第4回 田園調布開発史

担当:さすらいの関西人

二、増えた人口は西へ行くが・・・


田園調布の当時のマップ。
江戸東京たてもの園にて。所長撮影。  田園調布開発を考える前に、その背景となる明治時代の東京の人口が郊外へ移った歴史をご説明しましょう。

 当時、東京郊外では田園調布を代表する高級住宅地、最近では多摩ニュータウンのような住宅地が西に集中しています。ところが江戸時代は、浅草などの下町があった東側の方が人口は多く、発展しており、西は寂れた状態。わざわざ住もうなんて考える江戸町民はいるわけもなく、今とは逆の状態でした。

 ではどうして逆になってしまったのか?
 江戸の東西を比較してその理由を見ていきますと、昔の西側は板橋や渋谷、目黒などを起点として扇状に開いた丘陵地だったそうです。またその台地は、「黒ぼく」と呼ばれた真っ黒な土壌で、畑やススキの原野や雑木林が散在し、そこに区切るように多摩川が走っていました。

 一方東側では、荒川にたくさんの舟が常に往来し、商工業や文化が発達していったそうです。多摩川は舟の往来がしにくい場所だったので、西側は東側の賑わいぶりは比べようのないほどの淋しさだったと思えます。そして時は明治となり、人口が増加し、おのずと人々が郊外へと出てきました。

 しかし、この増えた人口をどこに住まわせればいいか??
 そこで、これまで農業が不向きで見捨てられていた西側が注目されました。更に西側の土地は「高燥の地」であり、そのため宅地の整備も低コストでできるという利点もありました。そして整備が行われ、後は住民の足となる鉄道もできていきました。田園調布の場合、ここの開発を担当した田園都市会社目黒蒲田電鉄(東急の前身)を設立しています。

三、職人は東へ

 こうして西側のあちらこちらで発展し、仕事と生活との分離に成功した西側に新しい時代がやってきました。これに対し従来の地域、及び少し東側は工業化が本格化します。東京湾に面し、船の往来の盛んな臨海地滞は工場の立地としては最高と言え、また発展していきましたが、当時の職人の労働条件からして、遠方からの通勤は嫌がったようです

 こうして東側は、映画「男はつらいよ」の柴又のような職住同居または接近した商工業の町へとなっていきました。こうしたことから、今日の「西高東低」といったものは田園都市計画などの「近代化」の帰結であったと思います。


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