第82回 近衛内閣の成立と日中戦争

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:近衛内閣を参照のこと。

○主な政策

・盧溝橋事件勃発に伴い、日中戦争に本格突入
・国民精神総動員実施要綱を決定
・臨時資金調整法を公布
・日独伊三国防共協定
・国家総動員法公布
・東亜新秩序建設声明


○総辞職の理由

 閣内不一致、新党問題が難航したため

○解説

 元老の西園寺公望が次に首相に推薦したのが、名門貴族の藤原氏の流れを汲む近衛家のプリンス、近衛文麿でした。貴族院議長を務めてはいましたが、閣僚経験は無し。それでも、戦争に突き進もうとする軍部と、これと対立する政党のバランスを上手く取るためには、血筋の良い近衛文麿を・・・という考えだったようです。

 ところが西園寺の期待は、広田首相に続いてまたも裏切られ、この近衛首相によって、ついに泥沼の日中戦争に突入すると共に、国民生活が戦時体制へと変えられていくのでした。ちなみに、その広田弘毅も外務大臣として入閣しますが、ズルズルと軍の方針にひきづられていきます。

○盧溝橋事件

 内閣発足翌月に発生したのが、北京郊外で日中両軍が小競り合いを行った盧溝橋事件(北支事変)です。


盧溝橋

盧溝橋

 7月7日午後10時30分ごろ、演習中の日本軍の部隊に対して何者かが発砲してきたことに端を発したもので、現地の日中両軍では11日に停戦で合意しますが、近衛内閣は事件発生時こそ不拡大方針でしたが、やがて「中国の計画的な武力攻撃だ!」として3個師団が増派を決定。各界の代表を首相官邸に招いて、政府への協力を要請しました。

 無論、この方針には陸軍省や参謀本部の事変拡大派、東条英機を代表とする関東軍(満州に常駐した日本の陸軍部隊)がプッシュしています。さらに満鉄は兵士の輸送や軍事物資の輸送が増えると見込んで戦争の拡大を望み、同様に財界も軍事関連の財政出動による景気拡大に期待を寄せて、この動きを支持します。

 これに対して、同じ陸軍でも満州事変の立役者だった石原莞爾(参謀本部作戦部長)は「対ソ連、対アメリカ戦に向けて、中国とは戦うべきではない」と反対しますが、更迭されてしまいました。

 そして同月末には華北に総攻撃を開始し、北平(北京)、天津一帯を占領します。

○第2次上海事変

 これに対して、上海では激しい抗日運動が起こり、8月9日に虹橋飛行場を偵察中の日本海軍陸戦隊大山勇夫中尉らが中国保安隊に射殺される事件が発生。日本はこれを捉えて、ついに華北を超えて中国全土への侵攻を開始します。一方、蒋介石も日本に対する徹底抗戦を呼びかけます。

 この中で毛沢東率いる中国共産党は国民党と統一戦線を組み、共産党の主力軍は国民革命軍第八路軍を名乗ります。そして朱徳(しゅとく 1886〜1976年)を総指揮、彭徳懐(ほうとくかい 1898〜1974年)を副総指揮官とし、三個師団からなる通称「八路軍」(はちろぐん)は、この後にゲリラ戦で日本軍を苦しめることになります。この八路軍が、現在の人民解放軍の前身の1つです。

 ただこの時は日本軍の勢いが強く、11月に上海は日本の手によって陥落しました。


97式中戦車「チハ」 (中国人民革命軍事博物館 蔵)  1937年に日本が製造した帝国陸軍の主力戦車。ちなみに戦後、人民解放軍が戦後に使用して国民党との戦いで活躍。「功臣号」の称号を得ています。ちなみに、「チ」は中戦車、「ハ」は設計順にイ、ロ、ハ・・・という意味。

○南京大虐殺

 11月20日、蒋介石は首都を南京から重慶に移転することを発表。日本軍の侵攻に備えます。一方、日本軍は新聞各社が南京攻略を煽って報道し、多数の従軍記者を送り込んでいたこともあり、もはや首都ではない南京へ攻撃を決定します。そして12月13日に南京を占領することに成功しました。


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 しかし、この際に数週間にわたって、南京城内外で敗残兵狩りや、一般市民に対する略奪・強姦・放火・虐殺が行われたとされ、海外で報道(日本では一切触れられていません)。戦後、アメリカなどによる極東軍事裁判において、南京攻略戦を指揮した松井石根がA級戦犯として絞首刑に処せられています。

 この南京大虐殺を巡っては、当時から政治的な思惑も絡んでいたこともあり、未だに真相を巡って激しい議論が行われています。そもそも本当にあったのか、無かったのか。あったとして、犠牲者数はいくらなのか?日本軍が侵攻したときに南京にいた人口は?どこまでが市民で、どこまでが中国軍やゲリラなのか?証拠とされる写真は、本当に南京で撮影されたものなのか?

 ・・・考えれば考えるほど非常に複雑な問題です。しかし、なかなか信頼できる資料も無いのが現状です。
 現在の中国では犠牲者数は30万人であるとし、日本の残酷さを示すものとして国内や海外で宣伝を行い、その議論を巡ってたびたび政治問題化しています。

 ここでは南京大虐殺の真相は検証しませんが、この問題に限らず、また戦争に限らず、現代でも自国(自勢力)に有利になるように宣伝、プロパガンダが行われたり、情報の隠ぺい、写真の合成やねつ造、証言のでっち上げなど、激しい情報のぶつかり合いが繰り広げています。多方面から様々な情報を得ると共に、1つ1つ丁寧に情報を検証し、議論していくことが重要であるといえます。

○和平の路を自ら閉ざす

 中国侵攻を進める一方、近衛内閣は和平の道も模索し、ドイツの中国駐在大使であるトラウトマンに仲介を依頼します。ただ、この時点では日本は戦勝ムードで、溥儀を皇帝にした満州国の承認や賠償の要求など、過酷なものを突きつけていました。特に陸軍は強気の姿勢でした。

 これに対し、中国の国民政府では国民党副総裁の汪兆銘が和平受け入れを主張しましたが、激しい反発にあって交渉は先に進めません。すると近衛首相は1938(昭和13)年1月16日に、第1次近衛声明を出し、
 爾後、国民政府(蒋介石政権)を対手(あいて)とせず
 と発表。なんと、自ら戦争終結への道を閉ざしてしまいました。

 一方で11月3日、近衛首相は第二次近衛声明を出して東亜新秩序建設を宣言(日満華連帯による東アジアの新秩序を作る)。これを受けて、国民党の汪兆銘(おうちょうめい 1883〜1944年)、周仏海らは、反蒋介石グループは「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」を条件に、重慶を脱出して日本と接近します。汪兆銘らは蒋介石が共産党と接近することを批判しており、日本との和平を模索していたのでした。

 さらに12月22日、第3次近衛声明を出して近衛三原則を発表。善隣友好、共同防共、経済提携を打ち出しました。しかし近衛内閣は「日本軍の2年以内の撤兵」にはまったく触れず、汪兆銘らはハシゴをはずされた形になりました。

 そして翌年1月、国民党は汪兆銘らを除名すると共に、「漢奸」(かんかん=民族の裏切り者)として激しく批難して結束を強め、日本がもくろんだ国民党の分裂は崩れ去りました。

 これを受けて近衛首相は内閣総辞職を選びました。
 ・・・え、ここでサジを投げるんですか!ということで、我らが日本政府は戦争が勃発しても首相は頻繁に交代します。

○張鼓峰事件

 ところで、日本が対峙していたのは中国だけではありません。
 1938(昭和13)年7月〜8月、ソ連と満州の国境で日本軍とソ連軍が衝突。これは、領土問題を抱えていた満州国東南端の張鼓峰にソ連兵が陣地を構築したことから、現地の日本軍が独断で攻撃をしかけたもので、ソ連、日本共に甚大な被害をこうむったものです。

 結局、リトビノフ外相・重光葵大使間の停戦協定で撤兵して解決しましたが、欧米との戦いに課題を感じさせるものでした。

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○戦時経済へ

 第1次近衛内閣は書くことが山ほどありますね。今度は経済政策のお話。
 盧溝橋事件からの2ヵ月後、1937(昭和12)年9月に臨時資金調整法の公布と、軍需工業動員法を発動します。まあ、難しい法律の名前はさておき、政府は軍事産業を重点的に育てるため、企業の設立や設備投資を行うときに、政府の許可を必要とさせました。

 さらに輸出入品等臨時措置法を公布。政府が不要と判断したものは輸入を制限、禁止にしたり、それを原料とする製品の製造も制限、禁止できるようにしました。

 そして1938(昭和13)年4月には国家総動員法を公布。議会の承認が無くても、勅令(天皇の命令)で人間や物資の動員が可能としました。議会では強い反対がありましたが、軍の圧力でこれを通します。さらに電力国家管理法も公布し、発電設備と送電設備を半官半民の日本発電株式会社の管理下に置き、電力を政府がコントロールできるようにします。

 この戦時経済への移行を企画立案したのが、1937(昭和12)年に設立された企画院でした。


鉄・銅の供出を呼びかける文書 (江戸東京博物館蔵、昭和前期)
日中戦争を開始するも、武器弾薬のための鉄と銅が不足。このように供出が呼びかけられました。