九代将軍 徳川家重


●徳川家重 基本データ

 生没年 1711(正徳元)年〜1761(宝暦11)年 51歳
 将軍在位 1745(延享2)年〜1760(宝暦10)年
 父:徳川吉宗 母:お須磨の方 弟:徳川宗武(田安家) 徳川宗尹(一橋家)
 息子:徳川家治 徳川重好(清水家)
 

●業績

 ・とくにないが、側近が無難に仕事をこなす。
 ・農民一揆の多発により、関係者の処罰を大規模に実施。
 ・徳川吉宗時代に配置された、年貢増徴型代官から、農政重視型代官へ交代。

●考察・エピソード

 元々言語不明瞭だったが、成長するにつれ飲酒癖が悪化し、さらに言語不明瞭に(まあ、これは泥酔によるものだろうが)。
 彼の言葉を唯一理解できたのは、大岡忠光という、大岡越前忠相の親戚であったという。

 徳川吉宗は、流石にこの家重を後継者とすることにためらいがあり、しかも弟の宗武は聡明であったため、何度も廃嫡を考えたようである。また、老中の松平乗邑は宗武擁立のために大奥で、7代将軍家継母の月光院を取り込む、京都に働きかけるなどの運動をした。しかし、家光の時にも持ち出された「長幼の順」を曲げて後継者争いを起こさせるわけにはいかず、さらに家重の母で、吉宗が若いときに恋し、家重を産んで直ぐに亡くなった須磨の方への想い、また家重の息子の家治は利発だったことなど(この時点では、だが)、様々な要因の結果、家重に将軍職を譲ったのである。

 ちなみに、この時の家重の恨みは深かったようで、松平乗邑は罷免。徳川宗武も3年間登城停止処分となり、以後2人が顔を会わせることはなかったという。なお、松平乗邑罷免については、吉宗の判断があったという説もある。

 さて、家重は何もしなかったが、側用人制度を復活させてしまったとして悪名高い。・・まあとは言え、吉宗時代にもお側取次役という名目で、加納久通、有馬氏倫の2名が配置され、とくに有馬氏倫の権力は絶大だったようだから、そんなに目くじらを立てる必要のないとは思うが。

 1760年に家重は亡くなるが、彼は跡継ぎの家治に「田沼意次の能力は高いから是非使いなさい」と遺言。田沼意次については、評価が2分されているが、私は意次を高く評価しているので、大岡忠光の登用も含め、案外家重の人物眼は人並みに+α程度はあったのではないかと推測している。

 余談だが、鷹狩りを好んだ父と違い、とにかく引きもりな家重さん。しかも、江戸城から上野の寛永寺へ行くだけで23カ所も便所を設けなければならなかったそうで、「小便公方」と揶揄されたとか。

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