第78回 関東大震災

○内閣総理大臣不在の中・・・

 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の地震が関東を襲いました。当時は今のように明確な耐震基準も無く、さらに江戸時代以来の木造家屋も密集。地震で多くの建物が倒壊し、さらに昼食時ということで炊事などに由来する火災が発生。

 3日間にわたって、辺りは火の海になってしまい、死者・行方不明者の9割は火災による焼死でした。中でも、本所区(現、墨田区南半部)の陸軍被服廠(ひふくしょう)跡だった約6.6万uの空き地では、火の手に追われて避難してきた江東一帯の人々3万人以上が、さらに火に追われて焼死されたそうです。

 また、小田原や熱海など関東南部には津波も押し寄せ、これも甚大な被害を与えています。

 この結果、死者・行方不明者は10万5000人程度、住家全潰10万9000棟余、半潰10万2000棟余、焼失21万2000棟余(全半潰後の焼失を含む)という被害が出たと考えられています。また東京の被害ばかりが注目されますが、当然のことながら震源に近い神奈川県での被害も非常に大きい。東京での被害が拡大したのは火災による原因が大きく、地震による直接的な住宅への被害は神奈川県の方が甚大でした。

▼参考:株式会社 鹿島ホームページ「関東大震災の住家被害数および死者・行方不明者数」
http://www.kajima.co.jp/news/press/200509/image/6a2.jpg


帝都大震火災系統図 (江戸東京博物館蔵)
火元の位置や火の手の方向などを記した地図。被害の大きさを物語っています。

 ちなみに、従来は文部省(現、文部科学省)の震災予防調査会が1925年に出した報告に基づき、死者・行方不明者14万2807人に、全・半壊家屋25万4499戸、焼失家屋44万7218戸と考えられていましたが、死者・行方不明者の数については捜索願などの二重カウントが指摘されており、最初にご紹介した数字が最近の通説となって入ます。

 そして交通や電気、通信などのインフラも完全に崩壊。「富士山が大爆発」「東京湾に大津波」「朝鮮人が暴動」などのデマが飛び交い、市民の中には自警団を結成して、かえって無秩序になって虐殺行為に及ぶケースも。2日午後、政府は戒厳令を出して、軍隊を出動し、警戒作業に当たらせました。

 また、社会主義者に対する弾圧も行われ、無政府主義者、アナキストの大杉栄(おおすぎさかえ 1885〜1923年)、伊藤野枝夫妻と、大杉の甥で6歳の橘宗一が憲兵隊の甘粕正彦大尉らに連行されて殺害された甘粕事件や、軍によって社会主義者が殺された亀戸(かめいど)事件が発生。国家による統制が強化されました。

○ドロドロの人間関係

 ちなみに大杉栄は香川県丸亀市の出身で、東京外国語学校(現・東京外国語大学)在学中に足尾鉱毒事件に関心を持ち、社会主義運動に身を投じます。このため、東京市電値上げ反対運動、その後も新聞紙条例違反、金曜会屋上演説事件、赤旗事件などで入獄を繰り返す一方、このために幸徳秋水らが逮捕された大逆事件は、逆に免れます。

 そして労働組合至上主義、直接行動を訴えるなど、なかなかに過激な主張をする一方、私生活では堀保子と結婚しながら、婦人運動家で戦後は社会党の衆議院議員となった神近市子(かみちかいちこ 1888〜1981年)、やはり婦人運動家の伊藤野枝(いとうのえ 1895〜1923年)と不倫関係。伊藤野枝も旦那さんと子供を捨てて、大杉栄と交際を開始したという・・・。

 皆さん自由過ぎて、既存の価値観にとらわれない・・・と評価すべきなのか良く解りませんが、幸せなハーレムが出来上がるわけは無く、ドロドロすぎる四角関係は、業を煮やした神近市子が大杉栄を刺すという事件に発展。神近市子は服役し、大杉栄は妻と離婚して伊藤野枝と結婚しています。

▼第2次山本権兵衛内閣(第22代総理大臣)
  1923(大正12)年9月〜1924(大正13)年1月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第2次山本内閣を参照のこと。

○主な政策

・帝都復興院の創設

○総辞職の理由

 摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助に狙撃された虎の門事件の政治的責任を取るため

○解説

 さて、加藤友三郎首相は関東大震災発生8日前に亡くなっており、新総理の選出がまだでした。そこで震災当日は、内田康哉外務大臣が臨時首相として対応にあたり、翌日には以前にも総理大臣を務めた山本権兵衛が、再び組閣することになりました。海軍出身の山本首相は政党の基盤を持っていませんので、政友会の議員や息のかかった官僚を大臣とし、事実上の政友会内閣を組閣しました。

 そして、山本首相は9月中に首都再建のための帝都復興審議会(総裁:山本首相)と、帝都復興院(総裁:後藤新平内相総裁)を発足させ、すぐさま復興に向けて動き出します。

 12月になると東京と横浜の都市計画をさだめた特別都市計画法が公布され、入り組んだ街並みを区画整理することによって、道路と街区を整然と配置するよう改良を進めることにします。こうして、新しい街並みが東京と横浜に誕生していくことになりますが、山本内閣は翌月には退陣に追い込まれてしまいます。

 というのも12月27日に、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が帝国議会開院式にむかう乗用車に乗っていたところ、難波大助という25歳の山口県出身の青年によって狙撃されるという事件が発生したのです。難波大助は社会主義思想に影響を受け、関東大震災時のドサクサに社会主義者が弾圧されたことに憤慨し、この事件を起こしたのだとか。

 幸いにも裕仁親王には怪我はありませんでしたが、山本権兵衛内閣は総辞職し、警視総監・警視庁警務部長は懲戒免官、山口県知事は減俸、そして難波大助自身は死刑となりました。これを、事件のあった場所から虎の門事件といいます。

▼清浦奎吾内閣(第23代総理大臣)
  1924(大正13)年1月〜1924(大正13)年6月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:清浦内閣を参照のこと。

○主な政策

・特になし

○総辞職の理由

 総選挙の敗北の責任を取ったため

○解説

 続いて元老の西園寺公望の推薦によって、貴族院議員の清浦奎吾(きようらけいご 1850〜1942年)が内閣を組閣します。これは、次の衆議院議員総選挙はすべての政党から中立な首相の下で行おう、という西園寺の意思があったからといわれています。そして、清浦首相は閣僚から政党出身者を排除。貴族院議員を中心に組閣し、いわゆる超然主義の姿勢を出します。

 これに激怒したのが立憲政友会・憲政会・革新倶楽部(くらぶ)の3党で、護憲三派として手を組み、第2次護憲運動を起こして倒閣運動を展開。一方で政友会も一枚岩ではなく、床次竹二郎を中心とした149名が離党して政友本党を結成して清浦内閣を支持。この状況を見て、清浦首相は衆議院議員を解散しますが、結果は護憲三派の勝利で、政友本党などは敗北。

 わずか5ヶ月で清浦首相は辞任を表明し、内閣は短命に終わりました。

 山本内閣も清浦内閣も震災後だというのに短命。しかも、震災対策とは別の原因で辞任に追い込まれ、この時代も震災対策は二の次のような印象を受けますね・・・。

 ちなみに清浦奎吾は官僚出身で、明治初期に治罪法(現在の刑事訴訟法)の制定に関与。警視庁などに講義を行ったり、その講義録が本になって警察官に読まれるようになったことから、山縣有朋の目にとまりました。そこで明治17年に34歳の若さで、全国に警察官を統括する内務省警保局長に抜擢。以後、順調に出世コースを進み、第2次松方内閣、第2次山縣内閣、第1次桂内閣では司法大臣などを務めています。

○市営バスの運転開始


円太郎バス  1900年代に入って、急速に自動車の大衆化が始まりますが、それは同時にバスという公共交通機関を生み出すきっかけとなりました。

 1924(大正13)年1月18日、東京市電気局は市営乗合自動車、すなわち市営バスの運転を開始します。これは、関東大震災で路面電車の軌道にダメージを受けて運行が出来なくなったため、その代替として導入したもの。アメリカのフォード社に1000台ものフォード・モデルTTを発注し、車体を国内でバス用に乗せ換えて整備。この日は先行して44台が巣鴨線(東京駅〜巣鴨)、青山線(東京駅〜中渋谷)の2系統に投入されました。なんと3分間隔で運転したそうです。

 2ヵ月後の3月16日には、800台のバスが用意されて20路線148kmにまで路線を拡大。
 一気に市民の足として不動の地位を築き上げ、路面電車が復旧した後もバスを引き続き活用することが決定。これを受けて全国の都市で市営バスの運転が開始されました。

 ちなみにこの東京市のバス、かつての円太郎馬車という乗り物に形が似ていたことから、円太郎バスと呼ばれました。乗り心地は・・・悪かったそうです(笑)。雰囲気としては軽トラの荷台の上に屋根をつけ、向かいあわせで座席を無理やり取り付けたような感じ。非常に狭苦しい雰囲気ですし、振動はモロに来るでしょう。

○タクシーの話


フォードA型4ドアセダンによる「円タク」  バスの話が出たので、関連でタクシーの話も。
 東京では1912(大正元)年にタクシーが登場し、昭和初期になると東京市内は1円の均一料金で乗ることが出来る「円タク」として普及しました。当然自動車の需要は急増し、フォード社、ゼネラルモーター社は日本工場を開設。右ハンドルの日本向けモデルを大量生産しました。

 上写真のフォードA型は1927(昭和2)年〜1931(昭和6)年に全世界で500万台も製造されたベストセラーです。

▼加藤高明内閣(第24代総理大臣)
  1924(大正13)年6月〜1926(大正15)年1月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:加藤高明内閣を参照のこと。

○主な政策

・普通選挙法の公布
・治安維持法の公布
・宇垣軍縮の実施

○総辞職の理由

 加藤高明首相が病死したため。

○解説

 今度は久しぶりの政党内閣の誕生で、当初は護憲三派の立憲政友会・憲政会・革新倶楽部が手を組み、第一党の憲政会より加藤高明が組閣することになりました。後に対立が起こり、憲政会単独の内閣となります。

 そして、選挙公約であった普通選挙法を公布し、男性限定ではありますが、ついに納税要件が撤廃され、日本国籍を持ち、内地に居住する満25歳以上の男子全ての男子に選挙権が与えられました。有権者数は330万人から一気に1250万人に増加。ただし被選挙権は枢密院と貴族院の圧力で30歳以上(原案では25歳以上)となっています。また、「貧困により生活の為公私の救助を受け又は扶助を受くる者」という欠格条項が入っています。

 その一方で女性には選挙権が与えられませんでした。

 さらに立候補するにも高額の供託金制度(立候補に当たって支払っておくお金で、規定の票数が確保できない場合は返却されない制度)なども盛り込まれ、社会主義勢力や無産勢力などが台頭しないよう、手が打たれました。ちなみに供託金制度自体は現在も存在しています。選挙自体に多額の税金が投入される以上、全く当選する気もないのに立候補されたら迷惑ですからね。

 それから、共産主義者などの躍進を防ぐために、治安維持法も合わせて制定。既に1900(明治33)年に治安警察法が制定されており、これは社会運動など具体的な行為を取り締まっていましたが、今回の治安維持法では、国体の変革(例えば天皇制の否定)や、私有財産制度を否定するような思想、信条そのものを取り締まりの対象としました。

 早速、1925(大正14)年に朝鮮で朝鮮共産党に対して適用されるなど、この法律を使って社会主義、共産主義思想の取り締まりに政府は乗り出します。さらに1928(昭和3)年に結社の指導者は死刑が科せられるように改正。さらに、新興宗教への取り締まりにも適用するようになっていきました。
 

○甲子園球場誕生!

 1924(大正13)年8月1日、兵庫県西宮市に甲子園球場が完成しました。武庫川の改修工事によって廃止になった支流の川の跡地を阪神電気鉄道が買収し、そこに建てたもの。

 全国中等学校優勝野球大会(後の全国高等学校野球選手権大会、夏の甲子園)も、この年の第10回から、選抜中等学校野球大会(後の選抜高等学校野球大会、春の甲子園)もこの年の第2回から、この球場で開催されています。

○ラジオの放送開始

 1925(大正14)年3月1日、社団法人東京放送局(現在のNHK)がラジオの試験放送を東京で始めました。この日は芝浦にある高等工芸学校内の仮スタジオより放送が行われ、海軍軍楽隊のマーチの後、アナウンサーによる第一声、天気予報や前日のニュースなどが放送。7月12日からは愛宕山の新スタジオより本格放送が開始されました。
 このあと全国でも放送されるようになり、一気に茶の間のメインを占めるように。放送前には「大衆の娯楽に電波を濫用するのはもってのほか」という意見もあったそうで・・・。そんな人が現在の状況を見たら、卒倒しそうですね。

日本20世紀館 (小学館)
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
合戦の日本史(安田元久監修 主婦と生活社)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
実録首相列伝(学研 歴史群像シリーズ)

次のページ(第79回 昭和の始まりと金融恐慌)へ

前のページ(第77回 平民宰相、原敬の登場)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif