真珠湾攻撃!!

1.はじめに

 現在、ハワイは、さんさんと降り注ぐ太陽のもと日米両国民がバカンスのひとときを憩う場となっています。
しかし、60年前の12月8日、この南の島でくりひろげられた一つの戦いが日米両国に決定的な亀裂を生むことになりました。日本軍による真珠湾攻撃(奇襲)です。 この事件をきっかけに、日米両国による、足かけ4年にわたる太平洋の島々を舞台にした泥沼の戦いの火ぶたがきって落とされたのです。

 なぜ、このような事態に至ったのか、また未然に戦いを防ぐことができなかったのか、これまで多くの歴史家が研究してまいりました。 また、一部の知識人の間では、真珠湾攻撃をル−ズベルト大統領は未然に知っており、アメリカが第二次大戦に参戦するための口実に使われたのではないかという謀略説も唱えられました。

 今回、僕は、真珠湾奇襲をテ−マに調査を進めました。

 それは謎多き、真珠湾奇襲をよりよく理解する作業であると同時に、真珠湾に対する日米両国の識者の認識を確認する作業でした。 それはひいては国際社会に生きる我々日本人の言動はどうあるべきかを考えることにもつながります。
この発表を通じてみなさんと「21世紀を生きる日本人」のありかたを問いたいと考えます。

2.真珠湾攻撃に至るまで

計画の推移について

1941年3月
 山本五十六(やまもと いそろく)大将の発想で、第十一航空艦隊参謀長・大西滝次郎少将(フィリピンで特攻攻撃を発案、終戦の時自決)が発案。実際の研究立案は密かに第一航空艦隊参謀・源田実少佐に命じられた。源田参謀の作った作戦要項が「真珠湾攻撃計画」というパンフレットとなり、山本長官から海軍軍令部から第一航空艦隊参謀長・草鹿少将に渡された。
 この攻撃計画には反対が大きく、第一航空艦隊の南雲長官、草鹿参謀長、軍令部の約半分が反対した。

賛成側の意見
「日本の南方作戦において米太平洋艦隊の勢力は『東からの脅威』であり邪魔である。この攻撃によってその米艦隊全体の志気を下げ、日本の志気を上げることができる。」

反対側の意見
「軍隊は南方作戦の方に集中すべきである。真珠湾の攻撃には賭の要素が強すぎ、うまくいかなかったときには取り返しがつかない。」

山本司令
「真珠湾攻撃は私の信念である」→反対側が賛成側に押し切られる形となる

5月
 源田実参謀を中心として、本格的に研究が開始される。総指揮をとる空母「赤城」の飛行隊長には、源田参謀と親交の厚かった第三航空艦隊参謀・淵田美津夫少佐を任命。この後作戦準備が進み、作戦当日を迎えることになる。

9月
 海軍大学校で図上演習

*問題点
・3000海里を密かに往復することは困難。また洋上での燃料の補給も困難
・真珠湾は狭く浅いので、魚雷発射が困難。
*2ヶ月間の準備
@16インチ砲を爆弾に改造。
A魚雷に側翼をつける安定器を発案
@超低空発射の訓練

作戦の時期は、アメリカ艦隊が週末に入港するので、日曜の朝が良い。機密保持のために、日本政府が最後通告を米国政府に手渡す自国と、真珠湾攻撃の時刻がくいちがうことになり、宣戦布告の前に行われたため、卑劣なだましうちとアメリカ国民を激怒させた。
11月3日
 永野修身海軍軍令部長が、攻撃の実施を決済。これに先立ち、南雲第一航空艦隊司令長官を最高指揮官。33席(空母6隻)の豚磯w編成。

3.真珠湾奇襲直後の報道

12/8(Sun)  7:55  奇襲開始
7:58  終了

13:00   大本営海軍部の発表   
報道部長 平出大佐
「帝国海軍は本八日未明、ハワイ方面の米帝国艦隊ならびに航空兵力に対し決死的大空襲を決行せり」
  ――このころ真珠湾は「千万ドル拳骨」、米太平洋艦隊は「東からの脅威」と言われていた――

18日の発表
『 撃沈 = 戦艦5、給油船1
  大破 = 戦艦3、軽巡2、駆逐艦2
  中破 = 戦艦1、乙巡4
  航空機 炎上450、撃墜14,撃破多数
  格納庫18棟を炎上または破壊 』 つまり空母健在

国民や専門家はこの発表でもはや戦勝気分

実際には、戦艦9隻中2隻しただけで、他は損傷が数隻と言うこと。空母にいたっては無傷である。

4.宣戦布告に関する謎

 真珠湾奇襲をル−ズベルトは知っていながら、日本にわざとやらせたという説がある。研究所でも、所長がこの立場にあたる。そして、これに対する真偽を問う議論は、複雑多岐にわたっている。

○ ただし、この説を肯定する側にも否定する側にも一致している点がある。

(1)ヨ−ロッパでヒトラ−のドイツが勢力を拡大していたが、ヨ−ロッパと互いに干渉しあわないという主義の影響を受けているアメリカ国民は、ドイツと戦おうとしなかった。
(2) ル−ズベルトには、日本がアメリカを敵として参戦してくることは明白だった。日本軍は特異の奇襲を使うであろう。参戦に向けて国内が燃え上がる大義名分として彼はそれを待ち構えていた。実際、彼はその目的を達成している。
(3)ル−ズベルトは、日本の外交暗号の解読から、日本が1941年12月1日を外交交渉の期限と知っており、日本が宣戦布告することを暗号解読により知っていた。

 しかし、ル−ズベルトは真珠湾が攻撃を受けることを知っていたかどうかは、議論が分かれている。この議論において、ル−ズベルトが奇襲を知っていたという説を間接的に支えている根拠の一つである。

 ル−ズベルトの側近が、日独伊三国同盟が締結された後の1940年10月7日に、 日本がアメリカに対して戦争を仕掛けてくるよう挑発するための8項目を提案している。その概要は次の通りである。

(1)と(2) イギリス・オランダと協力し、シンガポ−ルの英軍基地とインドネシアのオランダ軍基地や物資の利用を許してもらう。

(3) 中国の蒋介石の政権に援助を行う。

(4)と(5)と(6) 太平洋・ハワイ諸島のアメリカ艦隊主力を維持し、極東に潜水艦戦隊2隊を、フィリピン・シンガポ−ルのいずれかに巡洋艦一個戦隊を派遣する。

(7)と(8) 石油などに対する日本の要求を拒否するようにオランダを説得し、アメリカも日本に対して全面的に輸出入禁止・通商の禁止を行う。(イギリスはすでに通商の制限を行っている)

 これらを調べたスティネットという研究家は、ABCD包囲網(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)による日本への通商禁止など、その後のアメリカの対日政策がこの文書通りに推移したとしている。

 奇襲用の飛行機を積んだ空母を含む艦隊は、禁止されていたにもかかわらず、多数の無線を発していた。それが傍受されて、無線発信位置から艦隊の位置を推定されていた可能性が高い。或いは解読されていたという説もある。 1941年12月8日の開戦前に、米軍の入手したこの筋の日本海軍奇襲艦隊に関する電報は129件あった。

 別の研究家は、この物証の内、(T)は、ル−ズベルトが真珠湾を攻撃されることを知っていたことと、それを意図的に攻撃させたということを示してはいない。また。彼はこの側近の提案をル−ズベルトが採用した証拠もないと指摘している。

 (U)については、この研究家は、この奇襲艦隊の無線連絡の禁止は完全で、アメリカのつかんだ電文のほとんどは意図的に発した偽の情報だと思われる。その艦隊は、日本近海にいるように無線を利用したが、電波の方向からハワイ付近にいるようにもとれる。そんなに奇襲部隊は多くの連絡用無電をうっていない。

 その他にル−ズベルトが日本攻撃を知っていたとする根拠は、空母を湾外に出していたことがあげられている。

 しかし、いずれも直接的な証拠ではない。ル−ズベルトに関する説は、未だ明白でない。

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