第51回 江戸と大坂

○大坂〜天下の台所!!〜


 ところ変わって、今度は大坂だ! 何度も書いていますが、当時は「阪」じゃなくて「坂」です。
 さて豊臣家滅亡後、大坂は松平忠明(ただあきら)が城主となるも、1619年に2代将軍の徳川秀忠によって幕府の直轄地とされ、大坂城代と大坂町奉行を置きました。大坂城代は、大坂城の守衛、大坂に勤める幕府の役人たちの統括、西国の諸大名の監視が役目。大坂町奉行の役目は前のページで見たとおりですね。

 そして大坂の行政は、北組、南組、天満組の3つの町組へ、有力町人十数名が総年寄として任命され、各町の町年寄と共に執行しました。まさに、町人の町といった感じです。

 大坂が物資の集積地として大きく発展するきっかけの1つになったのが、貞享年間(1684〜88年)に淀川治水のために、河村瑞賢によって安治(あじ)川が開削されたこと。さらに河村瑞賢は、安全かつ迅速に物資を船で運ぶ西廻り海運というルートの設定にも成功し、元禄年間には堂島、堀江、曽根崎、高津(こうづ)、難波などが開発されていきます。

 もちろん、これを大名も見逃しているわけも無く、特に中之島周辺には各藩は次々と蔵屋敷を建設しました。もちろん、ここに米など各藩で生産された物資を搬入して、販売を行って収益を上げようというのですね。前回、堂島の米市場についてみていきましたが、それだけ大坂の動きが日本全国に影響を与えたわけです。


 上写真は中之島公会堂(もちろん当時の建築とは無関係)。今の中之島は大阪市役所など行政関連施設が建ち並びますが、当時このあたりは蔵屋敷が建ち並んでいました。なお、蔵屋敷は大坂へ特に多く設置されましたが、江戸や長崎などにも数多く置かれています。

 さて、この蔵屋敷には
1.蔵役人・・・藩士、重役を留守居役
2.蔵元・・・蔵物の販売や保管を行った商人。藩からは武士としての待遇を受け、扶持米が支給されます。
3.掛屋・・・蔵物の販売代金を出納し、各藩へ送金を行った商人。やはり武士としての待遇を受け、扶持米が支給。
 *蔵元と掛家を兼任する人もいました。
 が配属され、物資を問屋(といや)に販売しました。


 写真は広島藩浅野家の蔵屋敷を復元した模型。1866(慶応2)年の姿を再現したものです。船で広島で収穫された年貢米を運び入れるための船着場や、もちろん蔵が建ち並び、さらに建物の内部では藩主が、出入りする大坂商人と面会したり、蔵役人と蔵元が、米の売却先を決定したりしていました。

 さて、蔵屋敷から蔵物という物資を購入した問屋は、今度は仲買へ物資を売却。さらに仲買は小売に売却して、物資が各地の消費者の手元に届くという流通構造が出来上がりました。ちなみに、問屋は同業者の組合である「仲間」を形成し、営業を独占しようとします。一方、小売は必ずしも店舗を持っていたわけではなく、むしろ「振売」「「棒手振」といわれる、店舗の無い零細商人が多かったようです。

 そして財政難に苦しむ幕府は徳川吉宗の時代より、この仲間を黙認から公認へ方針を転換。営業独占権「株」を与える代わりに「運上」「冥加(みょうが)」という税を課すことにしました。これによって営業独占権を得た仲間は株仲間といって、江戸では十組問屋、大坂では二十四組問屋が結成。

 十組問屋は、菱垣廻船(ひがきかいせん)によって大坂から江戸に運ばれる商品(下り物)の商品輸送を独占しようとします。 ところが1730年、十組問屋から酒店組が独立。もちろん「お酒」を扱う組合で、灘(なだ)などから江戸に運ぶお酒を運ぶ船として、独自に樽廻船(たるかいせん)の運航を開始します。樽とは酒樽のことですね。

 そして、次第にお酒以外も運搬するようになり、十組問屋と対立するようになります。迅速、安全を売り物に、江戸時代後期には樽廻船の方が勢いを増すようになりました。


 これが菱垣廻船の復元模型(江戸東京博物館にて)。日本最大の消費地である江戸へ、これを使って様々な物資を運んでいたわけですね。ちなみに、元々は廻船問屋が運行していたのですが、海難事故の処理問題や船員の不正が続出。

 十組問屋は、これに対抗して様々な業種の問屋が手を組み、その発言力で菱垣廻船を支配下に置いたという事情もあります。何しろ、当時は船が無いと物資を大量に運べなかったのですから、船は非常に重要な輸送手段。廻船問屋の好きに任せたまま、というわけにはいかなかったわけです。



 話が少しずれましたが、商業都市としてにぎわう大坂の風景のひとつとして、こちらを御紹介。大阪城の西に位置し、当時の大坂でも特ににぎわっていた場所の1つ、船場(せんば)の街並みを再現した模型(大坂歴史博物館にて撮影)で、両替商「千草屋」や学問所「懐風堂」などがありました。また、町境には背割下水と呼ばれる排水施設も整備されています。
 

 大坂はまた、各地の銅山から運ばれた銅を精錬することでも優れた技術を持った都市でした。その中心となったのが、こちらの住友長堀銅吹所の復元模型(大坂歴史博物館にて撮影)。1636(寛永13)年に住友家による銅精錬所で、当時から純度99.9%以上という世界でも特に高純度の銅を精錬するのが特徴でした。模型は1861(文久元)年の絵図を元に復元されています。なお、この銅吹所は現在の中央区島之内一丁目にありました。

○京都〜豊臣秀吉による「まちづくり」〜


 江戸と大坂というタイトルですが、最後に少しだけ京都についても触れておきます。
 応仁の乱で焼け野原になった京都は、朝廷の権威も失墜し、なかなか復興が進みませんでした。そこへ大改造の手を加えたのが豊臣秀吉。今見られる京都の区割りは、だいたい彼の時代に造りあげられたものです。


 例えば、こちらの本能寺は織田信長が明智光秀に討たれて焼失した後、豊臣秀吉の都市計画により現在地である京都市役所付近へ移転。ちなみに写真の本堂は1928(昭和3)年の建築です。


 さて、こうして再興した京都は西陣織京染(代表例として友禅染)、京焼(代表例として清水焼)などの産業が盛んになります。また、江戸時代からは上写真のように祇園祭が、より盛大に復活し山鉾には遠くはベルギーやオランダからの輸入品を用いた織物まで飾られました。(この写真のみZenigata撮影)

 京都は宗教都市、産業都市として発展していきます。そして不幸にも、幕末になると再び歴史の表舞台へと一時的に引っ張り出された挙句に、戦災に巻き込まれるという不幸に見舞われます。


 これはオマケですが・・・。
 二条城の近くに、二条陣屋(小川家住宅)というのがあります。これは1670(寛文10)年に建てられたもので、二条城や京都所司代に伺候する大名の宿泊先などとに使用されました。国の重要文化財に指定されています。先ほどの江戸や大坂では復元模型ばかり紹介しましたが、京都は現在でも、こうした建築や古い町並みが数多く残っているのがいいですね。

 さて江戸と大坂をテーマにしながら、なるべく受験で必要な用語も散りばめてみましたが、もちろんまだ覚えないといけない用語も沢山あります。学生の皆さんは、ここに書いていることだけで安心しないで、頑張って資料集や問題集とにらめっこしてください。それ以外の方は、何とも色々な言葉が沢山出てきて混乱されているかもしれません。

 まあ、写真を見ながら、何となく雰囲気をつかんで頂ければ幸いです。

参考文献・ホームページ
東京都の歴史散歩 下 多摩・島嶼 (東京都歴史教育研究会編/山川出版社)
結論!日本史1 古代〜近世編 (石川晶康著 学研)
エンカルタ百科事典 (マイクロソフト)
新詳日本史 (浜島書店)
江戸東京博物館ガイドブック 及び 館内解説
図表でみる江戸・東京の世界 (江戸東京博物館)
マンガ日本の歴史33 満ちる社会と新井白石 (中央公論社)
大坂歴史博物館 館内解説
東京都西部公園緑地事務所 井の頭恩賜公園の概要
 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/seibuk/inokashira/gaiyou.html 東京都水道局 水道歴史館 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/index.html
三井不動産 日本橋 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/index.html
株式会社三越 歴史 http://www.mitsukoshi.co.jp/corp/history.html
株式会社日本シンクマスター 水道水の歴史 http://www.sinkmaster.co.jp/catalog/chapter3-1.html

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