞろいの九戸軍は南部家の軍勢を圧倒していましたが、そこで南部信直は秀吉に援軍を要請。豊臣秀次、蒲生氏郷、石田三成などによる大軍(5万とも10万とも)が派遣され、九戸城(岩手県二戸市)を総攻撃。九戸政実は善戦しましたが4日で降伏し、一族は処刑されました。こうして、完全に東北も落ち着き、南部信直は不来方城(後の盛岡城)に本拠を移転し、盛岡が発展する下地を造りました。

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