第8回 皆川周太夫・八王子千人同心と蝦夷地調査物語

担当:大黒屋介左衛門

4.山脈を越えた男

 当時蝦夷地は道路などほとんどありませんでした。
 松前藩の本拠地のある渡島半島はまだしもずっとほっとかれた東蝦夷地はアイヌの人々が日常使う獣道に毛の生えたような踏み分け道しかなかったのです。この東蝦夷地にも『場所』はありましたが、ここを支配する商人たちはみな廻船業者、船で十分事足りたので港さえあればよかったのです。

 彼らが用があるのは海産物、内陸の交通などホントにどうでもよかったんですね。それでも寛政11年には幕府領となったので最上徳内近藤重蔵などの手により広尾〜 幌泉(現えりも町)間は道路が開かれ、一応日高〜十勝間の連絡通路はあったのです。

 ですが当時道路の開削が始まったのはいずれも海岸線沿い。これではダメなんです。幕府が東蝦夷地を直轄化したのは国防上の理由です、艦船で容易に攻撃が可能な海岸線の 道だけでは不十分なんですね。また箱館もしくは松前から東蝦夷地に向かうのに海岸線沿いのルートを使うと日高山脈が襟裳岬に突き出ている分迂回路になります。

 開拓を円滑に進めるにも、商業振興のためにも、戦略上も東蝦夷地への最短路、つまり日高山脈を横断する道が必要でした。 そこで幕府蝦夷地御用取締掛松平信濃守忠明は勇払に駐屯する原新助に命令を下し、新 助は配下のものから意志強健、身体堅固、土木工事・開発に通じた、識見優れた人物を選んだと思われます。

 やっと登場、それが皆川周太夫なのです。
 寛政12年旧暦8月移住隊の駐屯する勇払を出発した周太夫は十勝川河口を目指します 。9月13日十勝川河口ヲホツナイ(現大津)に到着とありますから陸路で行ったみたい ですね。というかこの時代の人はよほどのことがない限りどこまでも自分の足で歩いて いったみたいです。

 この時代の和船はマスト一本の横帆船、ジブもスパンカー(注6)も ないので、切り上がり性能(帆船がどれくらいの角度で風上に進めるかを示す)が悪く風 待ちで何日も待たされることしばしばでした。また肋骨材も竜骨も隔壁も甲板(注7)も ない構造(要するに樽みたいな構造)で船体が非常に弱く、天測航法も海図もなく全て経験と記憶が頼りというとんでもなくあぶない乗り物だったんですね。

 話を戻します。
 ヲホツナイからは十勝川の川筋に沿って十勝平野を北上します。17、8泊を要してヒトマップ(現上川郡清水町人舞)に至り、ここからおそらく十勝川支流沿 いに日高山脈山越えを開始、一週間ほどかけて沙流川流域に入ります。この山越えルー トが現在の国道274号線日勝峠と重なると考えられます。そして沙流川沿いを南下、ヲホツナイ出発から33日目にサル会所(注8)に到着します。その後は一山越えて鵡川 流域に入りいったん上流へ北上したようですが引き返して流域を南下、駐屯地勇払へ戻 ります。10月28日勇払よりシコツへ入り、サツホロへ、道々石狩川、千歳川を見聞 し、今度は豊平川沿いに山を越え11月21日虻田に到着します。  一息に全行程を書きましたが、当時のことを考えると大変な旅だったと思われます。

 何度も述べてますが当時の蝦夷地はろくな道がなかったのです。いやこのルートには民家 もないところもありますから道があるところはまだましだったのかもしれません。道中 アイヌの人々の道案内もあったでしょうが旅の困難は想像を絶します。これは清水町史に出ていた昭和の日勝峠開削のための測量調査のことですが、「藪を分け入るのに密生 する身の丈ほどのクマザサを刈ると緑の葉の裏はダニで真っ赤だった。夕方になると蚊 やブヨの大群が襲ってきて生の松の葉を燃して前が見えなくなるほどいぶさねばならな い。」 というようなことが書かれていました。ぞっとしますね。

 もっとも彼が日高山脈を越え たのは晩秋あるいは初冬でしたが、それならそれで、冬眠を前に食欲旺盛状態の熊に襲 われる可能性が高くなったり、寒さとの戦いになったでしょうね。日高山脈は1000 m級の山が連なってます、当然冬の到来は下界より早いです。また、彼は川に沿って山 に入ってますが川筋は非常に冷え込みます、北海道弁で言うとしばれます。ホントあきれるほどすごい人です。

 さて彼の踏査行を私の推定で現在の道路と合わせると 国道38号〜国道274号(日勝峠)〜国道273号〜道道穂別鵡川線〜国道235号〜 国道36号〜国道230号(中山峠)といったところでしょうか?あるいは235号と3 6号のあいだに国道276号〜道道支笏湖線が入るかもしれません。ですがこれ驚いた ことに現在の北海道の主要路線ですよ。まったく彼の慧眼の鋭さには脱帽しますね。

 次章では寛政12年12月に出された彼の調査報告者を見てみたいと思います。

注6・・ジブとは船の舳先とマストの間に張られたロープに張られる帆、スパンカーと は船尾などに取り付けられる縦帆、これらがあると船の取り回しが楽になる。
注7・・竜骨とは船の背骨に当たる部分、そこから肋骨状に延びる材が肋骨材、隔壁と は船の仕切り板のこと、たくさん仕切ることでたとえ水漏れしても船全体にいきわたり にくくなり沈みにくくなるし当然頑丈になる、甲板は船の床板。
注8・・交易所のことらしい。



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