4回 ロマノフ王朝〜女帝の時代〜

●女帝の時代
 後継者を指名しなかったピョートル大帝。
 その跡を継いだのは、なんと妻のエカテリーナでした。彼女はロシア初の女帝です。しかし混乱が続き、37年間に6回ものクーデターが起こり、4人の女帝と3人の皇帝がめまぐるしく入れ替わります。このうち女帝エリザヴェータはモスクワ大学を創設した他、七年戦争でオーストリア・フランスと手を組み北ドイツにあるプロイセン王国フリードリヒ大王と戦い、ベルリンの占領に成功します。ところが、プロイセン王国を降伏させる、あと一歩のところで彼女は死去してしまいます。

 そのため、エリザヴェータの姉・アンナの息子、すなわちエリザヴェータの甥にあたるピョートル3世が即位します。
 しかし、彼は元々ドイツで生活していたこともあり、ご近所のフリードリヒ大王のファンで、彼と講和を結んでしましました。

 実は、アンナの結婚相手がドイツのホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリッヒという人物で、何事もなければ、ピョートル3世はドイツのホルシュタイン大公として、ドイツで生涯を終えるはずだったのです。

 彼の妻も、ドイツ人でした。ドイツ時代の名前をゾフィー・フォン・アンハルト・ツェルプスト、ロシア名をエカテリーナという名前の女性でした。つまり彼らは、ドイツ人夫婦だったわけです(もっとも、エリザヴェータの命令によって結婚させられましたし、彼女の出身地は現在はポーランド領)。しかし、2人の取った行動は正反対。

 エカテリーナは夫とは逆に、頑張ってロシア語を学び、ロシア宮廷の中にとけ込み、ロシア人貴族達のハートをガッチリつかむことに成功。この不甲斐ない、さらにドイツかぶれの皇帝に対し、貴族、さらにギリシャ正教会からも不満の声が上がり、さらに、どうやらピョートル3世はエカテリーナを離縁する、と言っていたそうです。

 そこで、エカテリーナは近衛師団と手を組み、ピョートル3世を追放(のち、彼は殺害される)。そして、エカテリーナは女帝として即位します(エカテリーナ2世 位1762〜96年)。
 彼女はオスマン・トルコと戦う一方、国内においては啓蒙君主を目指し・・・たはずが、いつの間にか貴族の利益を代表するようになってしまいます。そこで民衆が蜂起。プガチョフの反乱です。彼女はこれを徹底的に弾圧し結局啓蒙君主とはなりませんでした。どうもヨーロッパ風で格好良いと思って宣言してみたけど面倒くさいわ、という感じみたいです。

 ちなみに、ポチョムキンの提言でクリミア半島をロシアの要塞にし、黒海艦隊を創設。さらにエカテリーナ2世はボリショイ劇場を創設し、エルミタージュ美術館の基礎をつくるなど、ロシアの近代化に少なからぬ貢献をしました。

●ポーランド分割
 ところで、彼女の時代に、ポーランドは3回にわたって分割され尽くされます。元々はプロイセンの方が積極的で、エカテリーナとしては、当初は保護国化を考えていたようです。しかし1763年に即位したポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキという、長ったらしい名前の元・エカテリーナの愛人は、中央集権化を進め、ポーランドの国力増強を謀る。

 これでは飼い犬に手をかまれることになり、黙って放っておくわけにはいきません。そこで第1回分割がプロイセン、オーストリアと共謀して行われ、これによってポーランドは国土と人口の30%を喪失しました。
 何故ポーランドがあっさりこのような事態を迎えてしまったのでしょうか。
 それは、単純に言ってしまえばポーランドの貴族に問題があったのです。なんと彼らの議会は1人でも反対が出ると流会、つまりお流れになるのです。こんな状況では何も決まりません。しかし、この第1回ポーランド分割後、さすがに改革の動きを見せます。憲法を制定し、三権分立という行政・司法・立法をバランス良く配置するシステムを構築。

 ですが、この動きをロシアもプロイセンも放っては置かない。
 2度目、そして1795年の3度目の分割で、ついにポーランドは消滅させられます。
 こうして、ロシアは東ポーランドを支配下に治めました。これに対し、愛国者コシチューシコ(コシューシコ)らが反乱を起こしますが失敗に終わっています。そして1830年7月にも革命が起こるのですが失敗しました。

●おろしや国酔夢譚
 彼女の在位中、日本から大黒屋光太夫という漂流民がやってきます(この時の漂流民は他にもいましたが大半が死亡)。彼はシベリアに留め置かれた後、何とか帰りたいと思い、エカテリーナ2世にお願いをたてます。エカテリーナ2世も、これを機会に日本と貿易をしようと考え、彼を送還するついでにラクスマンを派遣することを決定。こうして、大黒屋光太夫、それから他の漂流民のうち磯吉、小市も日本に送還されます(小市は根室で死去)。
 ところが江戸幕府は貿易する気などない。ラクスマンは追い返され、折角帰ってきた大黒屋光太夫らも「ロシアでの生活のこと話すでないぞ」とまあ、監視付きの生活となり不幸な生涯を遂げました。ロシアで仕入れた思想や政治体制を喋られるのを、幕府は恐れたのです。

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