第3回 インドネシアの初期国家
東南アジアの歴史って本当によく解らないことばかり。参考文献によって言っていることがまちまちだったりします。ですから、ここでも、あれ、おかしいなという部分が掲載されています。例えば、アンコール朝の成立時期とか。さて、今回ご紹介する2つの王朝(シャイレーンドラ朝、シュリーヴィジャヤ王国)は、本当によく解っていません。実は、同じなのかそうでもないかすら解らないのですから。
そんなシャイレーンドラ朝ですが、8〜9世紀には、中国とぷっつり交信が切れ、代わって古マタラム王国という国がジャワ島を中心に登場します。古いという字がつくのは、16世紀にもマタラム王国が登場しているための区別です。
![]() さて、それからしばらくしてシュリービジャヤ地域は中国側の文献には三仏斉という別の名前で登場してきます。これがシュリービジャヤと同じ国なのか、昔はそうだ、と言われていましたが、現在はシャイレーンドラ・シュリーヴィジャなども含めた15カ国・地域からなる連合国家であったと考えられています。995年にこの地を訪れたアラブ人のマスウーディーは「膨大な数の人口と兵力を有している」と驚きの言葉を書き残しています。 やはり三仏斉も貿易で大いに発展。シュリービジャヤと同じ支配領域を有します。一方、古マタラム王国は、東に再び遷都し、クディリ王国となります。東に遷都した理由は天災によるものだ、などど言われていますが理由は不明です。しかし、突然990年に三仏斉に侵攻。これが失敗におわり、1016年には反撃を喰らって滅亡してしまいました。 ところが、インドのチョーラ朝が東南アジア貿易を独占しようと1017年、1025年にマレー半島に侵攻。三仏斉の王は捕らえられてしまいます。そこで一度滅亡したクディリ王国は、これを機会にアイルランガという人物により再び独立を果たします。この王は復興のみならず経済の発展に大きく貢献しました。 そしてクディリ王国は、彼の死後に一時的に分裂しますが、ほどなく統一され、コショウ・香木などを輸出し、インドの金属器を輸入しました。その裕福さはアッパース朝に次ぐものだ、と周去非という中国人は「嶺外代答」という自著の中で述べています。 ですが、結局はこれも長続きせずケン・アンロックという人物に滅ぼされ、彼はシンガサリ王国を建国します。この王国は第5代王のクルタナガラ(位1268〜1292年)の時、衰退著しい三仏斉を支配下に置き、ジャワからマレー半島までの広大な領域を支配します。 と、そこに厄介な敵が。それは、中国を統一した元のフビライによる侵攻です。最初、服従を要求されましたがこれを拒否。よって開戦です。ところが、なんとクルタナガラ王は、クディリ王国の末裔を名乗る反乱軍によって殺されました。そこで、王の娘婿で有力者のウィジャヤは、元軍を利用して反乱を鎮圧。 そして、1293年にマジャパイトで王位に就き、マジャパイト王国を建国するのです。当時、細々と命脈を保っていた三仏斉はこの国によってとどめを刺され滅亡しました。
紀元前に、ここに移住したインド人達が大麦を植えたことか来ているとか。もっとも、実際には大麦ではなく、キビを植えていたという説もあります。 一方のスマトラの語源についてはよく解っていません。 サンスクリット語の「サムドラ=大海」ではないか?と推定されていますが・・・。 また、インドネシアという言葉は19世紀ドイツの民俗学者バスチャンが、地理用語としてインドに、島の国を表すnesia(ギリシャ語のnesos=島と、地名を表すia)をくっつけたものです。インドネシアは約250年間、オランダの植民地として、東インドと言われていましたから、この様な名称になりました。 そして独立の際、オランダに配慮してインドネシアが国号に選ばれたそうです。 次のページ(第4回 11〜18世紀概論)へ 前のページ(第2回 古代〜約10世紀の大陸部国家)へ |