
北海道の時代区分(2) 恵山文化担当:大黒屋介左衛門
その範囲は渡島半島から石狩低地帯に主に広がってました、もちろん時代によって範囲は限定されますが。 『恵山』の名は1940年名取竹光によって発掘された国指定史跡恵山貝塚に由来してます。この遺跡では縄文晩期とそれより新しい時期の特徴を持つ土器が検出されこれを恵山式と命名しました。しかしこの発掘成果は戦中戦後の混乱で1960年に一部が紹介されるのみで詳細は不明のままこの時期の土器の総称として一般化してしまいました。ですが、1953年に名取と峰山巌らによって発掘が指揮された白老町アヨロ遺跡やその他良好な遺跡の発掘等により大筋で編年が確立するに至ってます。
前回でもちょっと触れましたが基本的に続縄文文化では縄文以来の狩猟・採集・漁撈をメインとしたスタイルです。ただ、この中で特に狩猟・漁撈に重点が置かれていることに特徴があります。このことは当然恵山文化圏でも通用するわけで具体的には日本海岸の海蝕洞窟や噴火湾岸に多数の貝塚が残されてること、出土品における釣り針、銛といった漁撈具の検出が縄文晩期に比べ増えていること、動物解体用と目される定型的な石製ナイフが多数見つかってること、遺跡の立地がより海岸砂丘に位置する割合が増えている傾向が見られることなどがいえます。 こういった考古学的見地のほかにも理化学的な分析からもそのような傾向がありまして、人骨をアイソトープ分析にかけてたんぱく質の由来となる食物を調べたり、他にも検出された歯の虫歯の割合を調べたりしてます(植物のでんぷん質を多く摂取するスタイルの食生活は虫歯の発生リスクが上がりやすいという研究結果があるのだそうです)。
・佐渡島産碧玉→碧玉製管玉 ・南海産貝製装飾品 ・鉄製品 ・土製紡錘車 ・土器 碧玉製管玉や貝製装飾品は主に土壙墓に副葬した状態で検出されます。ただし貝製装飾品は伊達市有珠モシリ遺跡などに例があるだけで数としてそう多いものではありません。碧玉製管玉はその分布がわずかな例外を除いて石狩低地帯以西に集中しています、また単に装飾品としてだけでなく東北地方における意図的な破砕や剥離といった祭祀儀礼に似た痕跡も認められることから祭祀道具としての性格もあって広く流通したと推察することができます。そして碧玉製管玉の分布に重なるように鉄製品が検出されています。これは碧玉製管玉と鉄製品をもたらしたのがともに南方の弥生文化ではなかったかとの憶測も可能ではないかと思います。 次に土製紡錘車は東北北部からの流入品と見られ、やはり出土例は少ないもののこの遺物の存在は糸をつむぐ技術が本州から入ってきたかもしれないことを示唆しています。最後に土器ですがはじめに説明したように恵山式土器は東北北部との強い関連性が指摘されてます、これも先に述べてますが縄文の昔から津軽海峡は彼らにとって絶対の障壁とはなってません、確か函館のほうの方言には津軽海峡を「しょっぱいかわ」なんていう方言があったとも聞きますしね。 土器に関しては他に伊達市オヤコツ遺跡から検出されたある無頚壺が注目されてます。この壺は器種、文様、胎土の肉眼観察の結果在地の土器の可能性が否定され、東北北部の田舎館式そのものではないかと見られてます。よそから土器が搬入されること自体はぜんぜん珍しくない、むしろよくありますが、この場合注目を引いたのは今は何もないこの壺が持ち込まれたとき中に何が入っていたかです。 しょっぱなに説明したとおり田舎館式のある時期東北北部の一部地域では稲作が行われていました。そう、この中に入っていたのは『コメ』かもしれないということなんですよ。ま〜調理に利用するわけでもない壺に何が入っていたかなんて憶測の域を出るはずもないですけどね、そこはロマンってやつってことで。 (補足) 羅臼町植別川遺跡では、銀装飾を持つ鉄製品が検出されてます。その時期の本州の弥生遺跡では銀製品の検出がまだない時期なので樺太や大陸北方からの流入と見られてます。このように北方ルートからの鉄製品の流入もないわけではありません。 北方由来
恵山文化は指呼の距離まで水稲耕作文化に近いところにありながら、それを受け入れませんでした。それは気候と技術の限界かもしれませんし、彼らにとって必要性を認められないものだったのかもしれません。そもそも飛び地のように突如花開いたような印象を与えるものですし、それが果たして定着し続いていったものなのかは疑問の残るところです。 ですがこの文化に触れたことによって近隣には大きな影響を与えたのではないかと思います。白老町アヨロ遺跡ではこの時期唯一ではありますが井戸状の遺構が検出されてます、それまでは湧水点の近くや河川といった水資源の有無が集落を形成する上で重要でしたがこのような技術があればもっと自由度が増します、またそれまで自然をそのままに受け入れることが大前提であった中で自ら積極的に自然に働きかけるという発想はとてもショッキングなものだったかもしれないと思います。 とはいえ彼らが生業の中心に捕らえたのは従来どおり、あるいは従来以上に狩猟と漁撈に依存していました。それだけ豊かな自然が目前に広がっていたのでは投下労働力の割に収穫の望みの無い水稲耕作はさほど魅力的ではなかったのかもしれません、むしろそうした農耕民との交易上彼らとは違った生産物(交易品)を提供することのほうが取引上有利だったんでしょうか?
さて次回は石狩低地帯から非常に広範囲に広がった江別太文化について紹介します。 |