田園調布開発史

○はじめに

  今回は、自分の家の近くにあり、そして有名人が多く住んでいることで有名な、田園調布(東京都大田区)。これについて、その元ネタとなった「田園都市計画」を含めて、ご紹介します。

1.「田園都市」って何だ?

 田園調布と申しますが、一体何で「田園」なんでしょう??
 それは、実は「田園都市」という思想に基づいて作られる・・・・はずだったからです。

 この、田園都市思想の誕生やその訳語や、その近代都市計画上の性格、内容といったそれらはイギリスのE・ハワードの「明日の田園都市」によって提唱されました。つまり、田園と都市との結婚、豊かな田園の中で働き、生活しようという意味合いです。文字通り、田園都市でした。

 一方、日本でもこの考えを評価する声が挙がり、ぜひ作ってみようと言うことになりました。それが、この田園調布なのですが・・・・・。 ハワードの田園都市思想と日本における田園都市思想とはかなりのずれが生じる結果になりました。あくまで日本の田園調布は、ベッドタウンなんですね。家はここにありますが、田園調布で働くわけではなかったのです。日本的に換骨奪胎されたのです。

2.増えた人口は西へ行くが・・・


田園調布の当時のマップ。
江戸東京たてもの園にて。所長撮影。
 田園調布開発を考える前に、その背景となる明治時代の東京の人口が郊外へ移った歴史をご説明しましょう。

 当時、東京郊外では田園調布を代表する高級住宅地、最近では多摩ニュータウンのような住宅地が西に集中しています。ところが江戸時代は、浅草などの下町があった東側の方が人口は多く、発展しており、西は寂れた状態。わざわざ住もうなんて考える江戸町民はいるわけもなく、今とは逆の状態でした。

 ではどうして逆になってしまったのか?
 江戸の東西を比較してその理由を見ていきますと、昔の西側は板橋や渋谷、目黒などを起点として扇状に開いた丘陵地だったそうです。またその台地は、「黒ぼく」と呼ばれた真っ黒な土壌で、畑やススキの原野や雑木林が散在し、そこに区切るように多摩川が走っていました。

 一方東側では、荒川にたくさんの舟が常に往来し、商工業や文化が発達していったそうです。多摩川は舟の往来がしにくい場所だったので、西側は東側の賑わいぶりは比べようのないほどの淋しさだったと思えます。そして時は明治となり、人口が増加し、おのずと人々が郊外へと出てきました。

 しかし、この増えた人口をどこに住まわせればいいか??
 そこで、これまで農業が不向きで見捨てられていた西側が注目されました。更に西側の土地は「高燥の地」であり、そのため宅地の整備も低コストでできるという利点もありました。そして整備が行われ、後は住民の足となる鉄道もできていきました。田園調布の場合、ここの開発を担当した田園都市会社目黒蒲田電鉄(東急の前身)を設立しています。

3.職人は東へ

 こうして西側のあちらこちらで発展し、仕事と生活との分離に成功した西側に新しい時代がやってきました。これに対し従来の地域、及び少し東側は工業化が本格化します。東京湾に面し、船の往来の盛んな臨海地滞は工場の立地としては最高と言え、また発展していきましたが、当時の職人の労働条件からして、遠方からの通勤は嫌がったようです

 こうして東側は、映画「男はつらいよ」の柴又のような職住同居または接近した商工業の町へとなっていきました。こうしたことから、今日の「西高東低」といったものは田園都市計画などの「近代化」の帰結であったと思います。

4.田園調布の開発


 次に田園都市計画の代表とも言える田園調布についてご紹介しましょう。

 田園調布は公職を退いた明治の大実業家・渋沢栄一(1840〜1931年)が中心となり、その息子渋沢秀雄が社長となった田園都市会社その始まりで、矢野恒太(第一生命保険の創業者)と、関西での宅地開発の成功者の小林一三1873〜1957年 阪急グループで有名)が助っ人となり開発していくことになっていきました。

 まずは田園都市会社が最初にとりまとめた「田園都市案内」というパンフレットから開発の意図をご紹介。

 最初に田園都市の思想という所で、「東京市といふ大工場に通勤される知識階級〜」と田園調布は豊かな労働者のために造られ、現在のニュータウン繋がる住宅地に使用とするのがみられ、現在の高級住宅地にするつもりはなかったように思えます。が、まあ結局は高級住宅地になってしまいました。

 またこの段階では、田園と都市との結婚というE・ハワードの色濃く残っていました。そして自分が一番ここで驚いたのは、」洋風建築の所で、自分は田園調布の開発そのものが洋風の住宅地にすることだと思っていたのに、「洋風住宅のご希望の方々を一カ月に縮めて洋風建築を造へます」とあるように、お客の様々なニーズに応えるために洋風建築をするつもりだったのです。

 田園調布の街づくりで渋沢秀雄は、田園都市の元祖のイギリスよりも、サンフランシスコの郊外のセント・フランシス・ウッドという街が気に入り、さらにパリの凱旋門のエトワール式道路をモデルにしたそうです。そこで自分も田園調布に行ってみたら、駅・噴水を中心にして広がっていく街並は、美しく、奥深さがあって、先が見にくいカーブのある道路は何か好奇心を抱かせました(写真上:所長撮影)。

5.田園調布の超高級化と現在


  次に前にも書いた、なぜ田園調布が高級住宅街へとなったかについて。建設当時から、高級住宅地に近い状態だったのですが、実際に本当に高級住宅地になったのは最近。それはなんといっても東京周辺の地価の高騰が、田園調布の高級化に一層拍車をかけました。

 東京周辺は、昭和50〜昭和60年の間に地価が10倍の値上がりをします。こうした異常事態の理由は、企業の本社ビルの移転、拡充。さらに外国企業の流入により東京に人が集まり、そして需要が高まる。その上に不動産屋の投機買いが殺到し、こうした結果になったそうです。

 このことが、田園調布の深刻な問題、草分け住人の流出が生じました。その理由は地価の高騰によって相続税が跳ね上がったことでした。田園調布は高級住宅街なのに高い塀の家が少なく、低い垣根の家が多く、また色々調べていても、戦争時代を経て、横の繋がりがとても強い住宅地でそれらが今崩れていっているそうなのです。

 私は住民あっての住宅地であり、またそのコミュニティがその街の色となっていくのだと思います。せっかく作られた「高級住宅街なのに下町のような温かい住宅地」を社会や第三者によって壊されていくことはとても悲しいことです。

 この問題は田園調布に限らず理由は様々あるとはいえ、こうしたコミュニティの崩壊は各地で問題となっていると思います。こうした伝統のコミュニティ社会は変貌していくと思います。そして21世紀の新しい都市コミュニティは、そして都市文化はどのように構築されていくか。このことが今後の日本の住宅地の大きな問題の1つでしょう。

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