
田園調布開発史
今回は、自分の家の近くにあり、そして有名人が多く住んでいることで有名な、田園調布(東京都大田区)。これについて、その元ネタとなった「田園都市計画」を含めて、ご紹介します。
それは、実は「田園都市」という思想に基づいて作られる・・・・はずだったからです。 この、田園都市思想の誕生やその訳語や、その近代都市計画上の性格、内容といったそれらはイギリスのE・ハワードの「明日の田園都市」によって提唱されました。つまり、田園と都市との結婚、豊かな田園の中で働き、生活しようという意味合いです。文字通り、田園都市でした。 一方、日本でもこの考えを評価する声が挙がり、ぜひ作ってみようと言うことになりました。それが、この田園調布なのですが・・・・・。 ハワードの田園都市思想と日本における田園都市思想とはかなりのずれが生じる結果になりました。あくまで日本の田園調布は、ベッドタウンなんですね。家はここにありますが、田園調布で働くわけではなかったのです。日本的に換骨奪胎されたのです。
田園調布開発を考える前に、その背景となる明治時代の東京の人口が郊外へ移った歴史をご説明しましょう。
こうして東側は、映画「男はつらいよ」の柴又のような職住同居または接近した商工業の町へとなっていきました。こうしたことから、今日の「西高東低」といったものは田園都市計画などの「近代化」の帰結であったと思います。
次に田園都市計画の代表とも言える田園調布についてご紹介しましょう。田園調布は公職を退いた明治の大実業家・渋沢栄一(1840〜1931年)が中心となり、その息子渋沢秀雄が社長となった田園都市会社その始まりで、矢野恒太(第一生命保険の創業者)と、関西での宅地開発の成功者の小林一三(1873〜1957年 阪急グループで有名)が助っ人となり開発していくことになっていきました。 まずは田園都市会社が最初にとりまとめた「田園都市案内」というパンフレットから開発の意図をご紹介。 最初に田園都市の思想という所で、「東京市といふ大工場に通勤される知識階級〜」と田園調布は豊かな労働者のために造られ、現在のニュータウン繋がる住宅地に使用とするのがみられ、現在の高級住宅地にするつもりはなかったように思えます。が、まあ結局は高級住宅地になってしまいました。 またこの段階では、田園と都市との結婚というE・ハワードの色濃く残っていました。そして自分が一番ここで驚いたのは、」洋風建築の所で、自分は田園調布の開発そのものが洋風の住宅地にすることだと思っていたのに、「洋風住宅のご希望の方々を一カ月に縮めて洋風建築を造へます」とあるように、お客の様々なニーズに応えるために洋風建築をするつもりだったのです。 田園調布の街づくりで渋沢秀雄は、田園都市の元祖のイギリスよりも、サンフランシスコの郊外のセント・フランシス・ウッドという街が気に入り、さらにパリの凱旋門のエトワール式道路をモデルにしたそうです。そこで自分も田園調布に行ってみたら、駅・噴水を中心にして広がっていく街並は、美しく、奥深さがあって、先が見にくいカーブのある道路は何か好奇心を抱かせました(写真上:所長撮影)。
次に前にも書いた、なぜ田園調布が高級住宅街へとなったかについて。建設当時から、高級住宅地に近い状態だったのですが、実際に本当に高級住宅地になったのは最近。それはなんといっても東京周辺の地価の高騰が、田園調布の高級化に一層拍車をかけました。 |