第8回 皆川周太夫・八王子千人同心と蝦夷地調査物語

担当:大黒屋介左衛門

5.皆川報告書


 皆川周太夫の探検は物見遊山が目的ではありません。
 上役からの命令で目的を持って成 されたのですから報告書を書くのは当然です。で、その目的とは報告書の文面から蝦夷 地内陸の調査と交通網の整備のための下調べ、その工事の見積もりの作成でした。

 報告書の内容は
 @報告書前文、踏査行旅程、蝦夷地交通の現状と新ルート開発案
 A虻田〜十勝海岸部の新ルート工事見積もり
 B新ルート運送見積もり
 C十勝川〜沙流川間(日勝峠)開削見積もり
 D十勝川流域図(旅程付図) となっています。

@「原新助殿以被仰付候・・」の文から始まるので、ここから皆川周太夫が勇払隊の原 新助を経由して命令を受けたことがわかります。 さらに踏査行の旅程が続きますがこれは前章で述べたことで大体あってると思うので割 愛。 次は蝦夷地交通の現状と新ルート案ですが、これはじぶんのたどった道にしかるべく工事を施し、伝馬・川舟を運行させれば現状のルートよりはるかに使いやすく、早く、し かも産業振興・開拓推進になると書かれてます。

 その内容を列挙しますと 一.日高〜十勝間は山脈を横断するほうが安全で、川舟を通せば海岸沿いを行くより早 い。虻田から豊平川、千歳川を経て勇払に至る間は2里の間に100〜200軒の畑作 農家ができるのに差し支えないところである、ここも川舟を通せば海岸沿いより倍早い 。

 ・石狩川を北上すると千歳川沿いのルートより近い道があるという者があったが調べていないのでわからない、千歳川沿いのルートの開発がなった後にこの話がもし本当な ら横往還として開発すると東西の往来はさらに活発化するだろう。

 ・日勝峠より見ると十勝は一面広大な平野である。ここを通る道を作り、開発すれば 根室、国後、択捉、宗谷まで往来が楽になるだろう。 といったところだと思います。 A新ルート、つまり、虻田〜豊平川〜千歳川〜勇払〜沙流川〜十勝川〜十勝川河口のル ートの開削工事見積もりです。 ここでは十勝川は流れが急だから河口近くの支流をひとつ堰き止め港を作ったほうがよ いとか、人夫・職人をどこからいくらで何人雇えばいいとか、旅籠・会所をどこに何軒 作ればいいとか、川にはどんな船を何艘いくらで作ればいいとか、などなどすぐにも工事を実行に移せるかのような細かい内容です。
BAで示された工事がなったあかつきの荷物運送にかかる日数の見積もりです。 ここもかなり細かい。
C日勝峠開削見積もり。ここも人夫・職人、牛馬、宿泊施設、資材などかなり細かい。
D蝦夷地内陸を現した史上初の地図だそうです。十勝川流域の地名、アイヌの民家の数 など示されています。流域の地名はその後の調査と合わせてもほぼ合致するそうです。 地図とは言うものの我々のよく知る正確な地図とは一線を画するものですね。
何度も繰り返していますが非常に細かい内容の報告書です。報告書はそれぞれ結びに日 付と自分の名が記されてますが、日付は寛政12年12月となってます。彼が踏査行の 終着点虻田に着いたのは寛政12年11月21日、一月あまりでこれだけの報告書が作 れたとは驚異的としか言いようがないです。

 しかしこの報告書は実行に移されることはありませんでした。 歴史が彼をしてその名を風化させ、伊能忠敬最上徳内近藤重蔵間宮林蔵高田屋嘉兵衛、そして58年の後に蝦夷地内陸に入った松浦武四郎、彼らの名を残したのはこ の一件に尽きるのかもしれません。

 これは幕府が財源を確保できなかったのか、この見積もりを非現実的と断じたのか、そもそもはなからやる気がなかったのかは解りません。ともかくこの計画で実行された のは十勝川河口の工事のみで、日勝峠の開通にいたってはこれから165年後の昭和4 0年のことです。
 ちなみにこの章は報告書の原文を活字に直したものを私が自分で意訳したものなので正確さには疑いの余地があることを付記しておきます。

6.皆川周太夫という男〜あとがき〜

 皆川周太夫は一般にはまったく知られていないといって過言はないと思います。 私がこの名を知ったのは「日勝峠 歴史」とネットで検索して初めて知りました。 それから北海道史を調べてもわずか数行、各市町村史を調べてもやっとこ数ページ・・ 。 生没年、生国、身分何一つわからぬ謎の男です。
 もちろん、私の調査不足や能力不足もあります。ですが、道史・市町村史の彼に関する参 考文献は多くて二つ、千葉小太郎さんの「寛政日勝道路考」『郷土十勝3』と菊池新一 さん「蝦夷地「八王子千人同心」史序説2」『多摩文化15』という30年ほど前の文献です。

 私が本稿を書こうと思ったきっかけは所用で釧路へ向かった際に通った日勝峠の景観か らでした。沙流川上流域の深い谷あいの猫の額ほどの土地をくねくね曲がりながら進む 道、巨木がおいしげ昼なお暗く、両脇は垂直に近い崖でところどころ岩がむき出しにな っている、いったいここに道をつけようと思った物好きは誰だろうと思ったのがそれで す。 そうして調べているうちに私の住む鵡川町とゆかりのある八王子千人同心の名が出てき て私はすっかりこの男に夢中になってしまいました。  そんな彼の実在が疑わしいところがあるのは悲しいことです。もし何か情報をお持ちの方はぜひおしらせ願いたいところです。これからも暇を見て彼を追っていきたいと思います。また、何か情報やご意見のある方は zan10213@nifty.com までメールを宜しくお願いします。

【参考文献】
千葉小太郎「寛政日勝道路考」『郷土十勝3』
菊池新一「蝦夷地「八王子千人同心」史序説2」『多摩文化15』
新北海道史
苫小牧市史
帯広市史
八王子市史
鵡川町史
日高町史
清水町史
北海道開発庁50年史 他八王子千人同心関係文献数冊

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