第63回 岩倉使節団の派遣と留守政府

○琉球藩の設置〜1872(明治5)年9月〜

 さて、ここで再び琉球王国の話が出てきます。
 廃藩置県が行われ、琉球王国は鹿児島県の管轄になったものの、未だ琉球王国自体は存続していました。そこで政府は、まず琉球藩というものを改めて設置し、国王の尚泰(しょうたい 1845〜1901年)を藩王に任命します。いきなり、国王を東京に連れて行き、政府の役人を送り込み・・・というのは得策ではないと判断したのでしょう。



首里城 (撮影:デューク)
 最終的には1879(明治12)年に、琉球藩を廃して沖縄県の設置を強行。これを琉球処分といって、ここに名実共に琉球王国は滅亡することになったのです。なお、琉球藩設置を第一次琉球処分、沖縄県設置を第2次琉球処分ということもあります。また、この日本側の動きに対し、当然のことながら清は反発しています。

○鉄道の開業〜1872(明治5)年9月〜

 幕末にロシアのプチャーチンや、アメリカのペリーが持ち込んだ鉄道模型によって、日本人は鉄道というのが利便性の高いものであることを認識し始めていました。また、佐賀藩は独自に鉄道模型を製作して興味を示すほどでした。そこで大隈重信や伊藤博文らは政府発足後、いち早く鉄道の建設に取り組み、1872(明治5)年5月に品川〜横浜で仮開業。そして、9月12日に新橋〜横浜間で鉄道が正式に開業しました。

 この新橋〜横浜間とは、現在の汐留シオサイトのあたりから、現在のJR根岸線の桜木町駅に至る部分。また、建設に当たって技術指導を行ったのは、28歳の若きイギリス人建築技師エドモント・モレルでした。

 建設に当たっては官民問わず反対論は根強く、特に政府では大久保利通でさえ反対していました。また薩摩藩などが用地提供に応じなかったこともあり、多くの部分が海の上に堤を造って、その上に線路を通すことになりました。最終的に政府内の反対論については、試運転の汽車に乗せているうちに収束し、鉄道開業後は一転して、鉄道建設の推進が進められていきます。



復元された旧新橋停車場  汐留地区再開発に伴い、当時の場所に2003(平成15)年に復元された新橋駅(新橋停車場)。埋め戻した当時の遺構の上に建てられたもので、旧新橋停車場鉄道歴史展示室として使用されています。なお新橋駅は後に移転し現在地へ移り、ここは汐留貨物駅として利用され、1986(昭和61)年に廃止されました。

開業時の新橋停車場(模型)  現在は汐留シオサイトとして高層ビルが建ち並ぶ新橋停車場跡。鉄道開業時は、このような雰囲気であったと考えられています(写真:鉄道博物館にて)。

1号機関車  日本で鉄道が開業した際、最初に用意された10両の蒸気機関車のうちの1両。イギリスのバルカン・ファウンドリー社製で、新橋〜横浜の約29kmをを53分で結びました。
 1911(明治44)に九州の島原鉄道へ売却されましたが、1936(昭和11)年に交通博物館に譲渡され、現在は「さいたま市大宮区」の鉄道博物館にて、開業時の風景を再現したコーナーと共に保存されています。

3号機関車  1号機関車と同じく、鉄道開業時に用意された10両の蒸気機関車のうちの1両。1909年より、形式が110と改めており、現在もそのナンバープレートがついています。現在は青梅鉄道公園にて保存。

開業時の3等(下等)客車(復元)
客車は上等、中等、下等に分けられていました。また当時の客車はこのような小さな客車でした。
 ちなみに先の話になりますが、鉄道建設に当たっては政府の費用だけでは全国に鉄道網を張り巡らせることはできず、有力者たちによって設立された会社によって、全国各地で私鉄の建設が推進されます。特に大きな会社だったのが日本鉄道で、現在の東北本線や高崎線、常磐線をはじめ、JR東日本の路線の多くを建設しています。

 結局、1906(明治39)年に公布された鉄道国有法によって、主要都市間を結ぶ私鉄は国有化され、戦後の国鉄、現在のJRの路線網につながっていきます。私鉄も残りましたが、原則として地域輸送に限定されています。

○官営富岡製糸場の操業開始〜1872(明治5)年10月〜


 欧米が強くなったのは工業化を推進したからで、日本も追いつかなければ!、というわけで、その模範となる工場が現在の群馬県富岡市に誕生しました。フランス人技師、ブリューナの指導の下に誕生した、この官営富岡製糸場は、フランス式の小枠総繰り式の機械を導入し、全国各地から募集された士族や豪農の娘たち、約210名が工女として技術を習得し、全国に製糸技術を伝えていきました。



 工場は現在も多数の建物が残り、総煉瓦造の立派な姿を現在も見ることができます。

○国立銀行条例と銀行の誕生〜1872(明治5)年11月〜



第一国立銀行  建物は1872(明治5)年に東京の兜町に建設された三井組の本拠地。翌年に徳川慶喜の重臣であった渋沢栄一らが出資して設立した第一国立銀行の社屋となります。御覧のように、伝統的な日本建築をベースとしながら、塔屋や半円アーチの窓など、西洋的な雰囲気を取り入れた擬洋風建築です。

 ちなみに第一国立銀行は、第一銀行などを経て、戦後の1971(昭和46)年に勧業銀行と合併して第一勧業銀行に。そして2002(平成14)年に富士銀行、日本興業銀行と合併して「みずほ銀行」となっています。

 また、設計と施工を担当した清水喜助(2代目)は、横浜の外国人居留地で西洋建築を学び、これ以後は各地で洋風建築の設計と建築を手がけるようになります。ちなみに彼の会社が、現在の清水建設です。
 さて、ここで初めて「銀行」という言葉が出てきました。日本において銀行が誕生したのは、1872(明治5)年11月に定された国立銀行条例によるもので、上写真の第一国立銀行が第1号。ちなみに、国立銀行と書くと国が設立したように見えますが、あくまで「国の条例に基づいて設立される」という意味で、民間の株式会社です。

 国立銀行条例は、安定した紙幣を流通させるため、太政官札や民部省札、さらには京都府や奈良県が独自に発行していた紙幣など、明治維新時から資金確保のために乱発された、様々な政府紙幣を整理し、全国で使える統一的な紙幣を発行することを目的とします。

 政府紙幣は金貨や銀貨などの本位貨幣と交換のできない不換紙幣(ふかんしへい)と呼ばれる種類のもので、価値を担保する基準がないため、政府に権威や信用がないと、紙くずになってしまう可能性があり、価値が簡単に下落したり、流通しにくくなるなど、デメリットも大きい。

 日本の場合、最初は戊辰戦争時の太政官札を発行し、西南戦争時には明治通宝が発行されています。

 一方、国立銀行条例は、アメリカの南北戦争後に様々な紙幣が誕生し、これを整理するために作られたアメリカのナショナルバンク制度がモデルで、伊藤博文と渋沢栄一が中心となって、制度を作りました。これにより1879年までに153もの国立銀行が設立され、国立銀行が国立銀行券という紙幣を発行します。

 ところが、1877(明治10)年に起こった西南戦争、すなわち西郷隆盛の反乱により戦費が必要になった政府は、大量の政府紙幣、先ほど紹介した明治通宝を発行します。さらに、国立銀行が出来すぎて、各銀行が発行する国立銀行券が大量に出回り、紙幣の価値が下がってしまい、インフレに。

 今度はインフレを収めようと経済政策を行うと、デフレとなり、さらに不況に。こうして、事態の抜本的な対策として、1882(明治15)年に日本銀行条例が制定され、現在の日本銀行が設立。銀行券の発行は、日本銀行に限定することにし、ここで日本銀行券という紙幣を発行することにします。

 国立銀行は営業年限満20年の間に発行紙幣を回収し、普通銀行に業務を転換。そして、多くは合併等を経て全然別の名称に変わっていますが、今でも岐阜市の十六銀行のように、名前に名残をとどめているところもあります。

○太陽暦の採用〜1872(明治5)年12月〜

 従来の日本は、天保暦という太陰暦の一種を使用していましたが、欧米との交流が増えるにつれ、採用している暦が異なることが不便になってきました。そこで、明治政府は欧米に合わせて太陽暦を採用することを決定。1872(明治5)年に12月3日は、1872(明治6)年1月1日となりました。

 突然の変更に、当然のことながら庶民は大混乱し、慣れるのに時間がかかります。また現在でも、伝統行事を旧暦の日程に合わせて行っている例もあります。

○徴兵令〜1873(明治6)年1月〜

 え〜い、まだ書くべき内容があるとは・・・! もうちょっとお付き合いください。
 しかし、ここまで矢継ぎ早に色々な制度を作り上げていくとは、当時の人たちの仕事量はなんと凄まじいことか。

 さて政府は、これまでの士族(武士)による軍事力に代わって、国民全体に兵役の負担を負わせた近代軍隊を作ろうとします。そこで徴兵令を出し、満20歳に達した成人男子は、3年間に渡る兵役義務を課すことにします。ちなみに、代人料270円を納めれば、兵役は回避できるなど、免除規定も多く存在。

 なんと1876年の兵役免除率は全国平均で82パーセント!
 その後、少しずつ免除の条件は厳しくなっていきます。金で解決した人も多いことでしょう。

 そうすると、なかなか免除規定に当たらない農家には何とも不公平。あげくに働き手をとられるため、死活問題です。このため、全国各地で一揆が起こり、政府はその鎮圧に忙殺されることになりました。

○6鎮台の設置〜1873(明治6)年1月〜

 徴兵令とほぼ同時に、陸軍の軍隊組織も改められます。

 すでに1871(明治4)年4月には、全国に4鎮台が設置されていましたが、全国を6つの軍管区にわけ、それぞれ鎮台を1つずつ、さらに連隊司令部を複数設置します。具体的には、下記のとおり。

 第一軍管区・東京鎮台(東京、佐倉、新潟)
 第二軍管区・仙台鎮台(仙台、青森)
 第三軍管区・名古屋鎮台(名古屋、金沢)
 第四軍管区・大阪鎮台(大阪、大津、姫路)
 第五軍管区・広島鎮台(広島、丸亀)
 第六軍管区・熊本鎮台(熊本、小倉)

 (  )内は連隊司令部を置いた場所で、順番に歩兵第1連隊(東京)、歩兵第2連隊(佐倉)・・・ 歩兵第14連隊(小倉)が配属されました。この制度は1888(明治21)年に改組され、軍管区は師管区、鎮台は師団と改められています。

○キリシタン禁制の高札を撤去〜1873(明治6)年2月〜

 政府の宗教政策は当初、江戸幕府に引き続いてキリスト教を禁止し、弾圧する姿勢でしたが、これでは欧米各国からの評判は非常に悪い。そこでついに、キリスト教の布教を黙認することとし、キリシタン禁制の高札を撤去させると共に、アメリカなどの公使に、この旨を通達しました。

○地租改正条例の発布〜1873(明治6)年7月〜

 少し前に地券の交付というのを紹介しましたが、いよいよ政府の本格的な狙いである、安定した租税収入を得るための政策が出されます。それが地租改正というものでした。

 この地租改正では、1年の収穫量を基礎に土地の値段、すなわち地価を決定。この地価の3%を地租として、お金で税金を納めることになります。しかし、この3%という税率の決定は江戸時代と変わらぬ重い税負担となり、しかも米の価格が下落したため、税金を納めるのが困難でした。

 しかも徴兵令に、学校も造れと政府が言うものですから、農民一揆が続出。やっぱり、政府はその鎮圧に忙殺され、1877(明治10)年には税率は2.5%に引き下げられました。

 ともあれ、ここに税制改革はなり、近代国家としての租税システムの導入を実現したものです。

 さて、以上のように一気に様々な政策が打ち出されていく一方、次第に留守政府内での対立も起こるようになります。また、岩倉使節団でも大久保利通と木戸孝允がケンカするなど、大物同士で激しくぶつかり合うようになります。こうした結果がどうなったのかは、次回御紹介しましょう。

参考文献
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
マンガ日本の歴史43 (石ノ森章太郎画 中公文庫)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)
幕末・維新 知れば知るほど(勝部真長 監修 実業之日本社)
アジア歴史資料センター(アジ歴) インターネット特別展 公文書に見る岩倉使節団
http://www.jacar.go.jp/iwakura/index3.html
佐賀地方検察庁 江藤新平、大木喬任
http://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/saga/oshirase/16211200712190/8-1.html

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