十一代将軍 徳川家斉
将軍在位 1787(天明7)年〜1837(天保8)年 父:徳川治斉(一橋家) 母:お富の方 弟:徳川斉敦 徳川斎匡(田安家) 息子:徳川家慶 徳川斉順(紀伊家) 徳川斉明(清水家4代) 徳川斉荘(田安家) 池田斉衆 松平斉民 徳川斉温(尾張家) 松平斉良 徳川斉彊(清水家5代) 松平斉善 蜂須賀斉裕 松平斉省 松平斉宣
・業績ではないが、水戸家以外、多くの徳川・松平一族を自分の息子で固める。
早死にした子供を含め、なんと55人も子供がいたそうである。このスケベめ。 それでも初期は松平定信を登用し、寛政の改革が行われたが、大奥関連の経費を大幅削減したことから疎んじ、さらに自分の父に大御所の名を与えようとしたところ、定信に「将軍ではないと大御所にはなれない」と猛反対され、一方朝廷でも、同じようなことをしようとした光格天皇に対し反対。プッツンときた家斉は松平定信を解任してしまった。 その後しばらくは松平定信の息のかかった松平信明らが改革路線(といっても、寛政の改革は復古主義・保守的だが)を継続。しかし松平信明が病死すると、側用人だった水野忠成を老中首座に据え、松平定信が禁止した「賄賂」を公然と認め、奨励。必要経費には貨幣を改鋳し、乱発して対応し、もちろんインフレが発生した。 ただし、そんな将軍様の治世でありますから、インフレ問題を除けば庶民への圧迫は少なく、化政文化が花開く(ゴージャスで退廃的との評もあるが)。庶民から見れば、なかなかの将軍様だったかも。実際、次の家慶の時、老中水野忠邦は随分とまあ、風紀規制、贅沢品禁止などで庶民を締め付けましたから・・・。 そんなわけで、幕府改革の面からではダメ将軍だが、見方・視点を変えれば、また評価も変わってくるわけである。 家斉引退の2ヶ月前に発生した、大塩平八郎の乱は、幕府身内からの反乱と言うことで大きな衝撃を与えたが、大御所となった後も家斉とその側近、その代表格、水野忠篤、美濃部茂育(もちなる)、中野清茂らによる退廃は止まらず、「大御所時代」と呼ばれた。この時、日本にはモリソン号など外国船が多く到来。いよいよ激動の幕末を迎えるに当たり、家斉は幕府に多大なる借金と弛緩を残しこの世を去った。69歳。将軍にしては家康、慶喜に継ぐ高齢である。 次のページ(十二代将軍 徳川家慶)へ 前のページ(十代将軍 徳川家治)へ |