第79回 昭和の始まりと金融恐慌

▼田中義一内閣(第26代総理大臣) 
  1927(昭和2)年4月〜1929(昭和4)年7月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:田中内閣を参照のこと。

○主な政策

・金融恐慌への対応
・治安維持法の改正
・中国内戦への軍事介入(山東出兵)

○総辞職の理由

 張作霖爆殺事件の責任問題の対処で、天皇陛下が激怒したため

○解説

 憲政会の若槻内閣の後、元老の西園寺公望らの推薦によって立憲政友会の田中義一に組閣の大命が下ります。田中義一は長州藩の生まれにして、陸軍の出身。原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務めた後、高橋是清の後を継いで1925(大正14)年に立憲政友会の総裁となって政治家に転身した人物です。

 さて、大蔵大臣に高橋是清元首相を起用するなど大物を揃えたり、外務事務次官に吉田茂、内閣書記官長に鳩山一郎を起用するなど、大物と将来の大物(戦後の首相候補)も参加しているのが特徴の田中内閣。わざわざ元首相を大蔵大臣に起用したことからも解るように、金融恐慌への対処が最初の課題でした。

 一方、首相の座を取られた憲政会は政友本党と合併。浜口雄幸を総裁、若槻禮次郎を副総裁とする立憲民政党が誕生し、田中内閣に対抗しています。



総理大臣官邸(首相官邸)  田中内閣時代の1929(昭和4)年3月18日、(旧)首相官邸が完成しました。2002(平成14)年からは現在の首相官邸が使われていますが、上写真の旧首相官邸はまさに激動の昭和の中心となった建物です。

○金融恐慌への対応

 若槻内閣から政権を引き継ぐや、大蔵大臣の高橋是清はすぐさま4月22日に、3週間の金融モラトリアム(支払猶予令)の勅令を枢密院の協力で出します。これで、3週間に債務の支払いを猶予、延期させます。また、同時に4月22日、4月23日の2日間に全国の民間銀行を一斉休業させます。

 さらに取り付け騒ぎは「現金が銀行に無い!」という心理的パニックが大きいことを考慮し、大蔵省で急ピッチでお札の増刷を決定。印刷時間短縮のため、片面だけ印刷し裏が白い急造の200円札を続々と発行し、銀行に大急ぎで貸し出します。そして、店頭に現金を積んでもらい、「ほら、現金あるよ!」とPR。そして500円以上のモラトリアム(支払猶予)をした上で顧客対応を開始。

 3週間のモラトリアム終了後も大きな混乱は無く、金融恐慌は収束しました。

 この金融恐慌の結果、乱立していた銀行はかなりの数が整理されました。そして、五大銀行(三菱銀行、三井銀行、住友銀行、第一銀行、安田銀行)の優位性が高まるようになります。

○普通選挙の実施

 普通選挙法自体は加藤高明内閣のときに成立していましたが、選挙が行われたのは田中義一内閣のときでした。
 1928(昭和3)年2月20日に行われた選挙において、無産政党(共産党のように非合法なものを除いた社会主義政党の総称)も候補者を擁立しますが、田中内閣は弾圧を加えるなど露骨に選挙干渉。

 ところが、肝心の立憲政友会が立憲民政党と勢力拮抗(466議席中、政友会:217議席、民政党:216議席)という結果に。一方、無産政党は合計で8名が当選し、田中義一内閣は国会運営のキャスティングボードを無産政党に握られてしまうという結果になりました。しかも共産党が、無産政党の1つである労働農民党から候補者を擁立していたことを知ると、弾圧することにしました。

○治安維持法の改正

 そこで1928(昭和3)年3月1日、治安維持法違反で共産党員ら1568人を検挙し、共産党壊滅を図ります(さらに翌年4月16日にも共産党へ弾圧し、ほぼ壊滅へ)。そして治安維持法の強化を狙い、国会に改正案を提出しますが、世論の反発も強く、審議が出来ないまま廃案、つまりボツになります。

 ところが1928(昭和3)年6月29日、田中首相は勅令(天皇の命令)という形で治安維持法の改正を実現し、最高刑を死刑にしたり、全国に特別高等警察を設置し、弾圧体制の強化を行いました。

○第一次山東出兵

 立憲政友会は、加藤高明内閣、そして第1次若槻内閣の幣原外交を批判していた手前、中国に対しても積極介入します。それでも、最初は慎重策を取り、幣原外交と変わらないではないか!と批難を浴びますが・・・。

 さて、この当時の中国は群雄割拠状態でしたが、その中でも孫文率いる中国国民党、そして1921年7月に結成された中国共産党が次第に勢力を拡大していました(その中に、後に共産党の実権を握る毛沢東(1893〜1976年)もいます)。

 そして孫文は、共産党も国民党の勢力拡大を図る上で重要になると注目し、共産党員が党籍をもったまま個人として国民党に入党することを認めた国共合作路線を決定します(第一次国共合作)。

 さて、孫文が1925(大正14)年に亡くなると、国民党は共産党と決別。また、1926(大正15)年6月に蒋介石(しょうかいせき 1887〜1975年)が国民革命軍の総司令官に就任すると、中国統一を目指して北伐(ほくばつ)を開始します。

 一方、日本は原内閣の時代から中国東北部、満州で勢力を拡大した軍閥の張作霖(ちょうさくりん 1875〜1928年)を支援していました。その勢力は多少の浮き沈みはありますが、奉天(ほうてん、現在の瀋陽)を拠点とし、次第に北京周辺では最大の実力者となり、1927(昭和2)年6月に陸海軍大元帥を自称し、さらなる勢力拡大を狙います。

 このような状況の中、田中首相は蒋介石の北伐に対抗して、約2万人の在留邦人がいるほどの日本権益の拠点の1つであった山東省を守るために、1926(昭和元)年5月28日に中国派兵を命令し、青島に軍を上陸。これを第一次山東出兵と言います。

 このときは蒋介石も国民党内部の権力闘争や共産党勢力の粛清など、北伐以外にも対応することが多く、北伐は中止。日本も出兵に対して内外の批判が高まり、同年8月30日に撤兵することになりました。

○第二次山東出兵、第三次山東出兵

 1928(昭和3)年、体制を整えなおした蒋介石が北伐を再開したことにより、田中内閣は再び中国への出兵を実行。蒋介石も対抗して軍を派遣し、小競り合いの中の末に戦闘に入り、5月3日に日本軍は済南城を占拠します。これを第二次山東出兵と言います。そして戦火拡大に伴い日本は増援を送ります(第三次山東出兵)。


 一方、蒋介石との戦いの末に配色が濃厚となった張作霖は、日本の説得により根拠地である奉天(現在の瀋陽)へ、列車に乗って引き上げを開始しますが、その到着の間近に列車が爆破されて死亡します。



事件現場(京奉線(平奉線)と満鉄線の交差部分)
2つある橋脚のうち、右側は元のままの石組が残っています。
上が、かつての満鉄の路線、下が北京と奉天を結ぶ京奉線(当時)です。現在は京哈線(けいはせん)といいます。

張氏帥府博物館
瀋陽(かつての奉天)に今も残る張作霖の邸宅。1914年に完成し、敷地面積は約3万6000u!!
 犯人は日本の関東軍(満州(=中国東北部)に常駐した日本の陸軍部隊)参謀の河本大作大佐(1883〜1955年)ら。「張作霖は信用できない。蒋介石と手を結ばれる前に殺害し、混乱に乗じて関東軍を出動させてしまおう」と考えたのですが、実際に関東軍が出動するような状況には陥らず、張作霖の息子の張学良(1901〜2001年)は「これは日本の仕業だ。蒋介石と協力し、日本と戦おう」と蒋介石の国民政府に帰順しました。

 田中首相は昭和天皇に対して河本大佐を軍法会議にかけると上奏しますが、陸軍の抵抗によって、河本大佐を軍法会議にかけることなく、行政処分で河本大佐を退役させ、「陸軍には犯人がいませんでした」と上奏します。これに昭和天皇が「軍法会議にかけると言っていたのに、話が違うではないか」と激怒。

 その翌日、田中首相は内閣総辞職を決定。天皇による不信任により内閣が総辞職した唯一のケースとなりました。なお、この事件は日本国内では満州某重大事件として発表され、野党の批判を浴びるも情報が隠蔽されています。


○鉄道の駅とデパートのコラボレーション


阪急百貨店(旧建物)  1929(昭和4)年4月15日、阪急電鉄の梅田駅に阪急百貨店が誕生しました。本格的なターミナルデパートとしては日本初で、大成功を収めました。この計画を推進したのが阪急電鉄創始者で社長の小林一三(こばやしいちぞう 1873〜1957年)。

 小林一三の経営スタイルは、現在の私鉄経営の先駆け的なもので、鉄道沿線で宅地開発を行う、沿線に遊園地をオープン、宝塚歌劇団(当時は宝塚唱歌隊)の設立など、鉄道との相乗効果が期待できる事業を次々と展開しています。この成功を受けて他社も追随するようになり、今のような私鉄沿線の風景が造られるようになるのです。



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