第39回 桃山文化

○桃山文化

 さて、いよいよ関ヶ原の戦いについて見ていくことになりますが、1回お休み。
 今回は信長や秀吉の時代の文化についてみていくことにしましょう。まず、この時代は安土桃山時代と呼ばれ、その文化は桃山文化と呼ばれます。これは、信長政権の末期に本拠となった安土城、それから豊臣秀吉が最期を迎えた伏見城・・・が江戸時代初期に取り壊され、桃の木が植えられて「桃山」と呼ばれることになったことに由来します。
 というわけで、桃山文化とはいいますけど当時の名称とは何の関係もございません。
 ちなみに伏見城跡には大正時代、明治天皇の御陵である桃山陵(桃山御陵)が造られ、さらに伏見城の花畑だった場所に、1964(昭和39)年には模擬天守閣と遊園地などから成る伏見桃山城キャッスルランドがオープン。キャッスルランドは長らく親しまれてきましたが、2003(平成15)年1月に閉園となり、模擬天守閣は「文化財的価値はない」とされながらも、地元に親しまれていることから保存されています。

 以上、ちょっと前置きが長くなりましたが、桃山文化は戦乱の世がほぼ終わり、南蛮文化も渡来して華やかで多彩な文化となりました。その担い手も武士や豪商であり、寺院の衰退により仏教色が薄まるなど、時代を反映したものとなっています。では、分野別に見て行きましょう。


○城

 桃山文化を特に印象づける存在は、なんと言っても壮大な「城」。室町時代の城の多くは、山頂や丘の上に造った砦のようなもので、戦闘用に特化した構造でした。これに新風を吹き込んだのが、松永久秀が、現在の奈良県奈良市に築城した多聞山城。豪勢な御殿に、さらに四層の多聞櫓を設置したのが特徴でした。

 さらに、織田信長が1579(天正7)年に築城した安土城は、壮大な五層七重の「天主」(てんしゅ)を備えるなど建築物、敷地共に規模が壮大なものになり、それまでの戦闘用の城から、大名の権力を誇示し、また交通の便を重視した城へと性格を変えていくのです。そのため、築城場所も山の上から、平地の街道沿いへと変わっていきます。

 というわけで現在、築城された場所の地形によって、山城、平山城、平城の3タイプに大まかに区分しています。  
 それから、豊臣秀吉が築城した大坂城や伏見城は、いずれも巨大建造物として天守閣(てんしゅかく)と、襖絵などのインテリアにもこだわった豪勢な御殿を備え、石垣で城の防御を固めたもので、天下人としての威信を内外に知らしめるのに役立ちました。

 例えば、中国地方の大名である毛利輝元は大坂城に感動し、現在の広島県中部の吉田郡山城から、瀬戸内に面した太田川の三角州に壮大な平城を造り、広島城と命名して引越し。これが、広島城と広島の始まりです。

 では、安土桃山時代に大きな転換期を迎えた城について見て行きましょう。なお、ここで紹介している建物が安土桃山時代に造られたわけではないので、御了承ください。


○城の種類

津和野城(島根県/山城)
 標高367mの高さにある津和野城。現在でも山上に石垣が残っていますが、こういうタイプの城を山城といいます。もちろん、まさか毎日山の上に登っていたわけではなく、実際には山麓(さんろく)に造った居館に居住し、仕事をしていました。
 戦国時代まではメジャーなタイプだったので、それこそ、あちこちの山が城跡だったりしますが、江戸時代も使われ、現在も天守閣が残っているのが岡山県の備中松山城。あとで紹介しますが、標高約430mの山上に造られています。
松山城(愛媛県/平山城)
 山城ほど高くは無いのが平山城という形態。兵庫県の姫路城や、滋賀県の彦根城、岐阜県の犬山城も代表例。もっとも、松山城の場合は標高132mに天守閣などが造られており、登るのが大変なことには変わりありません。  1864(安政元)年の再建の天守閣などが残り、市内のあちこちから見ることが出来るため、まさにシンボル的な存在。観光のみならず、住んでいる人にも自然と大きな影響を与えている、ある意味で現役の「城」です。
弘前城(青森県/平城)
 一方、そもそも城を完全に平地に造ったのを平城といいます。広島県の広島城や、大阪府の大坂城、京都府の二条城、愛知県の名古屋城、長野県の松本城など数多くあります。
備中松山城(岡山県/山城)
 というわけで備中松山城。先ほどの津和野城の上に、こういうのが建っていると想像してください。ちなみに写真奥に映っている天守閣は小さいものですが、江戸時代から残っているもの。


 写真は、静岡県静岡市の駿府城復元模型ですが、平城の場合は多くはこういう構造になっています。もちろん、防御のために色々な工夫を加えたり、この形にとらわれない構造のところもありますが、基本は三つの曲輪(くるわ)でガッチリと防御。


○天守閣の種類と城下町の構造

 続いて、様々な形の天守閣を見て行きます。単体で建っているものあり、櫓を従えたものあり・・・色々ですが、分類すると次のような感じになります。
犬山城(愛知県/独立式天守)
 独立式天守閣は、読んで字のごとく天守閣が単体でドーンと構えている形。ちなみに犬山城天守閣は、三層四重の構造で、独立式天守としては現存最古といわれています。
岡山城(岡山県/複合式天守)
 複合式天守は、櫓1つが天守とくっついた構造です。
名古屋城(愛知県/連結式天守)
 連結式天守は、小天守と大天守が橋台によって連結されている構造です。
松本城(長野県/複合連結式天守)
 複合連結式天守は、もちろん読んで字のごとく、大天守は櫓1つとくっつき(写真左側)、さらに小天守と大天守が橋台によって連結されている(写真右側)構造です。
姫路城(兵庫県/連立式天守)
 従えるのは櫓じゃ満足しないぜ、小天守だって1つぐらいじゃ満足しないぜ、というわけで複数の小天守を従えるのが連立式。代表例は、世界遺産姫路城で、今でも数多くの建物が残り、その縄張りも大半が現存するマンモス級の文化財です。ちなみに、広島城も現在では大天守1つが戦後に再建されただけですが、本来はこの構造です。
熊本城(熊本県/連結式天守)
 姫路城と並ぶ壮大な規模の城が熊本城。残念ながら天守閣は明治初期の西南戦争に伴い破却され、現在の建物は鉄筋コンクリート造で外観復元されたものですが、それでも江戸時代からの建物も残り、そして城の大半の建物を復元するプロジェクトが続々と進行中。


 ちなみに城下町の代表例はこんな形(写真は、姫路城とその周辺の復元模型)。
 城下町の配置は色々なやり方がありますが、このように城本体、その外に武家屋敷の街並み、さらに外に町人の店舗や住まいという構造が代表例。それぞれ堀や川で囲んでおり、防御機能も高めています。ちなみに、先ほど紹介した駿府城と、姫路城(内曲輪の部分)を比べてみると、姫路城の方がクネクネとした構造で、敵が攻めてきたときに、様々な角度から射撃できるのがわかります。しかも、本丸にたどり着くまで、迷路のように色々な方向に進まされるため、敵の攻撃を排除しながら先に進むのは大変です。

○建築

 続きまして、この時代の建築を見て行きましょう。

西本願寺唐門
 この華麗さをみよ、といった豪華で壮大な造り。秀吉が造った伏見城の遺構で、四脚門。前後に唐破風(屋根の湾曲した部分のこと)を設け、精巧な彫刻を施しています。また、屋根は瓦じゃなくて、檜皮葺きです。
二条城二の丸御殿
 徳川家康が京都に建築させたもので、桃山時代の武家風書院造りの代表的存在。玄関からして、壮麗な構造。
東寺(教王護国寺)金堂
 1603(慶長8)年築。1486(文明18)年に焼失したものを、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建させたもので、唐様、和様、天竺様の建築様式を折衷した桃山時代の寺院建築です。独特な屋根の形状が、力強さを感じさせます。
 本尊の薬師三尊像を安置していますが、これが2.9mの高さを持つ巨大なもの。見るものを圧倒します。
春草廬
 この時代は茶の湯がブームになったことから、静かな雰囲気を演出する茶室も造られはじめました。こちらは織田信長の弟、織田有楽斎が建てさせた茶室で、元々は京都の伏見城内にありました。現在は横浜市の三渓園に移築されています。

○狩野派の隆盛

 このように豪華な城や建築が造られるものですから、当然インテリアも豪華になります。
 特に、御殿などの襖(ふすま)や壁、それから屏風に描かれた障壁画(しょうへきが)が非常に豪華なものでした。これは、金箔地にあり青色や緑色を彩色した濃絵(だるみえ)と呼ばれる種類のもので、こうした絵は狩野永徳(1543〜90年)や、その門人の狩野山楽(1559〜1635年)ら、狩野派が中心となって活躍しました。また、この時代の画家としては海北友松1533〜1615年)長谷川等伯(1539〜1610年)が水墨画などでも優れた作品を残しています。


○彫刻と印刷

 前述のとおり仏教美術が衰えたこともあり、彫刻界では欄間(らんま)彫刻が盛んになります。欄間というのは、障子や襖と天井までの空間のこと。既に奈良時代から寺社仏閣の建築にはよく取り入れられていましたが、特にこの時代以降は一般の住宅にも多く取り入れられるようになります。

 それから、これも、この頃から特に盛んになったものですが蒔絵(まきえ)と呼ばれる、漆器に施した美しい芸術が盛んになります。これは、絵漆で模様を描いて、金粉を蒔き付ける技法のことで、キラキラと輝く豪華なもの。江戸時代にはさらに盛んになりました。個人的に、数ある伝統芸術の中でも特に綺麗で絢爛豪華だと思っておりまして、ぜひ一度は実物を見ていただきたいなあと思います。

○彫刻と印刷

 桃山文化は武士だけでなく、この時代に力をつけた京都、大坂、堺、博多の富裕な町衆もその担い手でした。
 堺の千利休(せんのりきゅう 1521〜91年)は豊臣秀吉や諸大名の庇護を受けながら、茶道を確立しました。華やかな桃山文化でありながら、茶道は静かな空間と、簡素さが重要視したもので、狭い茶室で、簡素な茶器を用いて茶を楽しむもの。のちに侘茶(わびちゃ)とも呼ばれるようになりました。

 一方で、派手好きな豊臣秀吉が、大坂城内に黄金の茶室を造ったり、また諸大名の中にも豪華な茶器を追い求めるコレクターが登場するなど、桃山時代らしい派手な茶の湯も存在しています。
 なお千利休の場合、秀吉の相談役として政治にも口を出していたようで、これも災いの1つとなって、後に秀吉によって切腹させられています(切腹させられた決定的な要因については、諸説ありよくわかっていません)。ただし、千利休の家系はその後も茶道の大家として存続し、千利休の後妻の連れ子で、千利休の娘婿となった千少庵の子孫である表千家、裏千家、武者小路千家という3つの家柄が未だに強い影響力を持っています。

 それから、「能」に加えて歌舞伎(かぶき)が人気を集めます。この時代の歌舞伎の代表は、出雲阿国(いずもおくに)が京都で踊ったもので、これをベースとして女歌舞伎が誕生。もっとも、これは江戸幕府によって寛永期、すなわち3代将軍、徳川家光の頃に禁止となり、続いて少年たちによる若衆歌舞伎が盛んになりますが、これも禁止に。結局、成人男性による野郎歌舞伎が、歌舞伎の本流となり、現在でも日本の伝統芸術として高い人気を誇っています。



出雲阿国の像 (京都四条河原にて)  1603(慶長8)年、出雲の阿国は京都の四条河原にて、伊達男風の扮装で「かぶきおどり」を披露し、人々の喝采を受けました。彼女は一説によると、元々は出雲大社の巫女であったといわれています。前述のとおり、女性による歌舞伎はNGとなり、男性が男形も女形も演じる歌舞伎が現在の主流。阿国は晩年、出雲に帰って尼僧になったとも言われますが、詳しいことは分っていません。


○南蛮文化

 南蛮貿易が盛んだったこの時代には、ヨーロッパからの文物も多く伝わりました。
 例えば、天文学や医学、地理学などは宣教師たちなどによって多少伝わったほか(織田信長が地球儀を見て「なるほど、地球は丸いんだな」と理解した話は前に紹介しましたね)、カステラ、カッパ、コンペイトウ(金平糖)、パンなど、ポルトガル語に由来する食品名は、現在でも定着していますね。

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