第3回 日本の戦争

担当:八十八舞太郎

○戦の規模はどう変わっていったか

 今回は、戦いの規模の変遷、というのを解説していきましょう。

 昔の戦争、というのは、単なる自己主張の場、みたいなもんでした、軍勢も、「自分はこれだけ味方がいるんじゃ」と見ぜ掛ける感じ、そしてかなわないと思った方が逃ぱ出す、という可愛いものでした。まあ、食物の奪い合いとかになると、生死を賭けた戦いですから皆必死になるんですけど、ね。

 日本なんてのは、昔から「のほほん」とした国でした。海に囲まれているから魚介類は豊富で、わざわざ人の物を分捕ることもない心武器といえば、狩猟のための錆や弓矢くらい砂その頃(縄文〜弥生時代)の外国といえば、お隣の中国は秦の統一から滅亡、そして前漢高祖(劉邦)と楚の項羽の激しいバトル、ヨーロッパではペルシャ戦争にペロポネソス戦争、100年以上続くポエニ戦争…日本がどのくらい平和だったかわかるでしょう。凄いぞ『倭』!

 さて,飛鳥時代になって、ようやく「らしい」戦争が出てきます。ま,戦争というのは所詮人の「欲」が生み出すものですから,欲深い人が出てきたんでしょう。今でもそれは変わらず。人って欲深い愚かなモノですね。クックック・・・。

 当時の戦 (まだ「戦争」と呼ぷには規模が小さい) に使われた軍勢は推定5〜6千人。
 万単位を超すのは平安時代末の武士の登場から。当時一番多かったのが、源頼朝による奥州藤原氏討伐の際、頼朝軍9万人、藤原軍17〜18万人です。倍の差があるにもかかわらず奥州藤原氏は敗北を喫し、滅亡しました。何故でしょうか。

 答えは至極簡単、大将がだらしなかったからです。
 これで大将が名将の誉れ高い源九朗義経だったら、おそらく鎌倉方はコテンパンにやられていたでしょうが、見事、鎌倉方の策略もあって殺されていました。
 *所長注:奥州の兵士の訓練不足もあったようです。

○鎌倉時代の戦い、その作法とは

 さて、ここで、当時の戦いにおける日本の「オキテ」を簡単に紹介しましょう。

 1.先ずは軍使を交換し、合戦の日時、場所を決定する(この時、軍使の安全は保障される)。
 2.当日、両軍が相対し、準備が整ったら宣伝合戦を行なう、代表者が出て自らを名乗り(ヤアヤア我こそは…という、有名なセリフですね)、祖先からの武勲や味方の正当性、相手方の不義をあげる。同じことを相手もする。

 3.矢合わせ参大きな矢尻と笛のついた鏑矢(射るとヒョウ、と音のする二又の矢)を射ち合い、「ワーッ」というトキの声を上ぼる。
 *伝言板での指摘より:みずからの鼓舞と相手への威嚇、あるいは自軍の混乱収拾が目的だったようですね。
 (ここまでは厳粛な『儀式』)

 4.実戦、最初は矢戦といって、互いに矢を打ち合うことから始まる、騎馬武者が敵に近付き、矢を射る。
 5.本格的な乱戦。よき敵に出会えば、組み打ちを仕掛け、勝ったものは首をとり手柄とする。皆さんがよく知っているヤツですね。騎馬戦、を思い浮べてくれればよろし。
 6.戦闘終了。勝者はそろって、勝ちドキをあげる(大将:エイエイ、兵士:オ〜ッ)、

 この手順を踏まないと、「武士の恥」とされましたが、すでに平安末期から違反だらけでした(倶利伽羅峠の戦い、など)。また、元寇の文永の役では、矢合わせの際相手(所長注:元軍)が笑いだした、ということもあったそうです。本当に勝ちたいなら、こんな事をやっているのは非合理的ですね。

 続いて時代は鎌倉末期、天皇方対幕府方の戦いに移ります、この辺は「太平記」を読むとわかりやすいでしょう。
 作品中、一番のヒーローといえば、やはりこの人、楠正成(楠木正成)。千早、赤坂城の戦いでバケモノみたいな活躍をした人です、この時、攻めてきた幕府軍は約百万、対する楠軍は約一千。そして結果は・・・楠軍の勝利です。偉大な人ですね。ま、鎌倉幕府の百万というのは、いくら何でも怪しい数字ですけど。

○室町時代になると、こう変わった

 建武の新政後、再ぴ騒乱が起こったときも、彼は活躍します。そして、播磨国の湊川にて、足利尊氏、直義軍と一戦を交えます。足利軍は陸を行く直義軍約五十万騎、海を行く尊氏軍も同程度、さらに挟み撃ち。対する楠木軍、なんと五百人。

 結果は・・・さすがに負けました。
 ちなみに、この戦いで正成は戦死し、話を元に戻すと、この辺りから徐々に「戦」への参加人数が増えてくるのです。室町時代の一大事件といえば応仁の乱。この時の東西両軍は約十万のイープン。だから長期化します。この時期までは、最長射程は多分弓矢でしょう。

 ところが、ここで一大事件が起きる。鉄砲伝来です。
 鉄砲の射程は弓とは比べものにならないほど長い。

 この辺りから、次第に相手がハッキリと見えないような場所で戦をするようになります。それでも日本の場合,メインはまだ刀や槍といった接近武器が主流でした。そうじゃなかったら,「水戸黄門』を筆頭とする時代劇がつまらないですね。これらは「殺陣(たて)」(簡単に言うとチャンバラ)があるから面白いのぢゃ。ピストルで撃ち合う黄門様御一行・・・。

○幕末、そして明治へ

 問題は幕末〜文明開化、即ち明治時代少し前からです。
 銃が一般化し、戦争において標準装備とされたのです(それで も、兵士は接近戦用のサーベルを持ってましたが)、この時代、科学が物凄い勢いで進歩してきた時代。攻撃のメインが格闘から射撃に移り変わり、「見えない敵」を倒すようになってきます。

 さらに第一次世界大戦で、戦争の悲惨さをイヤというほどわかったハズなのに、それからわずか10年程で第二次世界大戦が勃発、日本は特に後者に於いて本格的な当事者国となります。

 この二つの戦争が,これまでの戦争と決定的に違うのは、戦車、飛行機、毒ガスといった大量殺義兵器が本格的に登場したこと。これまでの武器は、前に書いたとおり「芸術品」としての価値もあったのに、純粋に人を「殺すための」兵器として現れ、その結果、第一次で二千万人、第二次はその倍以上という未曾有の大惨事となったのは御存じでしょう。

 そしてこの後もベトナム戦争、イラク戦争や各地の民族紛争など、今でも各地で戦争が続いています。
 この原稿を打ってる間も、参考文献を読んでいる間にも、相も変わらず必ずどこかで誰かが戦争をしているのです。

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif