第76回 明治・大正時代に文化や技術で活躍した人々

○はじめに

 既に本編は大正時代に突入してしまい、逆行するようで恐縮ではありますが、今回は本編では紹介しきれない、明治・大正時代の文化面や技術面などで活躍した様々な人たちを、ざっと紹介して行きたいと思います。

1.お雇い外国人

 幕末、そして明治維新で西洋文化と本格的に向き合った日本は、多くの優秀な若者をヨーロッパに留学させ、人材育成に務めますが、その一方で即戦力として主に西洋から多くの専門家を招いて雇用し、技術的指導や、日本国内での人材育成をしてもらいました。お上(おかみ=政府)が雇った外国人、ということでお雇い外国人と総称されます。

 なかなかお給料が高額だったこともあり、日本人の人材が育ってくると次第に減っていきましたが、ラフカディオ=ハーンや、ジョサイア・コンドルのように、日本文化を研究するために個人的に日本に残り、生涯を終えた人たちもいます。

1.ウイリアム・スミス・クラーク (アメリカ) 1826〜86年/滞日期間:1876〜77年
 (北海道)開拓使の招きで、マサチューセッツ農科大学の学長を1年間休暇して、札幌農学校教頭に就任。実質的に農学校を取り仕切り、授業は全て英語で実施しました。

2.ラフカディオ・ハーン (イギリス) 1850〜1904年/滞日期間:1890〜1904年
 島根県松江中学校の英語教師として来日。松江の町並みに魅了され、さらに旧松江藩士の娘の小泉セツと結婚し、日本文化と本格的に出会います。さらに熊本の旧制第五高等学校で教鞭を取り、東京帝国大学で英文学講師を務めるかたわら、日本文化に関する研究成果を次々と発表。また、日本に帰化して小泉八雲と名乗りました。

 晩年は早稲田大学文学部で、日本の怪談を再話した短編集「怪談」を刊行。日本人にとっても、昔の日本の民俗を調べる上で重要な著作を数々残しています。

3.エドワード・S・モース (アメリカ) 1835〜1925年/滞日期間:1877〜79年など
 動物学者で研究のために私費で日本に来日しましたが、文部省より東京大学の動物学・生理学教授就任を依頼され、お雇い外国人に。ダーウィンの進化論を体系的に日本で紹介します。また、江ノ島に臨海生物研究所を設立しました。

 汽車に乗っている途中で大森貝塚を発見し、これを発掘したことが日本における考古学研究の幕を開くことにもなりました。動物学の傍ら、モース自身も考古学研究を発表したり、日本の陶器にも関心を持ち、数多くの収集を行っています。

4.ギュスターヴ・エミール・ボアソナード (フランス) 1825〜1910年/滞日期間:1873〜95年
 (旧)刑法や(旧)民法などを起草。現在の民法も、実際にはボアソナードの起草に由来することが再発見されています。

5.ヘルマン・ロエスエル (ドイツ) 1834〜1894年/滞日期間:1878〜93年
 伊藤博文や井上毅と共に大日本帝国憲法の起草に深く関わり、様々な助言を行いました。

6.アルバート・モッセ (ドイツ) 1846〜1925年/滞日期間:1886〜90年
 ロエスエルと共に大日本帝国憲法の起草に関わったほか、市制・町村制、府県制と郡制の制定に大きく貢献。

7.ジョサイア・コンドル (イギリス) 1852〜1920年/滞日期間:1877〜1920年
 滞日期間をご覧のとおり、人生の大半を日本に費やした建築家。夫人も日本人です。
 鹿鳴館や宮内省など、政府の西洋建築を手がけ、さらに工部大学校教師に就任し、辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊など明治期を代表する近代建築家を育てます。1888(明治21)年には官職を辞して建築事務所を設立。財閥のビルや邸宅を手がけ、ただの西洋建築の移入ではなく、時には純和式の部屋も設計してしまうなど、日本にあった建築を心がけました。

 日本画家の河鍋暁斎(かわなべきょうさい 1831〜91年)に師事するなど、日本文化にも造詣の深い人物でした。

 では、コンドルの作品の一部をご紹介〜。基本的に東京に集中していますが、この中で旧諸戸清六邸のみ三重県桑名市にあります。



鹿鳴館(1883年築)

三菱一号館(1894年築) *2009年復元

岩崎久弥茅町本邸(1896年築) 【国指定重要文化財】

綱町三井倶楽部(1913年築)

旧諸戸清六邸(1913年築) 【国指定重要文化財】

古河虎之助邸(1917年築)
8.エドモント・モレル(イギリス) 1840〜1871年/滞日期間:1870〜71年
 鉄道技師として来日し、建築師長として日本初の鉄道である新橋〜横浜間の開業を指導。

9.アーネスト・フランシスコ・フェノロサ (アメリカ) 1853〜1908年/滞日期間:1878〜90年
 東京大学で政治学や哲学を教える一方、日本美術に感動して岡倉天心(1863〜1931年)とともに鑑画会、さらに東京美術学校(現在の東京藝術大学)を創設。狩野芳崖、橋本雅邦らを支援したほか、東京美術学校からは横山大観下村観山などを輩出。明治維新後に衰退していた日本美術の再興に尽力しました。

10.エルヴィン・フォン・ベルツ (ドイツ) 1849〜1913年/滞日期間:1876〜1905年
 東京医学校(東大医学部の前身)で、生理学、内科学、病理学、産婦人科学、精神医学などを講義。温泉の効用の研究も行いました。また日本人を妻とし、息子のトクが編集した「ベルツの日記」は明治時代の日本の様子を知る第一級の資料。

 大日本帝国憲法の発布に熱狂する国民について、「お祭り騒ぎだが、誰もその内容を知らない」と観察しているのは有名です。

2.自然科学

 明治時代になると、日本はこれまで断片的に接してきた蘭学から発展し、いよいよ本格的に西洋医学をはじめとする科学に出会います。そして、次第に世界的に活躍する研究者が多数登場しました。

1.北里柴三郎(きたざとしばさぶろう 1852〜1931年)
 ドイツの細菌学者ロベルト・コッホに師事。1890(明治23)年に破傷風という筋肉が痙攣し、神経系がおかされる病気が、破傷風菌の作る毒素が原因であることを発見し、翌年には破傷風を治療する新しい血清療法を確立。さらに1894(明治27)年にはペスト菌を発見するなど、世界的な業績を打ち立てました。

 初代伝染病研究所(現・東大医科学研究所)所長、日本医師会創立者、初代慶應義塾大学医学部長、初代北里研究所所長などを務めています。

2.志賀潔(しがきよし 1870〜1957年)
 北里柴三郎が所長をつとめる伝染病研究所、北里研究所で細菌学と免疫学の研究に従事。1897(明治30)年に赤痢菌を発見しました。のち、朝鮮総督府医院長、京城帝国大学総長などを歴任。
*赤痢菌・・・ハエなどによって飲食物につき、それを食べた人間に消化器系の急性感染症である赤痢を起こします。

3.高峰譲吉(たかみねじょうきち 1854〜1922年)
 日本初の人造肥料製造を開始。消化促進作用をもつ酵素複合体タカジアスターゼの抽出に成功し、アメリカで胃腸薬として発売したほか、交感神経系を興奮させるアドレナリンを純粋な化合物として分離し、薬の用途を劇的に広げました(例えば、喘息の発作時に気管支を拡張させたり、ショック時の心臓に刺激を与えたりする)。

4.秦佐八郎(はたさはちろう 1873〜1938年)
 ドイツの細菌学者エールリヒと共同で、梅毒の化学療法剤サルバルサンを創製(ただし、副作用の割に効果が良くないため、後に効果が証明された、抗生物質のペニシリンが現在は梅毒の治療に用いられています)。また、北里研究所の設立にも参加。

5.鈴木梅太郎(すずきうめたろう 1874〜1943年)
 脚気(かっけ)に有効なビタミンB1を米ぬかから抽出することに成功。のちオリザニンと名づけました。脚気はビタミンB1不足か来る病気で、神経や筋肉系、循環器系、消化器系に障害が現れ、最悪の場合は死に至ります。現在でも偏った食生活をしているとかかる場合がありますので、豚肉、乳製品、ジャガイモ、卵、胚芽米、玄米、ムギなどから摂取しましょう。

6.野口英世(のぐちひでよ 1876〜1928年)
 北里柴三郎の下で細菌学を研究。のちアメリカにわたり、1911年に梅毒スペロヘータの純粋培養に成功。1913年には進行麻痺と脊髄(せきずい)ろうが梅毒スピロヘータに起因することを明らかにして、国際的な名声を得ます。

 その後、黄熱病という、高熱と黄疸(おうだん=皮膚や粘膜が黄色くなった状態)を主症状とするウイルス性出血熱を研究しますが、1928年にアフリカのアクラ(現ガーナの首都)にて黄熱病に感染して死去しました。



野口英世生家
 福島県猪苗代町にある野口英世の生家。野口英世(幼名は清作)は貧しい農家の出身で、3歳の時に左手に大やけどを負い、手が不自由になってしまいます。

旧会陽医院
 そこで野口英世は、現在の福島県会津若松市で1890(明治23)年から会陽医院を開業していた渡辺鼎(かなえ)の執刀で手術を受け、不自由だった左手が回復しました。ちなみに渡辺先生はアメリカで最先端の医療を学び、帰国した人物です。

 この医療に感動した野口英世は、医学の路を志し、翌年に猪苗代高等小学校を卒業すると、この会陽医院に書生として入門。2階で深夜まで勉学に励んだそうです。そして1896(明治29)年の夏に、東京へ上京しました。なお、この建物は1894(明治17)年に建てられたものです。
7.長岡半太郎(ながおかはんたろう 1865〜1950年)
 土製の環の研究に着想を得て、1903年に原子模型の理論を発表。

8.本田光太郎(ほんだこうたろう 1870〜1954年)
 長岡半太郎に師事したのち、ドイツで金属および合金の磁性を研究。帰国後は東北帝国大学の教授となり、1917年に高木弘と共同で、当時最強の永久磁石「KS磁石鋼」を発明。その後も多くの研究者を受け入れて、金属の先進的な研究と後進の指導に務めました。

9.大森房吉(おおもりふさきち 1868〜1923年)
 1901年に大森式地震計を開発。初期微動と震源までの距離の関係を表した大森公式などを発表。

10.今村明恒(いまむらあきつね 1870〜1948年)
 1905年、統計によって関東で地震襲来の危険性と震災予防を提唱し、これに反対する大森房吉と激しく論争。実際に1923年に関東大震災が起こると、大森房吉は責任を痛感しながら亡くなったとか。そして今村が大森の後任として東京帝国大学の教授となり、地震の研究を行い、私費を投じて紀伊半島、室戸岬付近の7カ所に観測所を設けるなど精力的に活動。得られた研究成果は、現在の地震予知計画の基礎となっています。

11.木村栄(きむらひさし 1870〜1943年)
 1902年、地球の緯度変化を表す公式に、X項、Y項のほかに、1年周期で変動するZ項(木村項)を提唱して世界に認められます。国際天文学連合、国際測地学・地球物理学連合の緯度変化委員会の委員長等を務めました。

12.牧野富太郎(まきのとみたろう 1862〜1957年)
 日本の植物分類学の基礎を作った人物。1000種におよぶ日本の植物の新種を記載、命名したほか、数多くの著書を著して、その紹介に務めました。また、絵が得意だったことから標本図も非常に正確で、今でも実用に供されています。

13.八木秀次(やぎひでつぐ 1886〜1976年)
 宇田新太郎と共に、テレビの受信等に使われる八木・宇多アンテナを1924年に発明。第二次世界大戦中に、イギリス軍のレーダーにこの八木・宇田アンテナが使われており、ようやく日本で注目。また自らの研究分野に止まらず、大阪帝大時代には湯川秀樹の研究を支援し、日本人初のノーベル物理学賞受賞となる中間子論を書かせるなど、数多くの人材の発掘と育成に努め、戦後は右派社会党や日本社会党に所属し参議院議員を務めるなど、政治家に転身しています。

3.文学

 文学面では、明治時代初期までは江戸時代と同様に戯作文学(げさくぶんがく)が読まれ、特に仮名垣魯文(1829〜94年)が著名です。また、福沢諭吉や中江兆民、植木枝盛などが政治的、思想的な啓蒙活動を一般に行い、自由民権運動が盛んになる中で、政治小説も盛んに登場するようになりました。

 こうした風潮に対し、「勧善懲悪(=単純に言うと悪人を懲らしめる)の道徳的な小説や、政治を扱うのではなく、もっと人間の心の内面を写実的に書いた小説を書こべし」と、坪内逍遥(つぼうちしょうよう 1859〜1935年)が「小説神髄」という評論で主張しました。

 また二葉亭四迷(ふたばていしめい 1864〜1909年)も坪内逍遥の勧めで写実主義の文学理論を「小説総論」にまとめ、さらに昔ながらの文体から、話し言葉で書物を著そうという言文一致体の動きを取り入れ、小説「浮雲」などを表し、次第に小説の世界でも言文一致体が主流になっていきます。

 さらに明治中期には尾崎紅葉(おざきこうよう 1867〜1903年)、山田美妙(やまだびみょう 1868〜1910年)らが結成した硯友社(けんゆうしゃ)が機関紙「我楽多(がらくた)文庫」を発行。初期の頃は井原西鶴や近松門左衛門などの伝統的な古典を見直し、戯作調の作品を発表。後に、坪内逍遥の影響を受けて写実主義に基づく作品や、言文一致体の作品を発表し、いずれも高い評価を得ました。

 また、尾崎紅葉と「幸露」と並び証されたのが、幸田露伴(こうだろはん 1867〜1947年)。小説神髄に刺激を受けて小説家となり、塔建築に情熱をもやす棟梁(とうりょう)たちの心意気をえがいた小説「五重塔」を発表するなど、独特の視点で小説や随筆の題材を設定。一世を風靡しました。

 ちなみに次女の幸田文(こうだあや)も小説家&随筆家、さらに幸田文の娘である青木玉は随筆家、おまけに青木玉の娘である青木奈緒も随筆家であり、なんと4代にわたって文芸界で高い評価を得ています。



幸田露伴住宅「蝸牛庵」
 自らの家を「カタツムリの家」を意味する、蝸牛庵と呼んだ幸田露伴。幾度も住まいを変えており、この家は現在の東京都墨田区東向島にて、1897(明治30)年から約10年住みました。ちなみに、この家自体は1868(明治元)年頃に建てられたものです。
 それから、夏目漱石(なつめそうせき 1867〜1916年)、森鴎外(もりおうがい 1862〜1922年)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ 1892〜1927年)らが登場。未だに多くの人に愛される作品を多数出しています。また、正岡子規(まさおかしき 1867〜1902年)や、高浜虚子(たかはまきょし 1874〜1959年)は俳句に新しい風を吹き込み、現在に至るまで人々に愛される文学として大成しました。

 ひたすら人物名と作品名を並べても面白くないですし、作品の1つ1つを解説するのも大変な作業ですので、申し訳ないですが文学については、この程度とさせていただきます。



森鴎外生家
 現在の島根県津和野町で生まれた森鴎外。東京大学医学部を卒業し、軍医となります。1884年にドイツに留学し、この留学体験をもとに、太田豊太郎とエリスとの悲恋を雅文体でえがいた小説「舞姫」は特に有名です。また、日清戦争、日露戦争に軍医として従軍しています。

森鴎外・夏目漱石住宅
 1887(明治20)年頃に、現在の東京都文京区千駄木建てられたこの家は、 1890(明治23)年に森鴎外が借家し、一年余りを過ごしました。さらに1903(明治36)年から1906(明治39)年までは夏目漱石が借りて住んでいました。当時の一般的な雰囲気の都市住宅ですが、2人の文豪が住んだのは凄い。

森鴎外・夏目漱石住宅
 ここで夏目漱石が執筆したのが、「吾輩は猫である」。「吾輩」という猫が人間社会をユーモアや風刺を交えながら批評していくと言うスタイルが斬新で、作家としての夏目漱石の名前を大きく高めることになりました。なおこの家は、愛知県犬山市の明治村に移築されています。

4.美術

 1876(明治9)年、政府は工部美術学校を開設して欧米風の美術教育を開始します。工部省の管轄で、美術と言えども殖産興業の一環と位置づけられていました。また、美術の教員はイタリア公使からの強い働きがけで、全員イタリア人というものでした。しかし、西南戦争後の財政難と、日本美術が再評価される中で1883(明治16)年に早くも閉校。

 1887(明治20)年に政府は東京美術学校を設立しますが、先ほど紹介したフェノロサ、岡倉天心らの方針で当初は西洋画を排除しました。1896年には黒田清輝(くろだせいき 1866〜1924年)、藤島武二ら指導の西洋画科、横山大観(よこやまたいかん 1868〜1958年)ら指導の図案科が新設され、西洋画も日本画も指導するようになりましたが、岡倉らは学校を去り、日本美術院を設立しました。

5.音楽

 西洋音楽の受容も進みます。当初は軍隊用の音楽として取り入れられましたが、東京師範学校長である伊沢修二(1851〜1917年)の働きがけで、西洋音楽を模した唱歌を小学校教育に採用。また、1887(明治20)年に東京音楽学校が設立され、いよいよ本格的に西洋音楽の教育が始まります。そして、「荒城の月」などを作曲することになる滝廉太郎(たき れんたろう1879〜1903年)などを輩出しました。

 ちなみに戦後の1949(昭和24)年、東京美術学校と東京音楽学校が合併して、東京芸術大学となっています。



東京音楽学校奏楽堂
 上野公園に残る東京音楽学校の奏楽堂。要するにコンサートホールのことで、1890(明治23)年に建設。1928(昭和3)年に紀州徳川家の徳川頼貞が寄贈したパイプオルガンは必見。

6.建築

 この時代の建築家としては、やはりコンドルの教えを受けた辰野金吾(たつのきんご 1854〜1919年)が特に有名で、今でも親しまれる建築が多いですね。以前に紹介した東京駅以外には、こんな作品があります(共同で設計したものも含む)。



日本銀行本店(1896年築)  【国指定重要文化財】

日本銀行大阪支店(1903年築)

旧・日本銀行京都支店(現・京都文化博物館別館/1906年築)  【国指定重要文化財】

旧・第一銀行京都支店(現・みずほ銀行京都中央支店/1906年築)*レプリカ再建


南海電鉄浜寺公園駅(1907年築)  【国登録有形文化財】

大阪市中央公会堂 (1918年築)  【国指定重要文化財】 *実施設計のみ
 それから、やはりコンドルの弟子で宮廷建築などを多く手がけたのが片山東熊(かたやまとうくま 1854〜1917年)。こんな作品を手がけました。写真未撮影なので掲載していませんが、赤坂にある迎賓館は彼の最高傑作です。



奈良国立博物館(1894年築)  【国指定重要文化財】

京都国立博物館(1895年築)  【国指定重要文化財】

東京国立博物館 表慶館(1908年築)  【国指定重要文化財】
【参考文献】
日本20世紀館 (小学館)
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
新訂国語総覧 (京都書房)
エンカルタ百科事典 (マイクロソフト)
台東区役所「旧東京音楽学校奏楽堂」 http://www.taitocity.net/taito/sougakudou/

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