十一代将軍 徳川家斉


●徳川家斉 基本データ

 生没年 1773(安永2)年〜1841(天保12)年 69歳
 将軍在位 1787(天明7)年〜1837(天保8)年
 父:徳川治斉(一橋家) 母:お富の方 弟:徳川斉敦 徳川斎匡(田安家)
 息子:徳川家慶 徳川斉順(紀伊家) 徳川斉明(清水家4代) 徳川斉荘(田安家) 池田斉衆
     松平斉民 徳川斉温(尾張家) 松平斉良 徳川斉彊(清水家5代) 松平斉善 蜂須賀斉裕
     松平斉省 松平斉宣
 

●業績

 ・将軍自身が退廃的な生活をおくったため、締め付けが緩くなった町人の間で化政文化が花開く。
 ・業績ではないが、水戸家以外、多くの徳川・松平一族を自分の息子で固める。

●考察・エピソード

 はっきり言ってどーしようもない将軍。他にも家重など、困った将軍様はいたが、家斉は50年間も将軍の座に就き、更に4年大御所として絶大な権力をふるい、大奥に山ほどの女性を侍らせ莫大な経費が発生。さらに多くの子供を産ませたため、多くの持参金を持たせて養子に出したり、嫁にやったりし、大名家の中には、この持参金目当てで家斉から養子を迎えたところもあったほど。それだけ金額としてはでかいわけで、大奥関連の経費は幕府に膨大な負担を強いた。

 早死にした子供を含め、なんと55人も子供がいたそうである。このスケベめ。

 それでも初期は松平定信を登用し、寛政の改革が行われたが、大奥関連の経費を大幅削減したことから疎んじ、さらに自分の父に大御所の名を与えようとしたところ、定信に「将軍ではないと大御所にはなれない」と猛反対され、一方朝廷でも、同じようなことをしようとした光格天皇に対し反対。プッツンときた家斉は松平定信を解任してしまった。

 その後しばらくは松平定信の息のかかった松平信明らが改革路線(といっても、寛政の改革は復古主義・保守的だが)を継続。しかし松平信明が病死すると、側用人だった水野忠成を老中首座に据え、松平定信が禁止した「賄賂」を公然と認め、奨励。必要経費には貨幣を改鋳し、乱発して対応し、もちろんインフレが発生した。

 ただし、そんな将軍様の治世でありますから、インフレ問題を除けば庶民への圧迫は少なく、化政文化が花開く(ゴージャスで退廃的との評もあるが)。庶民から見れば、なかなかの将軍様だったかも。実際、次の家慶の時、老中水野忠邦は随分とまあ、風紀規制、贅沢品禁止などで庶民を締め付けましたから・・・。

 そんなわけで、幕府改革の面からではダメ将軍だが、見方・視点を変えれば、また評価も変わってくるわけである。

 家斉引退の2ヶ月前に発生した、大塩平八郎の乱は、幕府身内からの反乱と言うことで大きな衝撃を与えたが、大御所となった後も家斉とその側近、その代表格、水野忠篤美濃部茂育(もちなる)、中野清茂らによる退廃は止まらず、「大御所時代」と呼ばれた。この時、日本にはモリソン号など外国船が多く到来。いよいよ激動の幕末を迎えるに当たり、家斉は幕府に多大なる借金と弛緩を残しこの世を去った。69歳。将軍にしては家康、慶喜に継ぐ高齢である。

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