六代将軍 徳川家宣
将軍在位 1709(宝永6)年〜1712(正徳2)年 父:徳川綱重 母:お保良 弟:松平清武
・漢文で書かれた武家諸法度を和文に直し、体系的に整理し直し ・幕府有利の裁判を改め、公正さを求める ・朝幕関係の融和をはかり、閑院宮家を設立。従来皇子は全て出家することになっていたが、これを改めることに。
というのも母お保良は、綱重が手をつけた侍女。綱重は、正室は関白二条光平の娘をもらい、彼女に産ませた子に跡を継がせようと考えていたようである。ところが、なかなか男児は生まれず、結局、のちの家宣を後継者として取り戻し、四代将軍家綱から一字を貰い、綱豊と名乗らせた。そして、綱重は35歳の若さで死去したことから、綱豊は甲府25万石を相続、その後35万石に加増された。 ところで、綱吉には早世した徳松以外男児が生まれず、娘の鶴姫が紀州藩主徳川綱教(吉宗の兄)に嫁いでいたので、そこに生まれた子を後継者にしようと考えていた。ところが、子が出来ないまま綱教も鶴姫もほどなく死去。こうして、綱重に将軍後継の座が回り、家宣と改名したのである。 そして1709(宝永6)年、綱吉が死ぬと六代将軍となり、綱吉の下で大権をふるった柳沢吉保はお役ご免(ただし、家宣を後継者に推挙し、さらに吉保自身あっさりと身を引いているため、その後も厚遇)とし、また悪評高かった生類哀れみの令を、綱吉の遺言を無視して廃止した。この時、生類哀れみの令によって捕まった8000人以上が釈放されたと言われる。 こうして、家宣は側近の間部詮房、学問の先生である新井白石を中心とした体制を敷き、政治を行った。 業績は上にあげたとおりだが、残念ながら治世3年で死去。残念。 なお、家宣にまつわるエピソードから2つ。 家宣が将軍就任すると、幕臣から「庶民は落首や狂歌などで幕府を批判している。厳しく取り締まるべきでは?」と進言されたが、「そう言う批判の中にこそ、重要なことがある」と一蹴している。立派。 また、新井白石の学問を、よほどのことがない限り毎日欠かさず拝聴し、その勤勉ぶりは新井白石が舌を巻くほど。 |