7回 最後の皇帝ニコライ2世とレーニン達

●ニコライ2世の即位
 ロシア帝国最後の皇帝となるニコライ2世。彼は26歳の時、父・アレクサンドル3世の死を受けて即位しました。そして、彼はドイツのヘッセン・ダルムシュント大公の娘でイギリスのヴィクトリア女王の孫娘にも当たるアリックス(アレクサンドラ・フョードロヴナと改名)と結婚します。

 ちなみに即位の3年前、ニコライは日本を訪問し、滋賀県大津市で巡査の津田三蔵に斬りつけられるという、大津事件に遭って負傷してしまいます。そのため、その後予定されていた殆どの仕事をキャンセルする羽目に。ただし唯一、欧米と対抗すべく造るシベリア鉄道の起工式@ウラジオストクには、威信がかかっているので参加しています。


 さて、彼を支えたのはウィッテ(1849〜1915年)蔵相。ニコライ2世とウィッテは、フランスから資金を借り入れ、ドイツから機械を購入し、ロシアの工業化とシベリア鉄道の建設を推進します。さらに外資の導入も促進した結果、1900年にはロシアの鉄鋼生産が世界第4位、産油量が世界の半分を占めるようになりました。

 また1894年(明治27)7月〜95年4月、日本と中国の清が戦争し、清が敗北(日清戦争)。この時日本が清から割譲させた遼東(リャオトン)半島をめぐって、ウィッテはドイツ・フランスと手を組み日本に圧力をかけ、遼東半島獲得を日本に断念させ、代わってロシアが中国から租借することに成功します(三国干渉)。しかしこのため日本国民に、「ロシアめ、今に見ていろ・・・」という臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の念を植え付けてしまい、のちに日露戦争へとつながる要因の1つとなります。いなみにウィッテは、その日露戦争後のポーツマス講和条約締結時に、ロシア側全権代表を務めたことでも有名です。

●レーニンと社会主義者達
 一方その頃、社会主義者達の活動が盛んになります。例えば社会主義者のレーニンという人物は、シベリア流刑中に「ロシアにおける資本主義の発達」を著すなど、社会主義者としての活動を盛んにします(ちなみにレーニンは本名ではなく、この頃官憲を欺くためにつけた変名です。彼の本名は、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフ。妻は同盟メンバーで、この頃結婚したクループスカヤ)。

 また1896年、首都の綿業労働者達は労働時間を10時間30分に短縮する法律を定めろとゼネストが起こります。その結果、要求は完全には認めら得ませんでしたが、翌年に11時間30分に短縮する法律が誕生します。そのほか、レーニン、マルトフプレハーノフらは、国外に出ると新聞「イクスラ」を刊行。さらにそのほか、ナロードニキ(エスエル党社会革命党、テロの奨励&農民社会主義を目指す)や農民達による政府要人殺害も起こりました。文部大臣ボゴレーポフや内相シピャーギンがその標的となりました。

 そして1903年夏。
 バクーで始まったストライキは南ロシアに波及。この中で政党の結党も進み、同年、レーニンらによるロシア社会民主党が、その第2回大会で正式結党されます。ところが、早速内部で路線対立が起こります。それは、レーニンが労働者(プロレタリアート)からなる職業革命家によって、つまり精鋭で革命を起こそうと主張するのに対し、プレハーノフらは中産階級(ブルジョワ)と強調すべきだという2つの路線です。

 レーニンの方が多数派で、この派閥をそのまま直訳でポリシェヴィキ(多数派)、プレハーノフらをメンシェヴィキ(少数派)と言います。路線対立は第1次世界大戦まで続きました。

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