第74回 桂園時代

▼第二次桂太郎内閣(第13代総理大臣) 
  1908(明治41)年7月〜1911(明治44)年7月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第二次桂内閣を参照のこと。

○主な政策

・大逆事件の摘発(1910年6月)
・第2回日露協約(1910年7月)
・韓国併合(1910年8月)
・関税自主権の回復(1911年2月〜)
・工場法の公布(1911年3月)

○総辞職の理由

 立憲政友会との協調関係のため、政権を委譲

○解説

 再び桂首相の登場。ついに韓国を併合して日本領とし、そして幕末以来の悲願であった関税自主権の回復を実現させています。歴史的な転換点ですが、果たして韓国併合は日本にとって良かったのか。

○大逆事件

 1910(明治43)年6月、明治天皇の暗殺を企てたとして、幸徳秋水(1871〜1911年)、管野スガら、多数の社会主義者・無政府主義者が逮捕されました。大逆とは、当時の刑法73条にある「天皇など皇族に対する危害や危害を企てたら死刑」というもので、26名が起訴。

 裁判では1人の証人も出廷させず、僅か2週間の審理で、24人に死刑判決(残り2人は懲役刑)が出ました。最終的には恩赦もあり、死刑になったのは幸徳、管野ら12人。また、無期懲役に減刑された12人のうち5人が獄死しました。これによって日本における社会主義運動は大きな打撃を受け、しばらく活動が低迷することになりました。

 ・・・で、いきなり社会主義って言葉が出たけど、これって何よ?
 ということで少々書いておきますと、特にイギリスの産業革命以降、資本家(経営者)と労働者の格差が拡大する中で、自由な経済活動(商品の売買とか生産手段の私的所有とか)を認める資本主義に対して、社会全体で生産手段を管理して、計画的に生産をして、みんなで分配すればいいじゃないか、という考え方に立つのが社会主義です。
 ・・・まあ、大雑把に書くとですけど。

 さらに進んで、私有財産も廃止して、財産や富を共有しようという考え方が共産主義(・・・ですよね?)。まあ、人によって色々な定義づけがあると思いますので、だいたいのイメージで捉えてください。だいたい、今の中国が共産主義国家ならば、共産主義って何よ?状態ですし。

 さて、この社会主義と共産主義はドイツのカール・マルクス(1813〜83年)と、その盟友のフリードリヒ・エンゲルス(1820〜95年)によって、著書「資本論」に代表される理論の大成と、社会主義運動の開始が行われ、世界中に大きな影響を及ぼし、後にロシアで革命運動を起きて、ソヴィエト連邦が誕生します。

 ところが、この思想は既存の社会システムと真っ向から対立するものですから、危険思想として取り扱いには厳重注意。日本では天皇制の否定にも繋がりますので、取り締まりが行われたのでした。

○伊藤博文の暗殺と韓国併合

 1909(明治42)年10月26日、枢密院議長に復帰していた伊藤博文が、ロシアの大蔵大臣ココフツェフと会談するために鉄道でハルピン駅に着いて列車を降りたところ、韓国人の独立運動家である安重根(アン・チュングン 1879〜1910年)によって射殺されました。

 さらに12月22日には、韓国首相の李完用も襲撃されて重傷を負います。
 ここに至りて、ついに桂首相は韓国の併合を決定。陸軍大臣の寺内正毅(てらうちまさたけ 1852〜1919年)を韓国統監に任命し、寺内統監と李完用首相との間で日韓条約を締結。韓国は国家が消滅し、日本領の朝鮮として、新たに朝鮮総督府が置かれて、その施政下に入りました。初代朝鮮総督は、そのまま寺内正毅が就任しました。

○関税自主権の回復

 幕末に結んだ欧米各国との不平等条約のうち、最後まで障害となったのが関税自主権。
 ・・・今更ながら関税って何?という方のために、説明しておきますと、これは輸入する品物にかける税金のこと。例えば日本と海外の農産物で価格が全然違う場合、そのままの状態で日本で販売されてしまうと、国内の農業は大打撃を受けてしまいます。また、関税をかけることで税収を増やす狙いもあります。

 この権利を日本は幕末からずっと欧米との間で自由に行使できなかったのですが、日露戦争を経て、ついに小村寿太郎外相は新しい条約を欧米各国と結ぶことに成功し、その権利の回復を実現しました。

○工場法の制定

 さて、社会主義運動を取り締まる一方で、実際に過酷な条件で労働者(それも子供)が働かされている状況が多発しており、その対策が求められていました。そこで第二次桂内閣は、
 1.16歳未満の年少者および女子の1日12時間を限度とする(就業時間の制限と深夜労働の禁止)
 2.12歳未満の児童の雇用禁止、
 を主な内容とした、工場法を制定します。しかし、15人未満の工場には適用されないなど、問題の根本的解決には遠い法律でした。しかも、資本家たちによる反対で施行(実際に法律を適用すること)は延期され、1916(大正5)年にようやく施行。

 そして戦後の1947(昭和22)年になって労働基準法が制定され、ようやく労働条件に対するルールが作られました。

▼第二次西園寺公望内閣(第14代総理大臣) 
  1911(明治44)年8月〜1912(大正元)年12月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第二次西園寺内閣を参照のこと。

○主な政策

・特になし

○総辞職の理由

 二個師団増設問題での陸相辞職のため

○解説

 再び西園寺首相の登場。行財政改革に取り組もうとしますが、陸軍は「今こそ軍備の増強だ!」と二個師団の増設を求めます。これに西園寺首相が拒否をしたところ、上原勇作陸軍大臣(1856〜1933年)が辞表を提出。さらに、陸軍は後任の陸軍大臣を出しませんでした。

 以前にも見ましたが、かつて山縣有朋によって軍部大臣現役武官制が制定され、要するに陸軍大臣と海軍大臣は、現役の軍人から出すことになっていました。そうすると軍から人を出してもらえないと、内閣が組織できなくなってしまうのです。西園寺首相は元老の山縣有朋に協力を求めますが、これを拒否され、西園寺内閣は総辞職しました。

○明治時代の終わり&オリンピック参加の話

 また、ついに明治天皇が崩御され、激動の明治時代が終わりを迎えます。後を追って乃木希典夫妻が殉死し、社会に大きな衝撃を与えました。それから、1912年6月にスウェーデンのストックホルムで開催された第5回オリンピックに、日本人が初めて参加。陸上短距離に三島弥彦(1886〜1954年)、マラソンに金栗四三(1891〜1983年)が参加しています。

 結果は・・・でしたが、金栗四三はその後も第7回アントワープ大会、第8回パリ大会に参加。さらに、箱根駅伝を企画するなど、日本のマラソンの発展に大きく貢献し、「マラソンの父」と呼ばれました。

○中国で辛亥革命が起きる

 ところで第二次西園寺内閣のとき、中国で300年続いた清王朝がついに崩壊します。
 その最後の引き金を引いたのは、孫文(1866〜1925年)でした。清の打倒と民主主義国家の樹立を目指し、日本にも亡命時代に政治家の犬養毅らと交流を持ち、また東京で中国同盟会を結成し、反清活動を本格化させます。そんな中、1911年5月に清は鉄道国有令を出します。それだけなら、日本と同じなのですが、なんと清は国有化した鉄道を、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの4カ国連合から借金する担保にしようという計画でした。

 これにとうとう民衆の堪忍袋の尾が切れ、特に中国の華南地方や四川で反対運動や武装蜂起が発生。孫文はアメリカから急ぎ帰国して革命を指導し、12月29日に臨時大総統に選出されます。そして翌年1月1日には、南京にて中華民国臨時政府が宣言されました。

 しかし、この段階では北京の清王朝は依然として健在で、その打倒のためには引き続き戦争に勝利し、北上しなければなりませんでした。ですが孫文らの革命は、大地主などから警戒され、十分な人的資源や軍事力が得られないままでした。このままでは、いずれ清によって叩きのめされてしまう可能性があります。

 そこで目をつけたのが、清の総理大臣になっていた袁世凱(えんせいがい 1859〜1916年)でした。強力な軍事力を持ち、まさに清の命運を握る彼を、なんと清の宣統帝(溥儀)の退位と引き換えに、孫文が袁に臨時大総統の地位を譲るという、妥協を行ったのです。そして中国同盟会は、国民党と組織を変えます。そして選挙で第1党となり、1913年4月には中国で初めての国会が開かれますが、袁世凱は軍事力と欧米列強の支持を背景に、国民党の弾圧を始めます。

 孫文は華南地方で武装蜂起しますが、袁世凱はこれを鎮圧し、正式に中華民国大総統に就任にすると、国民党に解散命令を出します。そして国会を停止し、独裁国家を樹立したのでした。そして1916年に袁世凱が亡くなると、中国は軍閥による分裂状態に陥りました。

▼第三次桂太郎内閣(第15代総理大臣) 
  1912(大正元)年12月〜1913(大正2)年2月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第三次桂内閣を参照のこと。

○主な政策

・特になし

○総辞職の理由

 憲政擁護運動(第一次護憲運動)で総辞職

○解説

 実質的に第二次西園寺内閣を葬り去った山縣有朋ですが、次の首相候補に誰もなりたがらないという状態になってしまいました。やむを得ず山縣は再び桂太郎を首相にします。

 しかし、この西園寺内閣を山縣らが潰したのは国民に相当な不評を買いました。そして長州出身の桂太郎が、また首相になるというのは「いつまで長州は政権を独占するのか」と反対に遭い、憲政擁護運動(第一次護憲運動)が勃発。、立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らを中心に、「憲政擁護・閥族打破」をかかげて批判を行います。

 これに対し桂首相は議会の停止、新党の結成などで対抗しますが、ますます国民の反発は強まり、1913(大正2)年2月に数万人の国民が帝国国会議事堂を囲む事態に陥ります。桂首相は62日間という短命で総辞職しました。

日本20世紀館 (小学館)
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詳説 日本史 (山川出版社)
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コトバンク(朝日新聞社) http://kotobank.jp/
玉名市役所ホームページ 金栗四三 

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