第5回 上・中・下屋敷の違いは?

担当:裏辺金好
●はじめに  はじめに・・・なんて書くほどのものではありませんが、今回のテーマは江戸時代に大名達の江戸における住居として建設された上屋敷とか、中屋敷とか、下屋敷とか・・・、コレってどういう違いがあるのか?それをご紹介します。

 その前に、まずこの区別が出来た背景から。
 江戸幕府成立初期は、大名達は、将軍からもらった土地に豪勢な屋敷を建てて競い合っていたのですが、三代将軍家光の時に参勤交代が制度化すると、それに即した屋敷にする必要に迫られ、再配置を行います。

 そして明暦3(1657)年に起こった大火。明暦の大火ですが、この時に幕府の都市計画の下、危険分散の観点から幕府がこの基準を設けて大名屋敷を配置し直したと言うことです。では、具体的にどういう基準にしたのか、見ていきましょう。


1.上屋敷とは?  まず、この上中下の簡単な区別基準ですが、江戸城から見た距離を指します。つまり、江戸城に一番近いものが上屋敷となります。 そして。ここに大名とその家族が暮らしました。上屋敷の敷地は幕府から拝領したもので、当然、居住のための屋敷の他、 庭園などの娯楽施設を備えていたり、また江戸で仕事を行うための役所、さらには江戸在住の家臣の住む長屋も設けられました。

 ちなみに、左が大名屋敷の名残として名高い、東京大学本郷キャンパスに残る、御守殿門(赤門)。元の加賀前田家上屋敷の門ですね。


2.中屋敷とは?  中屋敷は、当然上屋敷と下屋敷の中間に位置する屋敷ですが、これも江戸城近く、外堀外苑に配置されました。後に嫡子が住んだり、ご隠居様が住む屋敷として機能していきますし、その他、下屋敷も含め、国元から参勤交代で殿様に従ってきた人達が居住。ちなみに彼らは勤番と呼ばれ、半年〜1年の任期で滞在。単身赴任です!

 ちなみに、熊本藩の中屋敷。細川家の屋敷で、ここで忠臣蔵で有名な大石内蔵助以下17名が切腹しています。その殿様である浅野内匠頭が切腹したのも中屋敷。彼は、東北の一関(いちのせき)藩田村家の中屋敷で最期を迎えたのです。

 また、九州の中津藩の中屋敷。ここは安政5(1858)年、福沢諭吉が蘭学塾を開き、慶應義塾の第一歩を踏み出した発祥の地なのです(その後、蘭学塾は慶應4(1868)年に芝新銀座に移転し、元号を取って慶應義塾となります)。また、先ほどの加賀前田家は駒込に所有。

3.下屋敷とは?  下屋敷には色々な機能があります。一つは、大名の別邸。郊外に建てられ、例えば加賀前田家は平尾(板橋)に所有していました(ちなみに下屋敷は複数あることもあります)。板橋は当時は相当江戸から離れたへんぴな場所です。都会の喧噪を離れ殿様もリラックスしに行ったのでしょうか? ちなみに、江戸の下屋敷中でも最大級の規模だったとか。また、先ほどの本郷上屋敷は、もともとは下屋敷としてスタート。その後、今までの上屋敷が火災で燃えたこともあり、また下屋敷とは言えかなりの規模があったことから、正式に移転したのです。

 話がずれましたが下屋敷には、上屋敷などの食料を運ぶために菜園が設けられたり、海岸に設置された下屋敷では荷揚げ場として利用されていたりもします。ちなみに「下屋敷」という言葉は、何も江戸だけではなく地方でも上級藩士が別邸として作ることもあります。ですから、いまも○○下屋敷跡という建物が残っていたり、地名に「下屋敷」というのを持つ市町村があります。

 なお、加賀藩の場合は江戸で売買・消費する米を収納した蔵屋敷というものが深川黒江町にありました。
 

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